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「風車にまつわる安全童話」


   


     6月 13th, 2011  Posted 2:05 AM

太陽発電は太陽からの恵み。
風が吹いたら風車が回れば、
風という自然現象から、
電力を得ることが可能です。
日本の折り紙で風車(かざぐるま)、
シンプルで、美しいかたちがあります。
伝統的な童具と言っていいでしょう。
この日本列島には、三種類の風が吹いています。
山からの風、
海からの風、
そして、瀬戸内海の風です。
日本は揺れ動く4枚のプレートに乗っている列島であり、
そのプレートがとてつもなく大きく変動しました。
今回、きっと地球の形すら変えたのかも知れません。
その揺れ動く上にある発電所は、
規模が大きければ大きいことで大変な被害を及ぼします。
原子力発電はもはや完全否定されようとしています。
私も納得できます。
それなら、風力発電が代替エネルギーということです。
しかし、私は、この列島に風車が回っている、
まさにこの風景には、納得しかねるのです。
理由は単純です。
これも、技術開発にもっともっと創意工夫が必要です。
風車・プロペラなどはもっと形態開発が必要です。
風が吹けば、それだけで電力が得られるという話は、
きわめてシンプルで、子供にも理解と納得できる、
童話に繋がっているでしょう。
しかし、風力発電=安全かという論証はまだ未定であり、
想定すべき風力発電の内容が不完全です。
少なくとも、新しいプロペラのかたち、
そして発電機の新たな形式を開発すべきでしょう。
私には、まだ風力発電は「安全童話」です。
だから、これにもデザイナーの提案が必要です。


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「ソーラー発電は安全寓話」


   


     6月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

寓話というのは、動物の生態を借用。
処世訓や教訓などを動物や自然観を
主人公にした話であって、
物語性は無いものと私は思っています。
寓話といえば、
「イソップ物語」が代表的であり、
この物語は、文字として書き残されるのは、
自然から学び取った記録としての動機があったからです。
私が、ソーラー発電や太陽光発電を「安全寓話」と呼ぶ、
その理由は、主人公は太陽であり、
まさしく、太陽という自然の恵みだからこそ、
自然と人間が極めて調和し安全という幻想話だからです。
もっと批判的に発言すれば、
太陽の恵みを受けるという幻覚と幻想、
それは実際、ソーラー発電素子という人工物は、
確かに、自然と人間との調和感を与えている印象に、
安全性と信頼性があるかのように思えますが、
もっとも工業的・産業的には、
まだまだ開発要素があり過ぎると私は判定しています。
実際問題としては、
産業投資効果は、ソーラーパネル素子生産には、
二つの大欠陥が残っています。
● 素子生産に、莫大な電力量を消費します。
  10年使用するには、3年分の電力が必要です。
● まだ、単結晶からアモルファスなど材料決定が困難。
つまり、発電効率の割には生産投資が回収できない。
結局、メーカー利益回収が困難な消費財生産物なのです。
だからといって、私はソーラー発電否定派ではありません。
もっと創意工夫が多大に残されているということです。
よって私は、まだ寓話=自然からの教訓的話に過ぎず、
「安全寓話」の対象でしかないとだけは発言しておきます。
しかし「安全神話」という誤魔化しは無い訳です。
私はすでにまったく新たな光起電力素子のあり方と、
インダストリアルデザイン対象として直視しています。


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「公共投資策に明け暮れる代議士たち」


   


     6月 11th, 2011  Posted 12:00 AM

人類が初めて知った放射能被曝は、
原爆投下攻撃されたわが国の被曝体験。
そして、
チェルノブイリ原発事故。
しかし、この事故をわが国の現実には、
それほど重ねてきたとは思えません。
私も「チェルノブイリ森」を詳細に知ろうと思ったのは、
今回の震災・津波そしてにフクシマ原発事故でした。
チェルノブイリ森では食物連鎖で、
動物たちの内部被曝が進行しています。
結局、人間の住み処は壊滅してしまったわけです。
この現実をフクシマに当てはめる事態を回避すべきです。
そのためには東日本復興には、
代議士たちの「公共投資」風習が
おそらく反復されると推測します。
復興に対して国会議員たちの党利党略が、
この反復戦略づくりに明け暮れていることに呆れます。
おそらく巨額な復興支援費が要請されるはずです。
確実な「公共投資」は、
政府主導のケインズ的な経済政策ですが、
これがわが国の地域と代議士との富の再配分でした。
日本的資本主義の政風習システムと言っていいでしょう。
この投資がきわめて不透明なことであることを、
もうすっかり私たちは熟知しています。
さらにこれからの日本的な資本主義が崩壊していること、
すなわち、復旧・復興が、
これまで流「公共投資」で成功するわけがありません。
だから、代議士たちには、
被災した人々や原発事故被害者は不在なのです。
あたかも「チェルノブイリ森」を
フクシマに持ち込んだようなものです。
彼らへの支援ではない、代議士たちへの富の再配分を
私たちは厳しく監視していかなければなりません。
というより、もう日本の政治に国会議員は不要です。
ちょうど震災から三ヶ月過ぎ去りました。


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「100年・1000年に、一度は人間非在」


   


     6月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

金融危機。
100年に一度という定説。
しかし、資本主義経済体制は、
景気循環説として、修正復興により、
必ず修復ができると言われています。
しかし、1000年に1度と言われた大震災・津波は、
まったく「修正プログラム」を人類は持っていません。
私たち日本は、この1000年に一度を体験しています。
この天災に留まらず、
「フクシマ原発事故」には参考資料があります。
1986年・チェルノブイリ原発事故の歴史性です。
もっとも、その時の情報は隠匿されていましたが、
今ではそれなりに確認できます。
フクシマはその事故の70 分の一程度が放射能汚染とか、
私はこの数値比較はまったく見当外れだと思います。
それでも人類にとっては、大変貴重な判断材料です。
ここから徹底的な対策案を考え出す必要があります。
ところが、現政権はこの歴史性を無視しています、
そして学識者もジャーナリズムもこの詳細を無視です。
日本のシステム復帰は、少なからず、
チェルノブイリ原発事故から学び取るのが賢明です。
声高喧噪のまま、原電事故ゆえに原子力反対は、
浅知恵過ぎるとしか私には思えません。
チェルノブイリ原発事故時には、
乳幼児・小児、そして地域住民への避難対策を検分し、
十二分に参考にするべきでしょう。
そして事故後25年、「チェルノブイリ森」という場での、
自然体系・被曝地帯での動植物異常性にこそ、
これからのフクシマ、そして日本の自然環境見直しの
基本的条件があるものと判断します。
脱原発と同様にこの事態回顧を熟考すべきでしょう。
私なりには、「チェルノブイリ森」は人間が居ないこと、
よって、自然体系は即回復しながらも、
人間を遠ざけているという事実が気がかりです。
自然体系は、人間非在を求めているのかもしれません。


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「メタリック文明だったことの見直し」


   


     6月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

東京のイメージ。
かつてインドからの留学生、
彼女は一言で「メタリック」、
瞬間的な言葉でした。
この言葉に凝縮されています。
日本の象徴都市、敗戦後からの文明成果です。
今回、東日本大震災と原発事故についての論評は、
敗戦以後の経済、政治、原発に集約された、
日本システムへの見直し論はほとんど批判論です。
しかし、ある高名な評論家の言説には、
明治維新で捨て去った伝統的な日本観までの遡及、
文明開化・脱亜入欧・富国強兵・平和憲法に及ぶ論考に、
私は感動しました。
「メタリック」は、
特にプロダクトデザインにとっては揺るぎない表面装飾。
ある意味では決定打的表皮仕上げです。
56豪雪時に私はふるさと福井に帰りました。
翌春、早速出かけたのが敦賀半島のあの原発でした。
直観的に、007映画に登場する敵対相手の住み処でした。
「絶対に、見られてはならないことが行われている」、
この印象から、あらためて原子力に向かっていきました。
福井の自宅はたまり場になりました。
新聞社やTV局の記者さんがよく出入りしていました。
彼らですら、原電事故取材は「じゃんけん」で決める、
というぐらい事故ともなれば近づきたくない存在でした。
原発が「メタリック」な代物とは言い難いですが、
以来、私は、「建設」という手法の曖昧な仕上げのモノは、
信用できないという思考結果になりました。
やはり「生産」するモノの精度感には信頼性があります。
その後、核燃料サイクル機構から持ち込まれた発想を
デザインで支援するには、
「建設」から「生産」を第一義にしました。
超小型発電「機器」のデザインを阪大の原子力技術で、
デザイン意図に技術的背景での理論化が可能でした。
まだまだ課題は残されていますが、
私の中では「安全神話」などは信じていませんでした。
だからこそ、
ソーラーパネルを「安全寓話」と呼び、
風力を「安全童話」と私は断言できます。
地熱発電も「建設」では決して最適解答にあらずです。
要は、自然は人間が消費するのエネルギー量を、
決定しているのかもしれません。
「メタリック」という表皮的な文明が望んできたこと、
徹底的な見直しが必要になったということです。


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「神話・寓話・童話にエネルギーは無い」


   


     6月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

もっと真実を。
権力の構造が最大恐怖です。
その権力の機能性も性能性も壊滅です。
それにも関わらず効能性を、
権力は維持存続させる権力が残存しています。
だから、もっと真実を、
かってロシアンアバンギャルド時代に、
マヤコフスキーは、「もっと形態を」と言って、
自死を選びました。
ロシア革命先導者たちの権力への抵抗でした。
「もっと新しい形態を、号泣が聞こえてくる」、
これが彼の辞世の言葉です。
さて、ドイツ・イタリアが脱原発を宣言しました。
いづれも敗戦国家です。
この国際的裏側の真実に真っ直ぐなまなざしが必要です。
「安全神話」で原発は推進しました。
結果、安全神話で原子力技術を台無しにしました。
私は、次ぎには、
「安全寓話」にソーラー発電があり、
「安全童話」に風力発電があると結論づけています。
代替エネルギーに、太陽と風があるという物語、
太陽には、日食と月食があり、
風には、暴風雨が待ち受けています。
「風景」の根幹に位置する太陽と風との調和、
そのような調和など幻想だと思います。
ソーラー発電にも風力発電にも、
原子力技術の応用が絶対に必要です。
なぜなら、人類の科学と技術に潜んでいる真実の知恵、
やっとたどり着いたかも知れない本当のエネルギーに、
真実近づくには科学からの知恵だと私は確信しています。
神話・寓話・童話の中に、
エネルギー手法はありえない、と思っています。
「もっと真実を」、
効能だけを温存している権力からはぎ取るべきでしょう。
3ミリシーベルト内でも次世代を置き去りは駄目です。
20ミリシーベルトOKという権力は打倒すべきでしょう。


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「光景は風景が制御している」


   


     6月 7th, 2011  Posted 12:23 AM

生と死は光景です。
この光景を日常化すること、
それを近代文明は出来るだけ、
避けてきました。
文明が最も忌み嫌った事、
それはこの光景だったと私は思っています。
だから、文明の基本を集落、
現代都市社会の基盤に配置したのは、
水と火をいかに見えなくしてしまうかでした。
けれども自然がもたらす、水と火はまさに自然現象です。
この自然現象を風景と呼んでいます。
中国の古典的解釈は、
風景=彗星・日食・月食・暴風雨です。
まさしく風景画という言い方は、曖昧過ぎます。
風景の要素は、人間の生死を制御します。
風景こそ、光景を人間に与える最大の不幸だったのです。
実際は「幸不幸」という言葉が、
人間に差し向けられた二項択一問題だったわけです。
風景には人間の生死を瞬時に決定する途轍もない力、
人間には制御不可能な力=エネルギーがあるわけです。
今回、震災よりも津波の力は甚大でした。
それも引き津波の大きさです。
幸不幸は、生ある者は幸であり、
生きられず死に至る者は不幸というのが、
本来の意味でした。
果たして、人は、日常の背後にこの光景が潜んでいます。
大震災・津波は、自然の風景力そのものであり、
自然と人間の調和というのは、
あるいは、風景画という曖昧さや風景の寓話で、
死を遠ざけてきたのでしょう。


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「最大の国難とは・・・」


   


     6月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

議院制民主主義が見えない。
これが今最大の国難です。
革命などは時代遅れでしょう。
そしてわが国では不可能です。
しかし、大震災津波・原発事故。
わが国は戦後最大の危機です。
無念ながら、国政・現政権への期待は皆無です。
私たちが革命など起こしている場合でもありません。
それなら、新たな「地方独自」の体制創出が必然です。
福井大震災時に「条例」という地方から、
その地方行政においてのみ有効な法案が可能です。
東京・現政権は政党政治のみ議院制になっています。
知事会・市町村の首長、特に被災地の知事と市長村長、
そして専門官僚で、この事態からの救済と復旧です。
もはや、議員制民主主義での国政では、
日本自らが鎖国し、国際関係から離脱し、
日本は地球上で破滅し破壊しボロボロになって、
漂流しなければならない事態になってきました。
被災地には、大都市からの行政支援が知事指示によって、
被災地行政にあたっています。国政には出来ない事です。
それすら現政権は権力を纏った妨害装置になっています。
今の日本に国政はまったく不要なのです。
やはり、市民運動家から生まれた首相では、
全くその指導力・リーダーシップは無いのです。
私は市民運動家が民主主義を破滅させ、
民衆主義を拡大させたと判断しています。
よって、今わが国の国難とは、
議委員制民主主義が破滅してしまったことです。
しかし、被災地救済復興と原発事故復旧は
緊急事態であり、その指導は「条例」によって、
相当のスピードで展開させなければなりません。


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「反多数決=メタ・デモクラシーへ」


   


     6月 5th, 2011  Posted 12:16 AM

民主主義を超えるべき。
生まれたときから、
すでに自然と民主主義の中。
多数決が民主主義の前提、
これが基本原則ではありませんが、
最大多数の最大幸福も、
このイデオロギーに包まれているものということが、
すっかり身体化して生きてきました。
しかし、
デザインを進めていくとき、
私は「多数決」での決定は、絶対に避けます。
以来、民主主義が本当に正しいのだろうか、
この疑念と懸念を常に引きずっています。
そして、もはや結論を明確にしておきたい考えています。
「超・民主主義」あるいは「メタ・デモクラシー」、
こうした思考結果としてのイデオロギーが必要でしょう。
たとえば、私がデザインを提案したとき、
大方の人たちのそれも客観的な評価が、
「いいデザイン」という評価をいただいたら愕然とします。
そのようなデザインは、創造的ではないと思えるのです。
むしろ、みんなが賛同できない、と言う評価なら、
これなら、新しい時代・社会に切り込んでいくデザイン、
創造的な結果を出せたと、自分は納得します。
したがって、説得を相当にしない限り、
特に製品デザインが商品にまとまってはいきません。
命果てるまでに、
なんとしても「メタ・デモクラシー」の基本を
モノのデザインで創りたいと自身に言い聞かせています。


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「文房具と目途=欠落関係」


   


     6月 4th, 2011  Posted 3:03 AM

文房具の機能は「書く」所作周辺。
そして、文具はなぜ面白く、
楽しく、私を引きつけるのでしょう。
私は「書く」という言葉から、
書くということが「欠く」であること。
ずばり、書くは欠けていることを満たす所作であり、
書く事は、自分に欠落しそうな事を、
書き残す事だと勝手に解釈をしてきました。
歴史的にも、書くことは「引っ掻く」がごとく、
紙が生まれる前には、
竹や木や、さらに石に「引っ掻く」行為で、
目印が記号となり、文字になってきたのです。
だから、きっと文房具という道具や器具などのモノ、
そうしたモノで取り囲まれること,
人間はきっととても望み、
表現することで生きている実感を得たのでしょう。
だから文房具・文具への興味は誰もが所有し使用する、
とてつもなく大きくてささやかな欲望にまで、
必ず昇華してきたはずです。
「書く」という所作=「欠けている」実感が、
人間の思考すべてを象徴していると私は思っています。
私は文房具を収集することが大好きな生き方とは、
自身を客観視するときに、
それこそ人間として欠落させる知識、
あるいは知恵と向き合えなくなるとさえ思います。
文房具や文具という類のモノの体系にこそ、
身体と精神を委ねること、
それこそが目標と目的を意識することで、
自分自身から他者への欠落を満たすことができます。
そこで、実は、
目標・目的を会話的な曖昧さにすることが「目途」です。
「書き残すこと」=「欠くこと」=欠落を食い止めること、
この連鎖性に「目途」などは本来はありえません。
目標・目的は欠落を満たす所作です。
私はあらためて、自分の周囲の文房具に語りかけます。
デザインとは明確な目標と目的を企望する所作ゆえに、
決して「目途」などと言うことは、
自分自身の欠落性をさらけ出していることを現します。
だから、プロなら決して「目途」という曖昧さだけは、
生き様に置いてはならないと自分に言い聞かせます。


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