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「見えないということの連鎖」


   


     6月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

最近、放射能の見える眼鏡があれば、
こんなことが冗談、真剣な会話になります。
「コンピューターが消える日」、
MicrosoftのWinsows7発表時に、
このタイトルで基調講演をしました。
タイトルが過激と言われ一波乱ありました。
しかし、今や「クラウド」などが一般化してきて、
コンピューター、つまりサーバーが見えません。
見えないこと、インタンジブル=触れないこと、
これが幾重にも重なった時代になってきたのでしょう。
現実、原発も日常生活からは見えない場所にありました。
核廃棄物は地中深く埋めてしまいます。
そして、情報社会のあらゆる面を「見えなく」する文明、
この大きなパラダイムシフトが生活を包囲しています。
どうやら、情報社会は「見えなくする」こと、
インタンジブル文明へと技術方向を変えてきたのです。
「死」も見えません。見せない方向にあります。
ところが「生」の確実性は見えることと触れることです。
結局、今、私たちが直面しているパラダイムシフトは、
 見えること:見えないこと
 触ること :触れないこと
このコンフリクトの連鎖環に佇まされていると考えます。
電子出版は、まだゆったりとしていますが、
書店が街から消えていくのも、このコンフリクトです。
おそらく、東日本の復旧は「見えていてほしい」のです。
しかし、復興した街と町には「見えない」システムが、
必ず包囲することになるでしょう。
ただし、人間は、人類は、見えて触れることが肝要。
タンジブル性に最も信頼感があるということです。


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「レントゲン検診から放射能を・・・」


   


     6月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

私は定期検診では、
常に、X線検査を受けます。
28歳、交通被災後からです。
したがって、レントゲン検査では、
必ず徐々に被曝してきているのでしょう。
30年以上もこうした検査をしてきたので、
やがては・・・という思いがありました。
今年に入って、まだ明確ではありませんが、
「甲状腺に異変があるやも」という診断がありました。
ちょうど震災とフクシマ原発問題の前でした。
X線は、キューリー夫人物語という偉人伝で知ります。
おそらく小学校時代に知るでしょう。
しかし、名前は知っていても、
その詳細からレントゲンがX線での医療画像情報を撮る、
ここまでの歴史は、もう一度確かめてみると、
ベクレルなど単位になっている人物が、
放射能の周りの科学者としていっぱい出てきます。
放射能と対峙してきた科学者たちの研究という闘争、
これこそ、原爆から原発そして医療技術まで、
フクシマ原発の解決を人智的にしなければ、
そうした科学者の恩恵が台無しになるかも知れません。
もっとも、もう私の年代になれば、
「甲状腺異常」もやむなしですが、
次世代に放射能影響を考えると、
甲状腺からDNAへの影響などはすでに想定内です。
放射能のメリットと放射能のデメリットは、
あらためて原子力技術が人類にとっては大きな課題です。
原子力技術による発電があれば、
一方では、健康診断としてのレントゲン検診があります。
さらに、今、最も期待されている、
「重粒子治療」は癌疾病での治療方法として、
大きな期待がある分野です。
国内にこの「重粒子治療」病院がいくつかできれば、
保健料内治療が可能になります。
フクシマ原発の収束の中で私たちが熟考する問題です。


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「器械から機械そして機器へ」


   


     6月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

器械は活力を増大させる。
これはダ・ヴィンチの発想。
そして彼の発想器械には、
「計算機」と誤解釈されてきたモノ、
それは「速度を増幅させる研究」という
デッサンがあります。
すでに使われなくなった言葉である「輪軸」から、
12個ペアになった歯車がならんでいます。
そして、ダ・ヴィンチはこれを使えば、
速度は10の23乗になるという予測値があります。
現在の研究では、彼の計算間違いが指摘されています。
しかし、私はこの発想に目を向けると、
現代に到る、科学から技術の歴史変遷から
重大なことが見えてくると判断しています。
器械という言葉が機械となり、
今では機器という名辞になっているにも関わらず、
機械と機器を技術領域が曖昧にしてきたことです。
器械は力をつくらないはずが、
発電機器なるモノが可能なのかどうかということです。
電子機器、情報機器、音響機器という表現は正当です。
ということは、エネルギーを発生させる機械、
そのようなモノは成立するのだろうかということです。
私は、音響機器のデザインからデザイナーになりました。
機器が稼働するのは、
すべからく「エネルギーあってのこと」です。
文明はエネルギーの発展史でした。
そして、機器となって文明は文化創出になります。
私の関心はエネルギーと機器に焦点が集中しています。


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「エネルギーはレトリックにならず」


   


     6月 18th, 2011  Posted 3:43 AM

エネルギーという概念は、
すでに、ヘロンの時代から。
ダ・ヴィンチもすでに、
器械は小さな力で大きな仕事量、
この考え方をベースにしていたのでしょう。
結果、彼は、
器械はまず力を使うことがあっても、
器械から力は絶対に発生しないと語っていました。
当時は「活力」ということばであり、
T.ヤングが1807年にギリシア語から、
エネルギーということばを創ったのです。
したがって、
「あの人はエネルギッシュだ」という表現は、
まさに当初の力=活力そのままを表しています。
energeia→en(内部)+ergon(仕事)という原意は、
「活力」という表現をさらに強化したことばであって、
修辞学的=レトリックにはならない直喩的なことばです。
今、私たちは「節電」という社会環境構造を、
絶対に受け入れなければなりません。
私は、原子力でまかなってきた電力は、
社会全体の「活力」そのままであって、
その本当は叡智であってほしかったはずの原子力技術を
蔑ろにしてしまったことに苛立ちと哀しみを感じます。
なぜなら、
「活力」=エネルギーは、
人々の活性化であり、社会の活性度であり、
「生きていく・生きながらえる」源泉を、
原子力技術を取り囲んでいた人達自らが破壊したのです。
「節電」とは「活力」を奪うことを直喩しています。
エネルギーということばが直喩にはなっても、
決してレトリック用語にはならない、
そのことをを噛みしめるべきです。


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「ダ・ヴィンチというエネルギー」


   


     6月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

レオナルド・ダ・ヴィンチ、
最も会ってみたい人です。
学生たちには、友人をつくること、
この大切さを自分の経験から話します。
そして、今は亡き友人は自分で決めることができます。
そういう意味では、
ダ・ヴィンチは私の友人の一人です。
頭を空っぽにして、彼のスケッチを読みます。
彼の手稿は、正直、不分明なことが多いですが、
「ことば」を仕入れることが可能です。
彼の寓話論は一つの大きな視点です。
また、アトランティコ手稿というのがあります。
これは、ダ・ヴィンチのスケッチである紙のサイズ、
アトラスサイズに描かれたいわばデザインです。
いわば、「五大器械」その組み合わせの発想は膨大です。
そして、思うのは、
ダ・ヴィンチだったらエネルギーを、
どのように考えついていただろうということです。
ダ・ヴィンチ「エネルギーコード」という考え方です。
水・火・人力、そして器械的な構造で発生するような
仕事量=エネルギーは読み取ることができます。
「マッツォッキオ」という形態のスケッチがあります。
これはまぎれない「トーラス」形態です。
これは、私にとって最も刺激を受けた形態です。
この形態を作成する部品点数などを描き込む、
ダ・ヴィンチという「人物のエネルギー」に、
まず心惹かれます。
つまり、人力の詳細さに宿るエネルギーも、
大きなエネルギー問題です。
そして、それを補強してくれたり増強する友人は、
大きなエネルギー源だと思います。
「エネルギー」、
このことばの意味には深度があり過ぎます。


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「たかがデザインだから見えていること」


   


     6月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

デザイン程度が原子力に何が可能。
こういう思惑に囲まれながらも、
私は「建設」から「生産」をと発言し、
デザインモデルを提示。
東京電力ショールームで展示会をした経験があります。
ただし、開催直前に原発事故があり、
原子力関連のデザインモデル展示は見送られました。
この時かなり激しく私は抵抗したことを思い出します。
なぜなら、「安全」で原子力=放射能を語るのではなく、
「安心」という思考を原子力技術に提案すべきだという
デザインの本質的な発想が根本にあったからです。
フランスでの講演・ワークショップ後、
ある市長が来日してまで、原子力バッテリーは
フランスでやらないかという誘いもありました。
やるなら絶対に日本という信念で断ったこともあります。
多分次のようなコンセプトを聞きつけてのことでしょう。

 ● タービンレス設計への移行
 ● イオン化傾向の差分からの電圧利用
 ● 冷却システムの革新的進化
 ● 炉心設計に偏重して周辺統合技術の欠落補完
 ● 新規バックアップ電源への発電補完システム設計
 ● 内外被曝対策・汚染対策のためのデザイン
 ● ヘルス・フィジックスへの学際性デザイン
 ● 日本の放射線管理という統合曖昧性での欠落性
 ● 放射能影響の医学対応性
 ● 保健的核物理への技術投機
 ● 放射能生物学からの技術構築案
 ● 発電所事故の国際的学習効果の共有
 ● 原発建設設計の新システムデザイン導入、等です。

こうした詳細無しが「安全神話」でくるまれていました。
今回、フクシマ原発の収束から終息のために、
現地でのエンジニアの皆さんは「命がけ」であり、
おそらく、それこそ「想定外」が突発回避は困難。
長期にわたる被曝集積の影響が必ずあるでしょう。
それでも、人類はこの厄介極まる「原子力」「放射能」に、
果敢に向かうことでこそ、
本当の「脱原発」の詳細要素と要因が見つかるはず、
私はそう考えて現実・現状を見ています。
すでに本来の御用学者の原子力専門家、
代議士たちは世論を怖れて逃げだそうとしています。
デザインとは「社会に対する姿勢保持」が基本です。


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「安全神話が置き忘れたことから最適解を」


   


     6月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

私は、太陽、風力よりも
やはり、原子力技術を選びます。
しかし、原子力発電所ではありません。
ここが誤解を受けてしまい、
原子力推進派と思われますが違います。
Atomic Engineeringを徹底的に応用し、
それを、ソーラーにも、風力にも適用させることです。
原子力技術と原子力発電所は、
「安全神話」に閉じ込めてきたことが失敗でした。
特に日本では、国営的な独占企業である電力会社、
そして原発建設には大きな見落としがあったことです。
日本は、米国で発展した原子力技術の発電所化とし、
ようやく実業となったことの周辺技術は置き去りでした。
さらに、原発立地に関しての制度設計にも、
専門家集団は見落としてきたことがいくつかあります。
したがって、今や推進派だった国会議員と学者は、
脱原発として、太陽と風へといわば思想転換しています。
これは職能家としての卑怯さと卑劣さを見ます。
無責任な専門家態度だと言わざるをえません。
結局、太陽発電所建設も風力発電所建設も、
おそらく原発建設と同じ過ちを繰り返すと推測可能です。
フクシマ原発事故は、多大な犠牲を歴史に残しました。
だから国際的に原発=原子力否定に向かっていますが、
冷静冷徹に今回の事故によって、
あるいはチェルノブイリ事故でも明確になったことが、
これからの原子力技術の進化、
その課題を明快にしていると考えるべきです。
人類は多大な犠牲への鎮魂として学ぶべきと考えます。
でなければ、建設される太陽発電も風力発電も、
肝心な見落としが残り、
結局は、神話が寓話となり童話へと展開するだけです。
今、安全神話が見落としてきたことを
デザイン・サーヴェイ手法で洗い出すこと、
これがエネルギー問題の最適解になると確信しています。


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「節電・節水という文明再構成=文化創成」


   


     6月 14th, 2011  Posted 12:15 AM

今回知り尽くしたこと。
それは電気料金の仕組みでした。
私自身、こうした光熱費や水道料など、
実際はワイフ任せであり、
生活のためには、「当然の支出」。
したがって正直、無関心でした。
つまり、水とエネルギーは生活=生きていく基本条件、
このことにどれほど無関心でいたかということです。
おそらく市民生活全体が、
水は、水道から常に流れ出し、
電気は停電にもならないと思い込んでいたはずです。
ということは、私たち日本人は、
素晴らしいシステムに包まれて生きていました。
節電が国策になりました。
電気と水、「生きるための」この基本条件が危ういのです。
だから「節電」=電力節約は、
正直これまでの無関心な生活にとっては厄介な問題です。
ある意味では、貧しいことにつながっています。
しかし、考え直せば、これまでがどれほど贅沢だったか、
このことを教え直されたということです。
「節電」に対して、
積極的な生活行動に向かうべき民族になったのでしょう。
そこから、あらためて「本当の豊かさ」を、
「生きていく」基本条件、
水=節水と電力=節電という文明の組み立て直しこそ、
新たな文化創成が日本の伝統を再構成する、
私は確信しています。
問題は、もう一度、電気料金と水道料金のシステムも
徹底的な再構成の制度設計が必要だということです。


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「風車にまつわる安全童話」


   


     6月 13th, 2011  Posted 2:05 AM

太陽発電は太陽からの恵み。
風が吹いたら風車が回れば、
風という自然現象から、
電力を得ることが可能です。
日本の折り紙で風車(かざぐるま)、
シンプルで、美しいかたちがあります。
伝統的な童具と言っていいでしょう。
この日本列島には、三種類の風が吹いています。
山からの風、
海からの風、
そして、瀬戸内海の風です。
日本は揺れ動く4枚のプレートに乗っている列島であり、
そのプレートがとてつもなく大きく変動しました。
今回、きっと地球の形すら変えたのかも知れません。
その揺れ動く上にある発電所は、
規模が大きければ大きいことで大変な被害を及ぼします。
原子力発電はもはや完全否定されようとしています。
私も納得できます。
それなら、風力発電が代替エネルギーということです。
しかし、私は、この列島に風車が回っている、
まさにこの風景には、納得しかねるのです。
理由は単純です。
これも、技術開発にもっともっと創意工夫が必要です。
風車・プロペラなどはもっと形態開発が必要です。
風が吹けば、それだけで電力が得られるという話は、
きわめてシンプルで、子供にも理解と納得できる、
童話に繋がっているでしょう。
しかし、風力発電=安全かという論証はまだ未定であり、
想定すべき風力発電の内容が不完全です。
少なくとも、新しいプロペラのかたち、
そして発電機の新たな形式を開発すべきでしょう。
私には、まだ風力発電は「安全童話」です。
だから、これにもデザイナーの提案が必要です。


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「ソーラー発電は安全寓話」


   


     6月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

寓話というのは、動物の生態を借用。
処世訓や教訓などを動物や自然観を
主人公にした話であって、
物語性は無いものと私は思っています。
寓話といえば、
「イソップ物語」が代表的であり、
この物語は、文字として書き残されるのは、
自然から学び取った記録としての動機があったからです。
私が、ソーラー発電や太陽光発電を「安全寓話」と呼ぶ、
その理由は、主人公は太陽であり、
まさしく、太陽という自然の恵みだからこそ、
自然と人間が極めて調和し安全という幻想話だからです。
もっと批判的に発言すれば、
太陽の恵みを受けるという幻覚と幻想、
それは実際、ソーラー発電素子という人工物は、
確かに、自然と人間との調和感を与えている印象に、
安全性と信頼性があるかのように思えますが、
もっとも工業的・産業的には、
まだまだ開発要素があり過ぎると私は判定しています。
実際問題としては、
産業投資効果は、ソーラーパネル素子生産には、
二つの大欠陥が残っています。
● 素子生産に、莫大な電力量を消費します。
  10年使用するには、3年分の電力が必要です。
● まだ、単結晶からアモルファスなど材料決定が困難。
つまり、発電効率の割には生産投資が回収できない。
結局、メーカー利益回収が困難な消費財生産物なのです。
だからといって、私はソーラー発電否定派ではありません。
もっと創意工夫が多大に残されているということです。
よって私は、まだ寓話=自然からの教訓的話に過ぎず、
「安全寓話」の対象でしかないとだけは発言しておきます。
しかし「安全神話」という誤魔化しは無い訳です。
私はすでにまったく新たな光起電力素子のあり方と、
インダストリアルデザイン対象として直視しています。


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