kazuo kawasaki's official blog

「『Ship of the Year』審査委員会・日本学士院会館にて」


   


     6月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

一年ぶりに来ました。学士会館です。
日本船舶海洋工学会「Ship of the Year」審査委員会です。
早めに着いたので、少し探検をしました。
関東大震災の教訓を生かした建築がそのまま残っています。
なんだか由緒ありそうな大時計、
そして、トイレ表示が、すこぶるモダンであり、
トイレの入り口はまたエンブレム仕様でした。
今年度最終選考に残ったプレゼンを受けて、
質問をし、その後じっくりと審査会議で大賞を決定です。
この賞は恩師が創設されて以後、審査委員長であり、
恩師からの指示で審査委員になりました。
同時に「関西海洋教育アライアンス」で、
「海洋デザイン戦略論」を阪大・神大・大阪府大の大学院、
合同授業も担当しているので、海事・港湾・船舶・造船も
大分知るようになり、特に、造船の面白さは毎年楽しみです。
大賞は7月に発表と聞いていますから、
まだここで発表するわけにはいきませんが、
船舶は産業として、激烈な闘い、市場競争をしています。
大型貨物船は、今年は世界最大級の大きさや、
新たなエンジン、CO2削減など「技術」はスゴイのですが、
「デザイン」は「デコレーション」という勘違いがあります。
私の役割は、早く、造船の企画からデザイナーが関与すること、
そのアピールをしていますし、
私の研究室から造船企業に卒業生も出しています。
3.11以後、緊急に新たな救助船や病院船のプロジェクトが、
超党派にて開発されていることなどを聞きました。
客船やフェリーなども「バリアフリー」が当然になっていますが、
まだまだ本質は理解されていないようです。
やはり、造船デザイナーを早急に育成していくべきです。
学士会館もさらに現代建築的な改善が必要だと思いました。


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「『ヘルメスの杖』というシンボルの現代的意味」


   


     6月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

日本では、緊急・救急のマークは「赤十字」です。
私には苦い経験があります。
高校時代の級友がドクターとなって、病院を建てました。
その建築設計施工をアドバイスし、病院マークなども作りました。
そのときに、赤色で部分的に「赤十字」が入っていたら、
地元の赤十字病院からクレームが入りました。
初めて知りました。「赤十字マーク」は日本赤十字社の商標です。
よって、×印が赤十字形になっていても、
「意匠権侵害」になるのです。
したがってわが国では日赤系認定以外ではこのマークは使えません。
「赤十字マーク」は国際的な標準マークですが、日本ではすべて、
日本赤十字社のみが使用権と認定機関だけ使用可能です。
救急車でも赤十字マークをつけている車両は日本赤十字社関連だけです。
この赤十字に対して、さらに世界的なシンボルとなりうるのが、
「ヘルメスの杖」と呼ばれているシンボルです。
外国の救急車などや大学や、治安機関では、
このシンボルの持っている意味は古代歴史的にも国際的です。
語源的にはギリシア語「Kerykeion」=伝令官の原義があります。
蛇が纏わり付き、天使の羽や男根的なイメージは、
シンボルとしての意味を伝統として継承されてきました。
それはメルクリウスの持ち物としての杖であり、美の女神・豊穣や、
平和・休戦から勤勉や雄弁など、
天体的には水星の天使といわれるラファエロから、
治癒力・道徳的な正当性・善行など、
人間の倫理的な自覚力までを表しています。
赤十字はまさに、救命を意図したシンボルですが、
商標権に縛られているからには、
この「ヘルメスの杖」は、倫理性や正義感、治癒力、治安性まで、
古代的なイコン性からも十分にシンボル化可能で有り、
このシンボルをマークとして使用することで、
国際的な伝統的象徴性まで意図できるものと考えています。
「ヘルメスの杖」が象徴的な機能を表現するものとして、
これを展開したシンボルマークの展開を、
デザイン賞創設の視覚アイデンティフィケーションへと考えています。


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「生涯最も使うアルファベット『K』」


   


     6月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

日本人は漢字とひらがな・カタカナを使います。
さらにアルファベットも漢字同様、アルファベットを使用。
その中で最も使うのは名字でしょう。
私はふるさと福井の「F」とデザイン「D」も、
本当によく使ってきました。
最近あらためてアルファベット「K」を見つめ直しています。
これまでもアルファベットも、企業ロゴタイプや商品名でも、
様々に使ってきましたが、アルファベット「K」について、
まとめておこうと考えます。
アルファベットは、常識として、発音記号的であり、
表音文字という理解がしみ通っていますが、
本来は、ヒエログラフやシナイ文字。
さらにはヘブライ語、ギリシア文字の原意から、
その「かたち」は由来していますから、表意文字どころか、
象形文字が源流と言っていいでしょう。
アルファベット「K」は、11番目の文字であり、
発音記号的には8番目の子音文字であることは確かです。
発音としては無声軟口蓋破裂音として存在しています。
しかし、象形文字として、
このKという形態には、手の平=掌(kaph)から、
「杯」・「溜め池」という具合に手の平を意味しています。
だから手術=chirurgieや手相占い=chiromancieなど、
ギリシア文字「手」=chiroの系譜がありますが、
もっと遡及すれば、Kはシュメール語「山」=Kur から、
仏語(角・堅さのイメージ)・ラテン語(革)まで拡大。
しかし、ヒエログラフ的には、砂丘や籠を象形し、
結果、「大地・力・強さ」という意味にまで集約されています。
漢字も、象形文字からはまさしく表意文字が生まれていますし、
表意文字に意味の転化や拡大はいっぱいあります。
しかし、アルファベット「K」は、
意味の拡張よりむしろ集約されているように私は感じます。
「手」ゆえの強さや力が、
それは大地まで意味が拡大したのでしょう。
具体的に例示するなら「rock」に統合されているのが、
アルファベット「K」だと思っています。
私が正式なアルファベット書体として、
それは、「キャスロン体」と「フーツラ体」を
美大のレタリング実習として相当に学びました。
Kazuo Kawasakiという私の名前、
その先頭アルファベット「K」を生涯使っていくのでしょう。
だから、美しい形態を求めています。


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「もう一つは音場システム」


   


     6月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

確実に「音場」空間をつくり出すには、
無指向性のスピーカーシステムが最適です。
美大の卒業制作は、無指向性のシステムでした。
それ以来、無指向性スピーカーには興味がつきません。
そしてB&O BeoLab5は、
ほとんどロボット的なシステムであり、
室内の大きさや、人数、室内の家具配置をセンシングし、
指向性を自動的に制御してくれます。
そして、音楽ソースはBeoCenter2で、
CDはほとんどリッピングしてあるので、
最低50枚だけをこれでの「音場づくり」、
すなわちBGM環境にしています。
私がオーディオファイルとして思うこと、
それは、そろそろ「音場」と「音像」が選択できる環境、
そのシステムが欲しいということです。
整理すると、
「音像」というのは、まさにスピーカーシステムの中央に、
歌手なり演奏者が存在していること。
「音場」とは、空間のどこにいても、
BGMとしての音楽空間になっていてくれることです。
これは、身体を包み込んでくれます。
「音像」と「音場」は明確に、
身体と空間の関係性を「より感覚化」してくれるはずです。


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「わが家PCオーディオのセンターは、まず音像」


   


     6月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

プリアンプは、LINN KLIMAX KONTOROL SEが中心。
そして、パワーアンプはモノラルAMPZILLA2台で、
JBL4343を「音像」再現で動かしています。
そして、B&O BeoSound5、リッピング音楽ソースは、
プリアンプ下のハードディスクにあります。
しかし、音質を向上させるために、
最近は、iPod classic -160Gにようやく現在は5台、
Appleロスレス・エンコーダで、
ようやく持っているCDを半分まで貯蔵しました。
まさに、音源を貯蔵したという感覚です。
したがって、音楽ソースは、
PC音源とインターネットラジオになりました。
ともかくこのプリアンプ・パワーアンプはJBL4343ですが、
すでに30余年になります。
JBL4343は、私のこれまでを見つめてくれてきた愛機です。
これまで4回入院、すなわち、リペアしています。
そろそろこのスピーカーを引退させてあげようかと思っています。
何度もそう想いましたが、
やはり手放せません。
すでに、スピーカー技術も進化していますが、
死ぬまでこのスピーカーと付き合おうと思っている次第です。


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「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」


   


     6月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

現在、私は大阪大学にいて幸運なこと、
それは、阪大が適塾からの歴史をもっていることです。
適塾には、最も尊敬する橋本左内が適塾で学び、
緒方洪庵は、
「後世、適塾有りと語り継がれるならば、
橋本左内をもって他無し」とまで、
橋本左内の能力を評価していました。
その橋本左内は福井藩の侍医家系であり、
日本の医学史においては、
麻酔薬による外科手術を成し遂げた華岡清州に、
橋本家は学び、その弟子筋に藤野家がつながります。
藤野厳九朗は仙台医学専門学校の教授でした。
彼の存在は、
中国近代文学の祖と言われる魯迅よって明らかになります。
魯迅は仙台で学んだ師と仰ぎ、
恩師との関係は中国の教科書に載るほどでした。
藤野厳九朗の甥には、藤野恒三郎がいます。
彼は大阪大学教授として集団食中毒の腸炎ビブリオの発見者。
私が彼の存在を知ったのは、
適塾で使用されていた道具類を骨董的価値としてではなく、
近代医学史の資料として買い集め、
そのまま阪大に寄贈していました。
そして、彼の近代医学史の著作があります。
「医学史話・杉田玄白から福沢諭吉」です。
そして、この本こそ、日本の近代医学史の原典と考えます。
ところがすでにこの本は絶版になっていました。
この著作は、杉田玄白も福井県出身であり、
橋本左内についても詳細に語られていることです。
そこで、この復刊をと想い続けてきましたが、
復刊出版社が見つかり、復刊が決定しました。
本来の出版社はもう存在せず、
問題は、藤野恒三郎の末裔の方々の了解が必要です。
福井の友人達にも調査を依頼しました。
あらためて、三国町を中心とする藤野一族、
そして藤野恒三郎家筋の方々の情報、
さらに了解を求めたいと思っていますので、
心当たりの方はご連絡ください。
「ち」、まさに「知」と「血」、
その系譜を連続させたいと願っています。


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「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


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「松岡正剛『ち』の根源=漢意による決定」


   


     5月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛は「連塾」のみならず、
ことばの定めとして「漢字原意」をよく語ります。
私も常に追い求めてきたのは「漢字の系譜」でした。
小学校時代に、藤堂明保博士の講演を聞きました。
しかも、藤堂博士は何度も福井にみえていたようです。
私は転校した小学校でも、また、講演を聞いたのです。
そして、父からも書における、
たとえば「月」という漢字の書形には、
形(天体)と容(身体)があることを教えられました。
書家であってもこうした表現への無知が増えてます。
私は40代になって、ようやくなぜ、
藤堂博士が福井での講演をし回っていたのだろうか、
その理由を推測できるようになりました。
漢字の解釈、甲骨文字から説文解字や金文体解釈などにおいて、
藤堂明保と白川静は正面衝突する解釈論議の真っ最中だったのです。
二人の対決は学者域を超えるほど凄まじいものであったことを知りました。
そこで、藤堂明保は白川静の出身地・福井で、
小学生に向けてまで彼の自説をアジテーションしていたのでしょう。
私は当然、ふるさと福井の偉人である白川静をこよなく敬愛し、
彼の著作はほとんど読破し収集していると思います。
そして、中国の象形文字解釈にまで自説を展開した白川静説こそ、
「漢字の原意」だと盲信してやみません。
松岡正剛氏も、結論として「漢意・古意」として、
その基盤を白川静説を確信しています。
そして、白川静についての著作、
漢字解釈の入門「白川静」決定論を書き上げてしまいました。
松岡正剛氏と「白川論議」は、
幕末論に至り、特に「橋下左内」にまで及びます。
なぜなら、白川静氏は「橋本左内」についても、
相当な研究者であり、橋本書簡の収集もされていたということです。
さて、今や中国語の漢字は省略形になってしまい、
「漢字」に込められた思想の根源を完全喪失しています。
私自身はそう思わざるをえません。
象形文字に込めらた思潮の根源は、
すべからく「白川静説」をもってこそ、
これは「東洋の思想・哲学」の根本を決定していると断言します。


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「松岡正剛という『ち』の出発同位点は隠坊ゆえ」


   


     5月 29th, 2012  Posted 12:18 AM

「連塾・最終回」は岩波から出版されますから、
ここで全容を書く事はできません。
しかし、松岡正剛「連塾」・私の自叙伝の冒頭で、
「隠坊」との出逢いが重要であったことを語り始めました。
それは、私も同一だったことに驚いたことも伝えてくれました。
オンボウorオンボ=「隠坊」という存在を知る観客はいたのだろうか、
私はそう思いました。
「隠坊」は、死体を火葬する斎場に住み着いている坊主です。
隠坊は差別用語になっています。
私の母方の祖父は宮大工大棟梁であり、
木こりから六呂師、瓦焼、落とし紙の紙漉きなどや、
いわゆる部落民はじめほとんど村一族を率いていましたから、
「隠坊」の面倒から斎場の管理までを引き受けていました。
まだ私が幼少の頃(幼稚園に入る以前)、
福井の京福電車に乗れば福井から松岡町に行くことを覚えました。
だから、京福線新福井駅から松岡駅に行って、
松岡の駅で、大声で泣くのです。
そうすれば、必ず、駅から祖父に連絡が入り、
祖父は大抵、「隠坊」二人を連れて迎えに来てくれます。
しかし、時には「隠坊」二人だけが迎えにくると、
「なんや、お前ら二人か」と泣き止むことにしていました。
私が高校生になるまで「隠坊」は私の世話係のような者でした。
「隠坊」はあの世の入り口にまで引率する役割を担っていました。
火葬の火の番を酒を飲みながら夜通し白骨になるまでを見護るのです。
現代、そのような存在も「隠坊」という言葉も消えています。
ある時、私が松岡正剛に、
私は幼少の頃から「隠坊」と過ごしていたことを話したら驚いて、
「隠坊論議」をしたことがありました。
福井県松岡町の斎場は、祖父の葬式をもって閉ざされ、
以後は福井市の斎場にて町民は火葬されるようになりました。
祖父は斎場の建て替えを言い出していましたが、
それを言い出すと必ず死を迎えるから祖母は猛反対をしていましたが、
祖母が先立ちました。
二人の「隠坊」もすでに亡くなりました。
二人とも傷病兵で、一人は片目が無く空洞の眼孔を持ち、
一人は松葉杖を突き、
夕食は必ず酒を玄関脇の板の間・蓆部屋で飲んでいました。
あの世への入り口の話をどれだけ聞いたか分かりませんが、
すでに私は三度もあの世への道を辿り門前から戻る経験があります。
「隠坊」の話は、語り継ぐべき日本の閉ざされた引導話全容です。
そのことを語れるのは、私と松岡正剛しか居ないでしょう。


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「連塾・最終回=10年を語る前に、松岡正剛という『ち』」


   


     5月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

「連塾」の指南者、
松岡正剛は10年を彼らしく「切断」しました。
10年間この「連塾」を率いた彼について、
いつの日かという彼の前での「私純情」を語るときが来たと思います。
1991年、箱根の「強羅花壇」で私は彼と出会いました。
箱根で「国際マルチメディア会議」がありました。
Apple社・ジョンスカリー会長が全世界から、
当時のコンピューター専門家から企業トップを集めた会議でした。
三日間缶詰での会議でした。
懇親会は「強羅花壇」が会場であり、
現マクドナルド社長の原田氏が営業本部長として総括されました。
民間からは私と松岡氏、そしてA氏(元官僚)B氏(作曲家)4名。
私はスカリー会長の直属デザインコンサルタントでしたから、
この会議中も、会議の合間にデザインモデルのプレゼンをしていました。
懇親会もどこまでお金がかかっているのかという盛大さでした。
ところが、和室に入れなかった私が別会場に一人の時、
松岡氏が入ってこられたのです。
(この人が『遊』の編集長だ!、やっと会えた)
そんな感慨と、『遊』の超美人女性デザイナーKK女史に会えるかも、
私は瞬間的に想像したことを思い出します。
それから、交流が始まりました。
私も読書量は人並み以上という自負がありましたが、
松岡正剛は100万冊は読破しているとすら思っています。
あらゆる分野に精通し、特に「日本を語らせたら超巨人知」でしょう。
千夜千冊(もはや1000冊を超えています)は、
おそらく世界にもあり得ない「書評アーカイブ百科」編集事実です。
「千夜千冊は世界的事件」という評価まであります。
私の著作も取り上げていただきましたが、
それは私へのラブレターでした。
「だから、私も松岡正剛に惚れ抜いています」と、
「連塾終了」の知らせ直後に彼に知らせ、
懇親会でも連塾参加者の皆さんにまで惚れていること発表しました。
昨夜、別れるときに「紙墨相発」を送るから、
松岡氏も「私の自宅に必ずまた行くから」と。
「連塾」、そのテーマは「日本という方法」でした。
これからがこの方法論が必至になっています。
これから時々、彼との話題・課題を書いていきます。
その季節が私に訪れたのでしょう。


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