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「哀しみと悲しみの対立・土下座」


   


     5月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

魏志倭人伝での跪礼(きれい)。
大化の改新では跪礼は立礼に変更。
『弘安礼節』では庶民が大名への儀式礼。
しかし、跪礼=土下座とは、
身分の上下での礼節の定めでした。
一国のリーダー、大企業のリーダーが被災地で土下座。
被災者が土下座を要求するという悲しみは、
彼らの哀しみからの要求、
こうしたシーンを見るとき、
リーダーシップを欠落させている跪礼は「対立」でしかなく、
そのことをも受け入れているリーダー資格は剥奪が当然でしょう。
今、まだ予断を許さないフクシマ原発とその被害者は、
精神的・肉体的な疲労困憊と哀しみがあります。
リーダーの土下座に追随している周辺に解決策がありません。
この二つの悲しみと哀しみは「土下座」での対立になっています。
50日以上も「一次避難」そのものが変です。
現政権が本来災害において為すべき義務放棄は明らかです。
しかも、民間企業といっても大企業相手の「指導力」が皆無です。
すでに原発事故の収束から終息までは長期になるでしょう。
もはや「仮設住宅」での避難は解決策ではありえません。
ならば、最新鋭の集合住宅の建設に入るべきです。
土下座は被災者の「怒り」という哀しみに過ぎず、
「全てが不可能だという納得」の「かなしみ」の対立になっています。
加害者と被害者の構図を成立させているよりは、
 ・「原発事故復旧」
 ・「集合住宅建設」
 ・「商工業の再開」
 ・「一次産業の復旧」
 ・「教育と医療環境復旧」への共有観が必要。
被災地で子供たちの精神的苦痛は「幼児がえり」と言われるほど、
精神性の破壊にまで及んでいると聞きます。
リーダーたちの土下座は、「無為なる心なき謝罪」にすぎません。
私たちは、「原発復旧で現場作業する人々」にこそ、
土下座してお願いをしなければならないでしょう。
跪礼とは形式としての儀礼=偽礼にすぎません。
そこから創造は何もありません。
しかし、「心からの礼節=跪礼」は、
現場作業の労働に向けられるべきことだと私は考えます。

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「報復テロのターゲットは日本かもしれない」


   


     5月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

テロリストの首領が殺害されました。
なぜ彼が「テロ」の首謀者だったのでしょうか。
「テロ」という言葉は、
「戦争」の代替名称になりました。
「戦争」という隠喩性を焦点にしつつ、
情報操作した新たな名称に大衆意識変化をもたらしました。
なぜ「テロ」が・・・この理由は知られていません。
「宗教対立」という虚構の物語にすり替えられています。
これはイデオロギーからの政治闘争の終焉が示唆されていました。
私たちの日常性が何か巨大なものに支配されてきた歴史現実です。
ところで、彼はもともとは親米派だったはずです。
それが、「なぜ」ということに世界のマスコミは黙考しています。
あらためて私がこうしたことは世界謀略などと言うのは、
荒唐無稽な私の想像力と考えてもらってもかまいません。
テロの原点には、明らかなエネルギー収奪闘争があります。
・・・なぜアフガンで、
・・・なぜパキスタンで、
マスコミはその正体を明確にしません。できないのでしょう。
人類が「火」を発見し、
この「火」は武器であり、「文明」を開花していくエネルギー。
そして「火」の制御は人類の科学すらまだ解明に至りません。
すべて「火」の制御は「政治支配」と「経済的力学」の対象です。
この支配力は科学性すら超越しているのです。
というより科学性が何かに支配制御されているということです。
私には、昨今TVでの「原子力問題議論」そのものが、
あらたな見えないイデオロギー=原子力技術という対象を
「大衆化」した支配性と操作性の表象だと思っています。
新たな資本主義体制の変更と世界経済の収奪問題とみるべきです。
あたかも「放射能現実」に私たちが投げ出されてしまったのです。
「反原発」は、巨大石油資本による援護下での活動であり、
「脱原発」は、振興エネルギー資本集中への戦略です。
だから私たちが見失ってはならない事を明確化することが不可欠。
それは私たちの日常性を守護する民族観を取り戻すことです。
本居宣長から橋本左内・吉野作造・吉田茂などの思想復権を熟考。
さて、テロリストたちの報復が囁かれています。
その報復対象が日本にならないことを想定しておくべきでしょう。
現日本政権は、「テロ」への姿勢を曖昧にしてきました。
ゆえに、テロリスト首領の軍事的殺害計画はもちろん、実行後も、
米国から日本は報告受けずでした。
現政権の国際的戦略が皆無だったことを証左しています。
この事情はとても深刻なポスト・モダン的政治問題だと思います。
国難状況下にある日本こそこの国際的テロ構造から逸脱すべきす。

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「中央集権の限界・東京では制御不可能」


   


     5月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

先般、「復興計画」での手法を聞かされました。
私の回答は、すべてNOでした。
それは私の経験からの判断でした。
かって、ふるさと福井の伝統工芸産地で、
東京流のデザイン手法、
特に、言葉でのイメージや概念の話を
私なりには一所懸命に試みましたが、
産地のみんなからは、「何も伝わってこなかった」と言われました。
被災地、特にフクシマ原発では、
その現地事情を間近で見つめ、現地での問題を共有しない限り、
復旧はもとより、復興など可能なわけがありません。
政権による復興メンバーがいわゆる「現地視察」など無意味です。
無論、企画や計画は「机上での情報操作」に他なりません。
しかし、パソコンに数値を打ち込もうが、
現地の瓦礫や「まち」づくりへの現地対応は絶対に不可能です。
特に、原発事故は人類が初めて体験する途方もない「想定外」です。
もっとも、「想定外」は本来は設計においては、
設計計画が成し得たことではありえないと私は考えますが。
「会議は踊る」という名文がありますが、
会議で解決は不可能だということを現代は忘却しているのです。
「解」という文字には、明らかに角有る牛を解体する形象です。
体験とは、自分の身体が現場で感得することであり、
身体・生体反応にほかなりません。
しかも、自分の生体内部で何が起こっているかは、
余程のことがなければ不明です。
たとえば、すでにケータイ電話は日常的ツールになっています。
しかし、ケータイと脳内での電磁波と放射能はまだ不明です。
これほど具体的なことが分かっていても、
人間には、「体験」による判断が不可欠だということです。
生命が危うくなるのは、本当に死線にまで身体が運ばれた時、
ようやく、原因が推測できるにすぎません。
すでに私たちは「中央集権の無理」を知り尽くしていても、
「机上の論理」に計画を載せる習慣から解放されていません。
今、私たちは次の世代の日本を、
まず、現地の救済からスタートさせているだけにすぎないのです。
現場主義が最優先であるべきです。
でなければ、「復興ごっこ」に過ぎないことを自覚するべきです。
ちなみに日本人の平均年齢は44.1歳です。
すでに経験はあるはずです。
経験の強さとは現場での感得情報から判断する判断・脳・能です。

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「リーダーシップ性とディレクション性とは」


   


     5月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

この国難で明白になったこと。
露呈してしまったこと。
隠蔽されたり、隠匿されていること。
物質としての街が壊滅し、
フクシマ原発事故でエネルギー問題が、
この長期になるだろう国難を支配していること。
そして情報はすべからくその指導力に依存しています。
指導力というのは、リーダーシップ性とディレクション性です。
結局現在リーダーシップ性とディレクション性が問われています。
私は、あえて、企画・計画・実施・運営・維持・管理について、
その監督能力をリーダーシップ力とディレクション力、
この二つがあるものと考えています。
それは、モノのデザインを職能にしてきた経験判断です。
デザインは「モノづくり」そのものではありません。
企画して具現化する様々な手続きに、情報的に関与し、
時に、リーダーとしての決断と、ディレクターとしての判断が、
そのプロセスから結果を制御するのだということを実体験。
つまり、判断と決断には、決定的な違いがあると思っています。
あくまでも、情報管理の実体験によって、
判断した結果と決断した結果には差異性があることは確実です。
したがって、リーダー、ディレクターという役割は違うものです。
しかし、いずれの役割においても、「結果」だけが残り、
その経過・プロセスなどに価値があるということは、
経験値を蓄積していく要素・要因にはなりますが、
それ以上の価値感はありえないと考えていることも事実です。
今、現政権でのリーダーシップ性は皆無です。
ましてディレクション性もありません。
理由は簡単です。
 ● 決断と判断には明確な順序があります。
 ● 判断して決断すること。
 ● 決断が判断の連鎖性と連続性であること。
 ● 判断と決断を同次元で結果にしてしまうこと。
 ● 判断と決断の違いが明確でも瞬時性と長期性を熟慮。
少なからず、この判断と決断で、
リーダーたる自分なのか、ディレクターたる自分なのかを
自分への詰問で自身の役割を認識することだと私は考えています。

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「エネルギーの邦訳を決定するためには」


   


     5月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

[物質・情報・エネルギー]=世界要因です。
明らかに世界がこの三つで構造化され、
その中で、生物、動植物、人間の日常があります。
私にはどうしても
エネルギーが日本語であってほしいと思います。
物質とエネルギーを徹底して熟考し、
よりやさしく伝えようとしたのは寺田寅彦でした。
そして彼は、天災や事故、
科学での解明を最も随筆や報告として書き残してくれています。
私の世代は、彼の文章は受験問題になっていたこともあり、
親しみがあると同時に、
物理の本質を数式ではないことばで解説されていました。
したがって、あらためて読み直してみれば、
津波や天災の記述が本当に多いことを再認識させられます。
「天災は忘れた頃に」というフレーズも彼の発言でした。
さて、エネルギーというのは、
今回、具体的には、電力・ガソリン・人力でした。
しかもこうした要素因は、
「仕事力」という具体結果に結びついていたことです。
まさしく、寺田寅彦著作である「物質とエネルギー」には、
エネルギーを「仕事をなす能」とし、
かつ物理学者のBegriff=Concept=概念にすぎないために、
世俗的には理解困難な概念にも関わらず、
自然力との関係が不明な原因になっているという指摘は
今なお引きずっています。
少なからず、エネルギーとしての「放射能」も、
その能力の限界を未だに人間は把握していません。
すなわち、概念=Begriffというドイツ語の語源は、
包括する、把握するという意味です。
つまり、私たちは物理学的にもエネルギーは、
まだ概念に過ぎず、包括することはもちろんのこと、
把握することもできていないことを、
今回のフクシマ原発事故から、人類すべてが、
充分に学びとり自省しておくべきことだと考えます。

*寺田寅彦「物質とエネルギー」は「青空文庫」で読むことができます。http://bit.ly/ifEMKn


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「リスクという片言では思考幅が狭くなる」


   


     5月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

言葉づかいが一つだけは思考幅の問題。
たとえば、「安全」には「安心」があり、
「感情」には「感性」が、
こうした一対の対称性を思考内容にすること。
それは、思考幅を偏重することから解放させてくれます。
ところが、私たち日本人の一言語一民族の特徴には、
この対称性や対照性を一言=片言で済ませても、
まさに以心伝心という独特のコミュニケーション慣習があります。
たとえば、「やさしさ」という平仮名では、
実は本来の、「優しさ」と「易しさ」を統合化してしまうのです。
結果、再確認しておくことが出てきます。
「優しさ」とは、決して目立たない優美さを意味し、
「易しさ」は、トカゲが簡単に色を変えるような簡便さです。
したがって、「やさしい」という一言は、
このどちらにでもなりうる曖昧さまで包含してくれます。
したがって「安全神話」には、
「安心」ということが欠落していたのです。
私は、「安全」が確保されて「安心」を確認することができ、
「安心」という確認があれば、「安全」が確約できると思うのです。
あたかも原子力を「安全神話」で装飾してきたとするなら、
やはり、何が、確保・確認・確約の手続きが、
片言に統合した誤魔化しの曖昧さだったのです。
大地震・大津波・フクシマ原電事故、すべてに対して、
「リスク」という言葉が多用されています。
「リスク管理」があたかも絶対性ある言葉になっています。
しかし、特に放射線リスクとは、
個人的な被曝をリスク=riskと呼び、
社会的・公的な被曝については、
デトリメント=detrimentと言わなければなりません。
私は、今回のフクシマ原発事故では改めて学ぶべき事が多く、
その学習成果から、
次世代エネルギーのあり方を探求すべきだと考えます。
そのとき、「リスク」と「デトリメント」の対称性を取り上げ、
この二つの言葉、
それぞれの対照性を対象化するべきだと提案しておきます。

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「陰翳復帰・明るさへの反省は文化再認識」


   


     4月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

省電力はこの数年のある種の義務でした。
これまで私たち日本人の義務意識は建前だった、
社会的な言い訳かもしれない、と思います。
具体さを、まったく欠落していたかも知れません。
ところが、
フクシマ原電事故がこれを覚醒させてくれたようです。
原子力発電所という大規模な施設発電から解放をめざすこと。
これから大きな哀しみを抱いて解決していかなければなりません。
それは具体的義務感としての「節電意識」です。
「想定外」には、デザイナーとして相当の反論があります。
しかし、これはひとまずおいておきます。
さて、東京から「ひかり」が薄暗く、闇を受け入れ始めました。
東京オフィス環境は750ルクスと言われます。
しかし、米国でのオフィス環境でも450〜500ルクスでした。
商業施設では1000ルクスが求められてきたことも事実です。
もちろん、病院や作業環境での明るさの必然性は遵守当然ですが、
「節電」=節約電力が私たちの日常下意識になりつつあります。
いわゆる陰翳、夜空の星、月明かりが大都市に戻ってきました。
戦後、高度経済成長とは、私たちが「ひかり」ある生活こそ、
進歩の証拠として都市文明を希求してきたのかもしれません。
かって、ある有名な照明器具メーカーのショールームが完成し、
そのショールームで、気分が悪くなり、吐き気すらするのです。
よくよく考えてみたら、そのシュールームに影が無かったのです。
だから照明というのは、影あるひかり=あかりだと理解しました。
東京の夜空に星が見える、月明かりに感動すると聞きました。
「陰翳礼讃」は、日本の伝統的な美意識であり伝統文化です。
「節電」という作法を日常化していくことは、
これまでの日本が本当の豊かさは「あかり」にあって、
決して「ひかり」では無かったことを気づかせてくれました。
人類が生命をも危うくする光とは光線です。
その極みである放射線を求めることへの大反省です。
だから、私は「脱・原発」というより、
「解・原子力」での「あかり」を求めたいと思っている次第です。

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「『国難』だから現政権への造反有理」


   


     4月 29th, 2011  Posted 12:00 AM

真実、「国難」にある日本です。
しかし、大震災・津波・フクシマ原発だから、
国難になったわけではありません。
「政権交代」を望まねばならない時から、
この国難はスタートしていたのです。
そして、みんなが新しい政策転向に大きな期待を持ちました。
けれども、民主党政治は「素人政治」であり、
党内党略が国政の前に政治環境、その最悪化を連続させています。
逼迫した国家予算も、「バラまき」一辺倒であり、
なぜ教育費が無償化などには、知識層は疑念を掲げていました。
官僚支配からの解放は「仕分け」というパフォーマンスであり、
「世界でNo.2でも構わない」。この発言に国民は仰天しました。
このような低レベルな言動女性代議士はホステス閣僚であり、
見事に、大衆主義を体現する象徴になったままです。
日本のイデオロギー構造(この見方をしなくてはならない)は、
明らかに「社会主義化傾向」を見せ始めていました。
こうしたときに、必ず、天災に襲われるのです。
村山政権時も同様に、阪神淡路震災に見舞われました。
自衛隊を「暴力装置」とみなす政権には、
本来、国政を司る権力性を預けるべきではなかったのです。
大震災は原子力発電所の破壊を誘発しました。
しかし、これは明確に人災でした。
よって、私は原子力推進派ではありませんし、
しかも脱原発派でもありません。
むしろ、どれだけ「文明の利器」が怖いモノだからこそ、
新たな原子力技術の進化を求めたいという人類義務意識者でした。
[自然・科学・技術]・対・[人間・デザイン]ということが、
今や一方的な脱原発思潮が世論化しています。
私は、無論、救済・復旧・復興がこの国難と対峙していますが、
それ以上の国難は、一方的な脱原発志向だと思います。
なぜならこの国難解決をさらに困難にする政権支配だからです。
私の世代は、70年学園闘争世代です。
にもかかわらず、この政権を破壊出来ないでいるのです。
私なりの「造反有理」はここに書き残します。


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「建築家よ、吟味すべし仮設住宅建設を」


   


     4月 28th, 2011  Posted 12:49 AM

大震災からの復旧・復興は未だ大間違い。
復旧や復興の大前提が叶えられていません。
まだまだ「救援」と「救済」が不可欠です。
救援とは「援護」であり、
救済とはまさに「経世済民」=「経済」復活です。
救援救護の具体策は、「仮設住宅の建設」でしょう。
30000戸が必要と報道されていますが、
「仮設住宅」ではありえず、
私は「佳設住宅」であるべきだと考えてきました。
しかも、この住宅建設に確かなチェック機構があるのでしょうか。
確かに、屋根材であるガルバニウム鋼板屋根は、
プレハブリケーション工法としては、安価かつ合理性を認めます。
しかし、TV報道画面で見ている限り、
あの屋根材の基礎工事が釈然としません。
吸音素材と断熱・断水素材は省略されているはずです。
すぐに撤去させるからということも推測できます。
だとするなら建設と撤去費用を考慮すれば・・・・・?何か変。
壁面のパネル工法も半世紀前の技術そのままだとしか見えません。
住設設備も時代遅れ製品群ばかり。
市町村が仮設住宅地を設定し、
地権者の承認(これが膨大であったり)を求め、整地をし、
それからインフラである水道・電力送電を県承認受けるという、
この手続きをどうして「超法規化」できないのでしょうか。
どうして、建築職能家たちは「佳設住宅」を提案でもいいから、
発言も行動もありません。
しかも、「仮設住宅建設」事業の既得権益は、
全くチェックされていないと見ています。
ひょっとして、これからの国策的復興事業には、
復興事業に関与するすべてにわたって、
既得権益制度を「なんとか族」なる代議員たちの集金装置・・・。
私が名辞する「仮設」ではなく、
「佳設住宅」とはSmart Houseであり、
そのまま「まちづくり」を意図した企望です。
建築界の正当なまなざしを期待しています。

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「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」


   


     4月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

天災・人災を日本人は直視。
不幸な時代に入ってしまいました。
誰もが幸運で幸福でありたい。
そういう意味では日本は「楽園」でした。
しみじみと今思い起こしています。
私は講演でも、時々、デザインが幸福に直結する話をします。
それは私自身が、車椅子生活になったことは「想定外」でした。
しかし、私が交通被災に遭うかも知れないことぐらいは、
絶対に想定しておくべきことだったのです。
それでも、身体障害者・心臓障害者になったことが、
最初は自分の「不幸さ」をどれほど自分に詰問したことでしょう。
ところが、今では、だから幸運だったとさえ思っています。
さて、「幸」という文字はもちろん漢字ゆえに古代中国発祥です。
「幸不幸」という文節として登場しました。
すなわち、「幸」であるのか「不幸」であるのかは、
神に試された結果だという物語です。
断崖絶壁に立たされていて、神が背中を押して突き落とすのです。
それでもその絶壁を登り直して、
生きながらえることを「幸」と呼び、
その断崖から突き落とされたままを「不幸」という話です。
その「幸」という文字は象形文字であって、
両手首を縛られていて、手の自由を奪われている姿です。
いうなれば、人間が「幸」であるというのは、
実際は「自由の無い、不自由な存在」こそ「幸」なのです。
だから自由平等などは人間には備わっていないというわけです。
不自由な存在が人間と考えればどれほど自分が救われるでしょう。
「幸運」であろうが「幸福」であろうが、
基本的には不自由な存在として「生きる」ことです。
自由なことなどあるわけがありませんが、
自由になれるのは、「想像力の中ではとても自由」です。
私自身は「歩けない不自由な存在」。
「いつ大きな心臓発作がくるかもしれない大きな不安ある存在」。
私がここから抜け出ることができたのは、
「想像力」を源泉としてモノのデザインが出来る職能だったこと。
さらに、それをもっと強化してもらえたのは、
スーザン・ソンタグ著「隠喩としての病い」での解釈でした。
「病気と対峙していくことは市民の義務」(原文ではありません)。
これから、この国・日本の私たちは「不幸」を自分の人生に、
それこそ想定外に背負い込むでしょうが、
「想定外」とは想像力が無いことですから、
本当に「不幸」と成ってしまうのは、
目の前の大きな断崖絶壁を不自由ながら登っていくことです。
私自身、なんとか交通被災から絶壁を登りました。
けれどもまた大きな断崖絶壁を直視しています。
登れる限り登っていくつもりです。
私の特技は、結構自分で「これはヤル」と決めたことは、
必ずやり遂げることです。
頑張ることでもなく努力でもありません。
努力なんて、必ず報われる訳など無いのですから、
「これはヤル」と自分が決めたことは、
必ずやり遂げていくことが「生きる」ことであり、
そうすれば、両親や祖父母にあの世で会えるだろう、
そんな想像力の中では、絶対に「自由」なのです。

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