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「哀しみがつくること」


   


     4月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

天災は天罰だというのは悔恨です。
自然の脅威の前にひれ伏した言葉です。
なぜか、被災すれば自責するのですが、
それは人間である証拠だからです。
私も自分が交通被災になったときには、
なぜ、自分がこのような天罰を受けたのだろう。
・・・悩みました。
・・・苦しみました。
・・・悲し過ぎました・・・。
だから、私は「哀しみ」という言葉で、
自分を包み込んだのです。
そして、「哀しみにデザイン」として、
自分自身へのデザイン対象を見つけました。
まず、腕に力をつける工夫をしました。
鉛筆すら握れませんでした。
鉛筆と指先を固定する様々な方法を考えました。
そんなことの集大成が車椅子のデザインでした。
被災地の人々は、
「なぜ」と繰り返し自問したはずです。
それを見つめる日本人全員が、
今あらためて、この「哀しみ」を共有するのです。
自然なんぞ、脅威なんかではありません。
しかし、自然への畏敬があってこそ、
「哀しみ」をきっと、勇気にしてくれるはずです。
人間には与えられた生涯の時間があるようです。
それは生から死への時間です。
生と死は平等なのに、その時間は不平等です。
生老病死がその時間を制御しますが、
突然の天災、しかもこれに人災です。
生老病死に喜怒哀楽が纏い付いているのです。
喜怒哀楽は、それぞれのきもちに振幅があります。
私は、きっちりと喜怒哀楽も平等にしたいのです。
だから、哀しみと怒りがなければ、
喜びと楽しみを得ることはできません。
おそらく、天災だけだったなら、
復旧し、復興は、
神戸のように10年で再生できたでしょう。
けれども、原電事故は修繕です。
しかも手法の開発が必要です。
多分、長期的かつ粘り強さが求められています。
必ず「哀しみ」を蓄えれば根気力が生まれます。
私自身の体験です。


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「希望を企望に」


   


     4月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

成長の限界に至れば、
その成長は
突然破壊されることが起こりうることがあります。
あるいは偶発的なのか必然なのか災難に見舞われます。
それが人間、社会に対してであれば、
これほど人間をそして社会を
悲しみのどん底に落とし込むことはありません。
そんなとき、その悲しみゆえ「絶望」に囚われるのです。
私は数度そのような体験をしてきました。
しかし、「絶望」の哲学的意味を知っていました。
つまり、「死に至る病」とは、
それは「絶望」でした。
実存主義哲学者・キルケゴールのことばです。
だから、絶望などしていられません。
歩けないことや、いつ心臓発作がくるかもしれない、
そのような不安と対決する圧倒的な力が必要でした。
ある意味では簡単な発想をすればいいのです。
絶望の反照を見つけて
自分に言い聞かせることです。
自分に言い聞かせるというのは「祈り」です。
そして反照は「希望」です。
絶望と希望は対称性があります。
希望というのは、「希」という漢字に意味が明確です。
布を織っていくとそこにはかすかな隙間ができます。
その隙間から覗いてみると
余りにも遠くてたどり着けそうもないところが見えます。
それでもその場を望むのです。
見続けることです。
それが「希望」です。
希望にはよりそってくれる言葉がいっぱい出てきます。
夢・跂望です。
こうしたことばが絶望を抹消してくれるのです。
特に、希望より跂望です。
「跂」という文字は、
つま先立ちして身体を支えながら
到達したいという夢を望んでいる形象です。
私はデザインという営為を身体化してきました。
踝からつま先立ちするもう一つの漢字が企画の「企」です。
だから、祈望・跂望・希望をさらに強化する「企望」は、
まさしくデザインだったのです。
デザインは絶望を抹消させることができます。


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