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「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」


   


     4月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

天災・人災を日本人は直視。
不幸な時代に入ってしまいました。
誰もが幸運で幸福でありたい。
そういう意味では日本は「楽園」でした。
しみじみと今思い起こしています。
私は講演でも、時々、デザインが幸福に直結する話をします。
それは私自身が、車椅子生活になったことは「想定外」でした。
しかし、私が交通被災に遭うかも知れないことぐらいは、
絶対に想定しておくべきことだったのです。
それでも、身体障害者・心臓障害者になったことが、
最初は自分の「不幸さ」をどれほど自分に詰問したことでしょう。
ところが、今では、だから幸運だったとさえ思っています。
さて、「幸」という文字はもちろん漢字ゆえに古代中国発祥です。
「幸不幸」という文節として登場しました。
すなわち、「幸」であるのか「不幸」であるのかは、
神に試された結果だという物語です。
断崖絶壁に立たされていて、神が背中を押して突き落とすのです。
それでもその絶壁を登り直して、
生きながらえることを「幸」と呼び、
その断崖から突き落とされたままを「不幸」という話です。
その「幸」という文字は象形文字であって、
両手首を縛られていて、手の自由を奪われている姿です。
いうなれば、人間が「幸」であるというのは、
実際は「自由の無い、不自由な存在」こそ「幸」なのです。
だから自由平等などは人間には備わっていないというわけです。
不自由な存在が人間と考えればどれほど自分が救われるでしょう。
「幸運」であろうが「幸福」であろうが、
基本的には不自由な存在として「生きる」ことです。
自由なことなどあるわけがありませんが、
自由になれるのは、「想像力の中ではとても自由」です。
私自身は「歩けない不自由な存在」。
「いつ大きな心臓発作がくるかもしれない大きな不安ある存在」。
私がここから抜け出ることができたのは、
「想像力」を源泉としてモノのデザインが出来る職能だったこと。
さらに、それをもっと強化してもらえたのは、
スーザン・ソンタグ著「隠喩としての病い」での解釈でした。
「病気と対峙していくことは市民の義務」(原文ではありません)。
これから、この国・日本の私たちは「不幸」を自分の人生に、
それこそ想定外に背負い込むでしょうが、
「想定外」とは想像力が無いことですから、
本当に「不幸」と成ってしまうのは、
目の前の大きな断崖絶壁を不自由ながら登っていくことです。
私自身、なんとか交通被災から絶壁を登りました。
けれどもまた大きな断崖絶壁を直視しています。
登れる限り登っていくつもりです。
私の特技は、結構自分で「これはヤル」と決めたことは、
必ずやり遂げることです。
頑張ることでもなく努力でもありません。
努力なんて、必ず報われる訳など無いのですから、
「これはヤル」と自分が決めたことは、
必ずやり遂げていくことが「生きる」ことであり、
そうすれば、両親や祖父母にあの世で会えるだろう、
そんな想像力の中では、絶対に「自由」なのです。


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「『安全神話』も『脱原発』も同義語である」


   


     4月 26th, 2011  Posted 12:21 AM

フクシマ原発は未来を剥奪。
震災以来の現実です。
原発被災立地の地域は日常性も無くしました。
そして、原発推進派は徹底的な非難対象者です。
これまで推進に賛同してきたことは誤りだったと、
まるで懺悔まで始まっています。
「脱原発」にのみ正義あり、
この世論性が、原発立地での被害判断性から生まれ、
この大きな世論が圧倒化しつつあります。
これは、明白にまだまだパニック状況が連続していること、
「予断を許さない」という連日報道で、
蓄積してしまった疲労からの判断だと思います。
だから「反原発」が「脱原発」という思考進化に至っています。
しかし、ソーラー発電、風力発電、地熱発電などという方向が、
果たして本当に正しいという保障も確実ではありません。
今、最も正当な判断をするには、
このパニックから一度離脱した見方が必要だと私は考えます。
突然のように、これまで原子力推進で「安全神話」側が、
ソーラー発電の有効性が、
20%から75%は可能と言い出し始めました。
これもまだまだ机上の論理に過ぎません。
発電技術だけの問題ではなくて、
発電・変電・送電・蓄電までこの四つの統合的判断が、
「脱原発」には欠落しています。
当然ながらこれまで、「安全神話」で取り囲んでしまっていた
原子力推進派と肯定派も大間違いをしていたのです。
「反原発」はドイツの緑の党首・ユリゲン・トリッテンです。
彼には「反原発」から「脱原発」は当初から皆無だったことを、
日本ではまったく報道も著作もありません。
ユリゲン・トリッテンの言動は国際的にも、
荒唐無稽なアジテーションだったことは明白な事実です。
「原子力」をきわめて深く知性的に判断評価しなければ、
「安全神話」も「脱原発」も、いづれ同義語だったということを
私は想定しています。
「想定外」などありえない新たな発想とその技術開発を望みます。
発電・変電・送電・蓄電までの統合的なデザイン、さらには、
節電、省電までを「想定内」とするデザインが必要です。


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「市民運動のパトロンは決定的資本主義」


   


     4月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

まず、市民運動に疑念があります。
昨今は誰もが政治の主役。
だから政治は素人で充分という認識。
そうでしょうか。それは無理でしょう。
政治家と言うほどですから専門的職能だと私は考えます。
当然、どのような職能も素人から始まりますが、
やはり政治家になっていくには基礎知識とそれを支える教養、
そして、立法・行政・司法という法律立案運営を支える哲学。
さらには経営能力など政治家素養は拡大しています。
自身の能力で叶わないならばそれなりの専門家アドバイス。
しかし、アドバイスとの対話が出来うるだけの自己啓発力です。
したがって、市民運動が対象としている「ある問題」設定と、
その問題意識だけではいわゆる「情報処理認識」は不可能です。
ひとまず、ここまでのことがらを政治家資質に求めます。
そして、市民運動もさることながら選挙ともなれば、
その活動資金は不可欠です。
ボランティアが全てを支えられる訳ではないでしょう。
すでに明らかになっていることは、「反なんとか・・」には、
必ずパトロンがいるということです。
いわば、そのパトロンは資本主義的な自己利益のために、
世論、たとえば安全神話を操作するだけのために、
当初は純粋な人を市民運動家にしているだけです。
これはほとんどイデオロギーや思想哲学というより宗教です。
したがって、新興宗教団体がパトロンということになれば、
あの「オウム真理教」を思い出します。
宗教法人格を持ち、この法人格=集金装置に出来ます。
明らかに、これは資本主義を変調させています。
哲学と錯覚する新興宗教観での洗脳です。
今、国際的にも、捕鯨禁止だという市民運動、
反核運動、自然回帰運動、CO2問題運動、反原子力運動にも
パトロンが存在していることは明らかです。
私の疑念はここに止まりません。
市民運動・住民運動・学生運動など、
すべからく「人気度と認知度」、
そうした運動の中心人物のカリスマ性まで加わってくれば、
これは民主主義と言うより、
大衆主義が派生しているということです。
だから民主主義と大衆主義での共通項には、
まず、賛同者数ということ=多数決が民主主義という盲進錯覚を
強引なカリスマ性が引導する必要があるということになります。
これは常套手段であり資本主義利得が必ず張り付いているのです。
地方分権(資本主義の矮小的象徴)が声高になってきていますが、
これが市民運動とどれほど接近しているのかは、
さらに「国難」に覆い被さっています。
あらためて、政治へのパトロン性には厳密な監視が必要です。
このパトロン性から、「政治家存在」と「政治家同一性」を
徹底的に確立していくことが国難への前提です。
復旧・復興を語る前段、「救援」はまだまったく終わっていません。
市民運動がまだ立ち入ることができないのは、
パトロン欠落があるからでしょう。
国難と市民運動は充分に対照化できることになっています。
そして無念極まりないのは市民運動家が首相リーダーという悲劇です。


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「民主主義の破壊者は市民運動家である」


   


     4月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

自由・平等は市民生活の基本です。
そして、平和で健康を実現するという理想主義。
17、18世紀、英・仏・米ではこの理想主義を
連帯して、政治への抵抗と擁護を図ろうとし、
それが市民革命という経験となり、
市民運動の原型だったと考えます。
現代になると、この経験は巨大に拡大します。
「市民的自由」という概念的武器は,
言論とデモ行進とハンガーストライキ、マスコミ支援など、
暴力性の否定が世論を味方にすることができました。
私はこうした歴史から市民運動家という職能が生まれたとき、
市民運動は自由権と生存権の訴求が、
国際的から地域的へと展開するとともに、
その連帯性をさらに資本主義体制の背後支援によって、
その「市民運動家」を変質させたものと考えています。
特に、日本での市民運動の展開は、
大正デモクラシーなど文化性がありながら、
資本主義否定があったことから弾圧され、
以後、市民運動展開は大幅に立ち遅れたと思っています。
日本での市民運動は、その指導者のイデオロギーによって、
そのすべてが「反体制運動」となり、
時には、住民運動や学生運動と重なりその利得配分での連帯性を隠避し
すべからくが「反体制的」よりも「反権力的」な性向を有してきました。
したがって、この市民運動家からの代議員職能は、
あたかも市民の代表者であって、
市民の声を代弁しているという幻想が張り付きました。
しかし、この幻想こそ、
その市民運動が暴力的イデオロギーを臭わせていても、
偏重した資本主義に擁護されているものがほとんどです。
結果、市民運動家という存在が、
民主主義をその根本で破壊しているものと考えています。
したがって、市民運動家からの国家的リーダーには、
国家的な政治実務能力があるわけがありません。
そして、市民運動や住民運動で語られる「反権力性」は、
こうした人たちが体制側になったとき、
決まってより強固な「権力武装」をなしとげてきたことは、
人類の歴史に明らかだと判断しています。
これまで、市民運動が主張の核心としてきた、
「反戦・反核・差別・情報公開・自然保全」には、
スローガン性やアジテーション性はありますが、
それ以上の実務的な理想主義実現企望は欠落しています。
これまで私が市民運動家で、首相や首長となった人物に、
思想的共鳴をしたことは全くありません。
正直なところ、政治家としては、
嫌悪と軽蔑感を持っていることを述べておきます。
市民運動家こそ、民主主義を破壊していると考えています。


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「民主主義が護ること、破壊することを分別」


   


     4月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

国会は、議員制民主主義の「場」です。
しかし、天災と原電事故の政治の場が、
なぜ首相官邸なのだろう。
どうしてあの場の議論で決定したことが、
被災地運営で可能になるのでしょうか。
代議士からさらに選別されたリーダーの実務能力、
これがこれほど無能であることに私たちはNOを告げるべきです。
官邸で閉じこもっている指導者に
何が見えているのでしょうか。
明らかに、国会の場からも被災地という場は見えません。
もっと見えないのが放射能。
かと思っていたら、ますます見えないのはリーダーの方針。
民主主義を標榜し、共有と共時感覚を有しているのは民間であり、
そして行政それぞれ「地方」であることが露呈しました。
「中央集権国家体制」は破滅したと考えるべきです。
無論、これは民主党に限らず自民党も同罪だと思います。
民主主義だから私たちが護られてきたことがありました。
たとえば、水道の水が飲める国家、
しかも「うまさ」まで追求できた日本でした。
私たちは、そのことに慣れ切ってしまったのでしょう。
私たちも反省と自省が求められています。
世界140ヶ国で水道完備は13ヶ国と言われています。
ところが、民主主義を建前に「隠匿」してきた「原子力」は、
企業利益=資本主義の我田引水への固守により、
本来は「理想主義対象であるべき原子力」を破壊したのです。
文明の利器ゆえに、その危険性を「安全・安心・信頼」を
台無しにしたのは、誤った資本主義とその下意識主義の民主主義。
あらためて、民主主義の罪と罰を明確に分別する大きな機会を
わが国は手に入れたことを確認しておきましょう。


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「代議員には教養と財産があるべきだった」


   


     4月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

議員制民主主義は近代憲法の賜物。
真っ直ぐな理想主義だと思います。
そして、この制度は英国から始まりました。
政治という支配構造の根底には、
「声なき声を」代理で議論する人が代議員です。
この英国式議員制もすでに限界がきていると想像します。
そういう意味では「民主主義も終焉」しています。
かって、英国での代議員には二つの条件がありました。
「教養と財産」がある人物によって議員制民主主義が出発しました。
わが国の議員制民主主義を司る代議員には、
教養は学歴となり、財産は代議員という商売での蓄え財産贈与。
このようなことが明確になってきたのが、
日本の議員制民主主義を「声ある声が」取り囲んでいます。
だとするなら、代議員が為すべき責務は放棄されていることです。
明確なことは代議員にあるべき「教養」と「財産」を
再度検分し直すことでしょう。
すでにこの事などは幾たびも日本の「声なき声」の中にあります。
教養が学歴ではありません。日本人全ての了解事項です。
今回露呈したことは御用学者の卑しさだったと言えるでしょう。
建設族、原子力族、電力族とよばれていた代議員たちが、
多数決=票集めに、学歴を教養と読み間違えていた無能さです。
大学人としてこのような学者たちをどれだけ見てきたでしょうか。


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「議会制民主主義を為すべき人々へ」


   


     4月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

民主主義は人類の到達点でした。
ここに、為政者の思想哲学基盤が存在。
よって、何も疑念・懸念も社会は放棄。
しかし、その民主主義が、
「議会制」という枠組みの中での
手続きであるとするなら、
政権交代を安易に選別した私たちに大きな責任があるのでしょう。
為政者たる代議員の資格を
詳細に検証しておくべきだったのでしょう。
議会では、議論・話し合い・討論が、
民主主義を正当に果たしていく本来は大きな実務だったはずです。
天災はこれを破壊し、
すでに議員制で語られるべき、
その役割の代議員の資質と資格を明確にしてしまったようです。
現政権が「仕分け」という手法を
議員制内閣の一つの実務としたとき、
彼らの無能力性を公開していたのです。
寺田寅彦、その著作には天災についての文章が数多くあります。
日本というこの国の自然、
特に天災で何度も苦しめられながらもなぜ生き延びた民族が、
私たちだったのかを確認することができます。
せめて、代議員の方々の思考要素にしてほしいと思います。


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「破綻していく議会制民主主義は・・・」


   


     4月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

資本主義、
その下意識主義には、
民主主義が正当な論理構造。
私が次第に納得できなくなってきたことです。
「資本主義からの逃走」という
ブログを書き始めた動機でした。
この予想は予知だったのかもしれません。
結論を連日見せつけられつつも、
何も抵抗できない自分が居ます。
民主主義がわが国では「議会制」の中に配置されながらも、
「議会制」に呪縛されて解放を成し遂げようという動機すら、
すでに忘れ慣れ切ってしまっていた私たちなのでしょう。
突然、天災がその巨大な特権を発動させた気がします。
わが国の「議会制民主主義」は破綻しています。
問題は三つだと突き詰めることができます。

  ■「多数決」ゆえの政党間騒動がそのまま政治反映
  ■ 民主主義への徹底した疑念を怠慢放置した思考停止
  ■ 議会を構造化している資本主義の脆弱さ放任

この三つを解明できない大衆主義があたかも民主主義という錯覚。
議会制民主主義の制度たる三権分立を崩壊させたマスコミの存在。
私たちは、このあたかも津波に飲み込まれた破綻事態を
「天災tunami」=国難で思い知らされているのでしょう。


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「文明の利器である原子力だから怖いのだ」


   


     4月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

刃物業界は「利器業界」と呼びます。
つまり、刃物を利器というのは、
まさしく文明と直結しているからでしょう。
刃物は食物、野菜や魚、肉を切る道具ゆえに、
文明の利器として、
刃物こそ最初のモノだったという文脈が残っているからです。
刃物は人殺しの道具になります。
これは利器というモノを象徴しています。
「原子力発電」は、
最も先端的な文明の利器だというのは間違いありません。
「反原発」と「脱原発」の間には微妙な温度差を私は感じます。
フクシマ(すでに世界語)原電事故は、
「原子力発電」の全廃という核アレルギーヒステリーを、
加速し強化しています。
だから、国際的に「反原発運動」は過激さを増しています。
この運動の切実さは当然でしょう。
ともかく原子力肯定についての発言は、
もはや「魔女狩り」集団相手への反論を掲げるようなものです。
私は、原子力発電所のあり方には反対ですが、
「原子力技術」その進化が、「脱原発」になることはありえない、
この主張を変えることはないでしょう。
代替エネルギーはまだ「空想エネルギー論」です。
世界的に明快なことを整理して、議論をしている場合ではなく、
私は、既存の利器である原子力への責務・義務への具体行動こそ、
今最も私たちが「問題解決」していくことだと考えます。

  ■ 原子力利用・推進国
  ■ 原子力成長国
  ■ 原子力新規導入検討国
  ■ 脱原子力傾向国

現在は上記の分類が明確になった国際的な原子力への姿勢です。
そして、「脱原子力傾向国」には、
代替エネルギーへの技術開発力もなく、
他国から電力を買い取っているだけの国であり、
「空想エネルギー論」の主張国だけだと分析することができます。
私は、「文明の利器」は両刃の刃であり、
それを確実な「安心・安全・信頼」を技術と倫理の制度設計が
最も知性的姿勢・態度だと考えます。
私は「反原発」・「脱原発」という空想論を声高にする気は皆無です。
「文明の利器」は、武器となり、人命を脅かすモノだということを
あらためて受け止めて、原子力へのデザイン導入を提示します。


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「何が制度設計かが大問題という要認識」


   


     4月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

制度という言葉は便利です。
あたかも制度設計には理想論が有るようです。
これは大誤解であり、制度設計は現実主義です。
つまり、制度というのは
「切り捨て程度具合の決定」です。
法規的には「切り捨て」ルールづくりが制度設計。
したがって、制度設計はある意味では、
冷徹な「切り捨て主義」が根底だと理解しておくべきでしょう。
しかし、今回の大震災はもとより原発の安全運営に対して、
その制度設計は「住民切り捨て」での原発立地制度でした。
私の原発反対理由はここにありますが、
それでも「原子力技術進化」以外は空想エネルギー論です。
自然エネルギー論は空想であり、
技術エネルギー論優先主義です。これはいづれ展開します。
さてあらためて、わが国の憲法にも、地方の条例にも、
災害に対する「制度設計」はあったのだろうかと思います。
条例という制度もその原点は、大震災でした。
福井震災時の治安非常時に、
GHQによって県行政での緊急な法整備が「条例」という
地方行政独自に法定・法律決定ができるという制度です。
現在、被災地に仮設住宅を建設するにも、
市町村が場所の選定を行い、整地作業が義務になっています。
整地に関して、その人件費は国費になっていますが、
整地作業や建機手配は市町村の責務になっています。
さらに建設予定地所有者地権者の全了解をえなければなりません。
しかも、その市町村行政は県行政の検閲によって、
インフラ=水道と送電が決定され、その費用は市町村税だとか。
被災地その早急な復旧は緊急でなければならないと思います。
ところが、復興ではないことに制度が立ちはだかっているのです。
まさしく、これまで確かにわが国ほど平和憲法での
完成されていたはずの制度には、こうした国難・非常時の、
いわゆる「制度」には制度内で切り捨ててきたことが露呈しました。
それなら、たとえ「制度」が「切り捨てルール」ならば、
これまでの制度そのものを「切り捨てる」べきでしょう。
この国難の体験での新たな制度設計にこそ、
現実即応の制度設計デザインが当然だということです。
仮設住宅の制度などには、建設業界と政党癒着が確実に、
その制度の中でまだ息づいています。
こうしたことを「切り捨てる」制度設計は建築界には無理です。
あえてプロダクトデザイン界が果たすべきだと主張します。


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