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『鉛筆削りナイフ・伝統技の記号づくりと情報づくり』


   


     3月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

私がデザイン導入を越前打刃物産地に導入して30年になります。
社会的な提案で「スコラ=学校という意味のラテン語」という、
鉛筆削りを商品化しました。MoMA=New York近代美術館に、
永久収蔵され、美術教科書にもデザインとして紹介されています。
当初はすべて金属製で砥石や皮ケースもつけましたが、
プラスチック化して廉価にしました。
そしてデザインは全く変えていなくてもロングライフ商品です。
今や、鉛筆は消滅しかかっています。
ある大学で、鉛筆は数人しか使っていなくて、
ほとんどがシャープペンシルだったという調査があるくらいです。
結局、包丁が使えない、リンゴの皮がむけない、という風潮で、
私は鉛筆削りによって刃物に親しんでほしいという商品でした。
いつの日か、この商品も無くなるのかもしれませんが、
刃物は人類にとって最高の道具です。
なぜなら、刃物があれば、それで次の道具が創れるからです。
そういう意味では、鉛筆+刃物=ナイフ使い勝手の基本です。
これは鉛筆削りというナイフの記号そのものです。
記号としてのナイフだから、表現しているのは安全な使い勝手と、
意味していることは、「切る」「削る」という行為の内容です。
とても簡単な「かたち」にすぎませんが、
現在の家電での道具足る表現とその意味とその内容は、
格段に使い勝手の安全性や記号性を失っていると思うのです。
そういう意味では、私は伝統工芸産地でこの商品づくり、
すなわち「記号づくり」は正直で素直であったと自負しています。
私は、すでに製品でも
商品でもなくて、
今後は「記号づくり」が重要になってきていると主張しています。
しかもさらに需要なのは「記号」と「情報」の創造創作です。
「記号づくり」+「情報づくり」、この一元化だと確信します。

「750年をタケフナイフビレッジで革新して30年」
『タケフナイフビレッジにはもっと要求する』
「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」
「タケフナイフビレッジの次世代へ」


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『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


   


     3月 6th, 2014  Posted 12:00 AM

「記号」ということばは道元が定めたといわれています。
ちょうど私が30歳で東京を離れふるさとに帰郷する年に、
日本記号学会が発足し会員になったことを思い出します。
学識としての「デザイン」は文系であり理系でもあったので、
核心となる学域が無いことに迷っていた私には、
記号学・記号論は、デザインの複合的で学際領域でした。
とても最適な学域・論考域として最も興味ある分野になりました。
そしてその時に最適な書籍が「記号論?と記号論?」です。
何度もこの書籍に私は頼っていたことを思い出します。
この学会に入ったのは、まだ当時は学者でもなくて、
論文を書くと言うよりもこの学会誌は書店刊行であったことです。
まだ書店刊行となる学会誌は無かったと思います。
学会員は、数学・医学・哲学・文学・音楽・芸術・デザインなど
あらゆる領域の人たちがいて、その頃読みあさっていた評論家は
ほとんどの人たちがいました。
記号とは、端的に言ってしまえば、
<表現+意味>=記号という認識であり、表現すべての意味、
あるいは意味から表現という形式が『記号」という認識論でした。
したがって、デザインという表現、デザインという意味、
意味+表現=デザイン、表現+意味=デザインとして、
私にとってはデザイン思考を支える基本的な姿勢になりました。
ちょうど私にとっては、記号学・記号論が気になり、
車椅子で私のデザイン方向を探っている最中のことでした。
おそらく私はこの記号論から思考をまとめていたのでしょう。
最近、この文庫本が出てきて「記号論」が一般化したと思います。
さて、こうして一般化してきた記号論は、
あらためて再熟考が必要になってきていると私は意識しています。

「デザインは記号論的な『造形言語と形態言語』での論理化」
「記号論は脱構築に向かっていった『かたち論』」
「商品・コミュニケーションから意味論的デザイン」


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『TV画面=画像と映像の現代的なまとまり』


   


     3月 5th, 2014  Posted 12:00 AM

TVプログラムそのものが商業的でなければならないのでしょう。
たとえ公共放送のNHKであっても商業性が問われています。
常に視聴率によって番組の構成はゆれ動いています。
TV画面の構成デザインには、
画像と映像のデザインプランが欠落していると思っています。
たとえばほとんどのバラエティ番組の文字表現は、
ここまで汚い文字レイアウトができるかと思うほどです。
私は画像とは静止画であり、
映像とは動画=映っている画像だと定義しています。
そのなかで、この番組は明白に自動車メーカーのCM番組ですが、
レタリング選定とその画面配置の構成がまとまっています。
まとまりがあることと美しさには差異がありますが、
私は未来性とTVプログラムのささやかなあり方提案を観ます。
番組のストーリー性・演出性は視聴者の判断にまかせますが、
私はデザイナーとして、この文字表現の画像レイアウトを
評価しています。
おそらくここまでの細いライト性のレタリングは、
液晶ピクセルの技術精度が進化してきたことにもあるでしょう。
しかし、この画像構成での文字表現に未来性があります。
無論、番組出演者がアマチュア的な要因も影響しているでしょう。
この番組の視聴率を知ってびっくりしました。
TV番組では常に視聴率競争が話題になり、
ヒット番組の主演者動向がいわばスキャンダル化されます。
それは万人にとってのある種ストレス解消効能にもなっています。
それだけにこの番組の画面構成のまとまりを私は評価します。
おそらくすべてがレタリングレイアウトのまとまりであり、
深夜番組での視聴率においても評価され始めているようです。

「ヘルベチカは文字の結論になっている」
「デザイン基礎力の一つから現代社名ロゴをみると」


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『アカデミー賞にみる顕彰制度の職能意識』


   


     3月 4th, 2014  Posted 12:00 AM

毎年、米国映画界の祭典「アカデミー賞」を見る度に、
世界の三大映画祭とは全く異なる印象を受けます。
それは映画界という職能界すべての人々にとっての顕彰制度、
その世界的な存在意義を知り確認することができます。
まず映画となればその役者=俳優陣の絢爛豪華なスター性があり、
その華やかさだけが顕彰されているのではなくて、
映画を支える末端の力まですべてが敬愛し称え合うことです。
聞いたところでは、米国で映画関係の大学で学識として、
映画のあらゆる職能=俳優、脚本、装置、照明から美術すべてを
学び会う者すべてが、この顕彰によって、
いつかはあの賞が欲しいという目標になっている「制度」です。
すなわち、映画というひとつの総合芸術デザインを世界観とした、
すべての職能人たちが働きがいを社会的成果の評価として、
ひたすら求めて生きがいにしているということです。
具体的にも、この顕彰制度の祭典・イベントを成し遂げる演出、
その一つ一つをとっても計算されつくされたデザインです。
たまたま私の米国の親友が、この演出企業が、
工業デザイン部門を開設したときのトップでした。
彼からもこの顕彰制度の運営が演出デザインでも最高だろう、
そんなことを聞いていました。
おそらく、アカデミー賞という一見は華やかさは、
実際は、すべからく詳細な支援の総合技だと思います。
それらを支えるすべての人々をお互いに顕彰し合うことこそ、
社会「制度」の本質だと思います。
そしてうらやむことは、映画界というすべての部門、その職能が、
お互いの存在を認識し敬愛しているからこそ、
映画界という存在価値を平和に進化させていると思うのです。

「*貿易国策の一つがGマーク賞制度、その審査委員資格*」


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『仮想通貨の完璧な大失態は金銭欲のなれの果てです』


   


     3月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM


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『3D-Printerと3D-Printingの時代にやっとなったが』


   


     3月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

米国で「MAKERS」という勘違いの書籍がヒットして以来、
あたかもこれが「モノづくり」革新だとわが国まで大勘違い。
Rapid Prototyping=光造形の根本技術を熟知している、
わが国の一部、それは私もその一人ですが、米国の誤りを指摘。
しかしこの指摘が抹消されるほどわが国の流行が起こっています。
本来、光造形はわが国の発明であり、それが米国で登録されて、
あたかも米国が立体造形装置」発祥の地だと思われています。
けれども3D-Printerそのモノの産業化に遅れを成していることが、
この大勘違いを増長させているのでしょう。
米国の3D-Printerの進展は畏れに耐えるモノではありません。
むしろPrinter生産技術のあるわが国の産業ならば、
軽くこれを追い抜けることだと思っています。
まずPrinter=モノ=装置でPrinting=コト=技術と定義します。
結局は、Printerが進歩しなければ、技術自体が遅れています。
その究極がPrinter用素材が全く見つかっていないことです。
そして、Printerが個人化されるという風潮などは論外。
おそらく、私が光造形で求めてきたたとえば「ドッグボーン」、
この形態を現在の3D-Printer・Printingでは全く無理です。
この形態が造形化できなければ、
私が望んでいる金属・ガラスから細胞の造形化は不可能です。
「造形装置」と「造形技術」が究極に求めているのは、
三つあります。
  ● 「素材」の立体化は新素材と個体化
  ● 「立体化」時間工程の最短縮化
  ● 安心と安全なデータの知財権化
これらを可能にする「装置」開発と「技術」提案だと考えます。
そういう意味では、おそらく、わが国こそ、
3D-Printer・3D-Printingを『モノづくり」を支援するでしょう。
欧米をリードするのはわが国の「光造形の経験」だと思います。

「『3D-Printer』・『3D-Printing』この風潮の大間違い」
「3D-PRINTING阪大イベントで間に合わせてもらいました」
「3Dプリンターでクラインボトルが出来た!」
「二回捻ったトーラス(ドーナツ)同様にすれば」
「三つの革命を促してくれた『光造形』デザイン」
『欧米を追いかけてはならない・3D-Printer開発』


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『使い心地を試し使い果たしている電子ペン』


   


     3月 1st, 2014  Posted 12:00 AM

パソコンに出会って以来、その周辺ツールを使い試してきました。
とりわけ、電子ペンはおそらく全て使ってきたと思います。
最近は専用ノートとペン、しかも録音機能付きまでがあります。
電子ペンの筆圧がそのまま描画タッチにまでなるモノも、
デザインスケッチには今のところ最適なモノもあります。
結局、出張の時には最低のツールにしたいのですが、
どれを使おうかと迷いに迷いますが、
それだけ、選択巾も増えて描き心地もひとまずは親近観までに
近づいてきたような気がします。
でもこれまでも電子ペンについては相当に批評を書いてきました。
結局はほとんど毎回「やっとここまできた」という印象でした。
なぜ、そうなるのだろうか、ということは、
Mac、iPad、iPhoneという私はMac周辺と「ペン」あるいは、
「紙墨相発」を指先に感じ取ってきた気がします。
それはデザイナーゆえに、文字書きの世界だけではありません。
スケッチからレンダリングに及びます。
最近は大体スケッチゆえにそれはボールペン感覚の相発性です。
そして、私自身が常に紙墨相発を感じるのは明らかです。
それは日本人ゆえに「書」の世界と自分の関係があります。
書道というのは好きではありませんがまさに紙墨相発の世界です。
筆先とボールペン先の感覚までの個人差が重要だということ。
私は筆の感覚を識っていることをとても幸運だと思っています。
反対に、ボールペンや鉛筆あるいはペンの世界ではないことです。
簡単に言ってしまえば、筆先での描くラインは空中でもOK!
どういうことかというと、書は巻紙を空中で持って描けます。
ということは、電子ペンの究極は、空中で描くツールです。
それはとりあえず「ジェスチャー入力ツール」のペンです。
私がデザインしてみたのは「ジェスチャーペン」だと思います。

「日本ではあまり知られていないデジタルペンの利便性」
「現代文房具はどうして面白いのか」
「スタイラスペンは、まだまだ進化が必要」
「ペン・ボールペン、そしてスタイラス、この進化を追う」
『ブルー色のスタイラスペンがまた増える。』


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『つまらない輩相手に! ある養成キット』


   


     2月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

ふるさとで、伝統工芸に懸命になりこれはコトのデザインとして、
越前和紙を賢明にして商品開発したモノです。
今、和紙とデザインを標榜する輩のモノは「和風紙」です!

「すきっこ」は牛乳パックを素材にして紙漉きをするセット。
「すみっこ」は和紙に墨流し=マーブル模様をするセット。
「わとじっこ」は和紙の製本を和綴じする道具や糸のセットです。

そこでこの三つをまとめて「人間国宝養成キット」として販売。
その直後、国のある機関から叱られました。
それなら、「伝統工芸士養成キット」にして販売。
またしてもこれもつまらん機関に叱られました。
とても真面目な洒落ですが、許されませんでした。
それで、キット販売を諦め、海外でも販売しましたがまず成功。
私はこれ以来、「ひがんで喧嘩しても」商品開発を狙っています。
ともかく、洒落の分からない輩に笑いの美学などありません。
そして、かつて日本のモノづくりの顕彰制度を巡って、
私は、「靖国に眠る人にこれでは報われない」と絶叫しました。
現代、わが国のモノづくりは歪んでしまっています。
わが国の大企業はすべからくが駄目になってきています。
「デザイナーだけが夢を実現する実務手法」を持っています。
だから、なんとしても洒落と美学で尊敬されるモノづくり、
これを目指したいと考えます。
「デザインのためなら・・・・・も私はします!」
これが私の「使命観」であり、これが私の未来・づくりです。

「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
「越前和紙から名塩和紙への悲しい物語り」
「もう一度、漢字と『書』へ」
「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃


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『背中に未来があり、目の前には妄想の死後の世界がある』


   


     2月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は3度「あの世」に行ってきました。
まず、交通被災で体力確定後手術してから、
心不全直前の心臓発作頻脈時、
敗血症で多臓器不全重篤時、でしたが帰ってきました。
だから「死後の世界=あの世」への道程は覚えています。
その結論として、私達は二つのコトを識りおくべきと思います。
一つは、未来は前方には無く、前方には「死」があるだけです。
あの世=死後の世界は無であり空でしかありません。
あの世で父母に逢うことは決してあり得ないでしょう。
死後の世界を私達は宗教で保護と保全されて錯覚しているのです。
そうでもしなければ生きている有の世界を無くすのでしょう。
もう一つは、背中に未来を背負っています。これは見えません。
「Back to the Future」の真実の意味があります。
目の前に「死」=無と空が実は見えていますが、
その日時は見えて分かってはいませんからこそ、
未来を「使命観」で包んで背負っているのです。
見えないからこそ宗教で「あの世」が在ることにしたいだけです。
あの世で父母に逢ってみたいですが宗教的な夢にしておきます。
むしろ、見えない、背中に背負っている未来=使命観だけを
しっかりと期待に、希望に、懸命に、賢明に、真剣に、真面目に、
私は一日一日を過ごしたいと考えています。

「際限は背中に、目の前に未来など無く」


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『65歳=65年間というこれまでの人生とこれから』


   


     2月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

1949年2月26日福井県福井市松岡町で私は生まれました。
18歳で故郷を離れ28歳に交通被災、車椅子生活になり、
当時、被災直後には40歳までが統計的な生涯と言われてから
その覚悟のままに30歳にはふるさとに戻りました。
40歳で毎日デザイン賞を受賞してやっとデザイナーになれた時、
「あれっ!」、て思いました。命が永らえたからです。
しかし、45歳で心臓障害となり、障害者認定は二つもあります。
身体障害者1級と心臓障害者1級です。
47歳は私にとって母と21年間が終わり、母は47歳で逝きました。
だから、生き方を変えるために大学人とデザイナーになりました。
10年間は名古屋市立大学大学院の完成年度をもって阪大に転籍。
あっという間に63歳にて阪大を退官。
おそらく、社会人になってから私の人生が始まったのでしょう。
しかし、March 11.2011は私に生命の限りの使命を決めています。
自分に与えられた仕事をあくまでもデザイナーとして、
できる限り社会化・実現していきたい、それだけです。
デザイナーとして有名になるということは、
車椅子となり、ふるさと福井に戻ったときには消滅しました。
私の父は79歳で逝きましたからせめて80歳までをと決めています。
70で社会から離れて自分の生涯を兵役と警察官で終えた生き方こそ
私は父に見習いたいと思っています。
「行学」としてデザインを自分なりの生涯で果たすこと、
これが65歳=65年間、本当は40歳と言われてから、
もう25年も生きてしまった私の決意と覚悟です。
この場をかりて、周囲の皆様にお礼を申し上げます。
深謝合掌

「これからの私、私が賢明で懸命になること」
「生年月日が同一の情あればさらに使命観を」
「卒業後40年、そして63歳誕生日」


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