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10月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

10月17日 辛酉(友引)

喧嘩は室町時代に
「喧嘩道」という美学のひとつ。
なぜなら、
喧嘩とは
口喧嘩=口論=ディベートであり、
暴力殴り合いではなかった。
そして、
喧嘩とは
自分に売ることで、
それから相手に対峙対決することだった。

川崎和男「喧嘩道」


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「資本主義からの逃走」
 「『痛み』・・・辛いことはこの世に戻るとき」
  


   


     3月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

人体・生体はポリ袋
ポリ袋に水が詰められています。
そのポリ袋など、針先で簡単に孔が開きます。
孔が開けば、水はそのポリ袋から漏れ出します。
人体というのは、70%が水です。
人体をポリ袋に喩えれば、まさにポリ袋など簡単に破れて、
水が漏れ出すように、命がなくなります。
生命というのはおそらくこのポリ袋の水が漏れ出してすぐに息絶えるという代物でしょう。
この世・あの世の狭間往来
私は3度、この世とあの世、その狭間の暗闇を往復したという個人的な現実、
他人からみれば幻想だと片付けられるでしょう。
3度の体験は、サイクルが決まっています。
まず、失神していますが、これは確実に幻想の中にいます。
動物らしき物がいたりしますが、
現実に引き戻されると、病院の天井や室内環境が見えます。
そしてまた多分失神しているのでしょうが、
闇の中に引き込まれると、遠くに光の神々しい輪が段々と近づいてきます。
そこで、気づくのです。
この道を戻ろうという意識になると、ドクターやナースが大声で呼びかけてくれます。
「眠っては駄目です」、とか・・・
「まだやり残していることあるでしょう」、・・・とか。
そしてとてもまた痛みも無くて心地よくて苦痛は快楽的な気分になります。
するとまた闇の中を・・・・・
これを何度か繰り返して、明らかに現実を体感すると、
まず、強烈な寒気で体が震え出し、次に吐き気、そしてまた高熱で失神です。
この繰り返しが、短くて1週間、長いと2週間です。
この世は辛いという現実
はっきりと言えることは、「この世」に戻るときの苦痛を超えた「辛さ」です。
つまり、「この世」に存在するためには「辛い」コトだらけです。
「あの世」へのプロセスは、光の輪に吸い込まれていく快楽が在るということは確かです。
「かけがえのない大切さ」=『痛み』
現実は辛いことがいっぱいだということを識れば、
『痛み』こそ、自分だけの辛さの確認=現実的な自分存在の確認だということです。
『痛み』を識る、自分の痛みも他人の痛みも「かけがえのない大切さ」、
これがアイデンティフィケーション、哲学者・中村雄二郎先生の定義は、
私自身の「生と死」への往来で納得していることです。


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「資本主義からの逃走」
   「ブランドは付加価値ではないということ」
  


   


     2月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

ブランド化が創出する価値性
なぜブランドブームなのでしょうか。
理由は前述していますが、
私はブランド=焼き印的な目印では決して語れない、
さらに伝えきれないことがあることを指摘しておくことが大切だと考えています。
企業・商品という経営資源から富を獲得して、
その企業体の帰属者から、企業が存在している社会に、
何をもたらすのかということが全く不明になってきているから、
ブランド戦略なるものが横行しているにすぎません。
すぎないどころから、こうしたブームで抹消されていく事、
そのことを見極めることの重大さがあるということです。
このブームは、いわゆるファッション系の歴史ある欧州ブランドの真似事が源です。
欧州ブランドの商品価値感、これを付加価値と呼ぶ錯覚があります。
そして、デザインをも付加価値の創出職能だという、
私に言わせれば、大誤解が蔓延していることにつながっていることです。
デザインは、「全体価値」だということです。
ブランド化という「全体価値」
ブランドがもてはやされているのは、いわゆる欧州系のファッションブランドです。
しかし、こうしたブランドはある種の「カルテル」的に統制された老舗表示です。
その老舗ゆえに、歴史的に蓄積されてきた全体価値があることを見習うべきでしょう。
こうしたブランドの基盤が、アイデンティフィケーションにあることを確認するべきです。
当然、企業体として経営商材である「商品性」と「サービス性」を確認する必要があります。
そして、企業創立以来、時代とともにその時流との応答には、
必ず、時代認識での問題解決が、商材から企業存在性を常に確認してきたことがあります。
つまり、商材に向けて培ってきたことがブランドとして認知され、
今度はブランドになっているがゆえの新たな価値感の創出、
それは全体価値になっているというサイクルで語りきろうとしていることが重大だと思っています。


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「資本主義からの逃走」
  「企業ブランド戦略の誤りは自己表現障害に陥没」


   


     2月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

ブランド化は「自己表現障害」の起因
ブランド戦略に私は信頼感を持っていません。
それは、企業の「同一性」構築から離脱する軽薄さがあるからです。
確かに、私はデザイナーとして企業デザインには、
企業デザイン戦略の骨子の重要課題にブランド戦略も製品デザインとともに提案してきました。
デザインという手法は、「ブランド」を構築する大きな手法であることは否めません。
しかし、私はむしろ企業C.I.によって、そこからブランド戦略デザインを追い求めてきました。
ここで記していることは、デザイン手法の論理よりも私の経験値です。
そしてこの経験値の背景には、E.H.エリクソンの「自我同一性」を参照しています。
なぜなら、エリクソンの「自我の形成論・8段階」には、
見事に、人間が生まれて死を迎えるまで、
人格=自我形成、すなわち人格=品性のあり方を正確に解釈していると思います。
よって、企業の自己性と自我性、それぞれその同一性が企業戦略の核心だと考えています。
企業存在が社会環境のなかでどのように進歩していく「べき」なのかを、
企業戦略プラン=企業戦略デザインにすることが最も重大でその可能性の設計がデザインです。
私の経験値では、企業自身の同一性とその表現には、
なんといってもまず、「自己表現障害」を回避させることです。
企業の「自己表現障害」とは、「美しさを失っている企業の全体性と同一性」です。
ところが、ブーム化している「企業ブランド戦略」は表現障害を来している企業を増加しています。
このブランド化が必要と思っていること、それは実は表現障害は、同一性どころか、
特に、商品「差別化」の焼き印=ブランド化に陥っています。
私はあらためてエリクソンの8段階説に照合して、
企業ブランド戦略の誤りを是正すべきだと考えます。
日本株式会社自体、日本ブランドの表現障害に落ち込んでしまっているようです。
私は「同一性」の確認とデザイン戦略を企業品格にまで求めることを目的と目標にしてきました。


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「資本主義からの逃走」
  「三つのアプローチから同一性の検証」


   


     2月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

差分・階差・定差という三つの方策
差異性の有無を検証する方法は三つです。
この思考方法はすでに学問として成立しています。
術語としては、差分・階差・定差と言われています。

■ 「差分」
変化し、その関係を見極めるときに、
ある状態から次の状態での変化差を「差分」と呼びます。

■ 「階差」
そして、明確に比較できる間にある種の法則性があるなら、
いわば数列的な並び方をしているもの同士の差、
これを「階差」と言っています。

■ 「定差」
また、物の配分をするときに等分せずに差をつけて分配することを
問題意識にすることを「定差」をつけて決定するといいます。

これらは、すべからく同一性ではない差異性の特色の解釈方法です。
私が、この三つの差異性を取り上げたのは、
差を見極める方法に対して、明確な解釈とその決定論になっているから、
これをデザイン手法にしようということです。
すなわち、同一性を確認させるには、
「差分」・「階差」・「定差」というイメージを排除する表現方策の発見です。
私が、最も意図することは、企業の顔、商品の顔、
すなわち、企業イメージや商品イメージが確実に社会から認識され認知に至り公知されることを
デザインが請け負うということです。
「確かにあの企業の社会的な存在性と同一」ということをデザインで表徴させたいからです。
「差別化」の抹消をめざす
決して、「差別化」を安易に設定させない、
こうした三つのコンセプト表現方法をデザインが果たすためです。
この手法によって、デザインには決して、
「差別化」という暴力性を抹消させることをめざしています。


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「資本主義からの逃走」
  「別々の詳細から同一性を判断評価」


   


     2月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

「別」とは関節を切り分けること
「同一性」・対・「差異性」の見方です。
私はこの判断には三つの見方を提示しています。
 ● 差別
 ● 区別
 ● 分別
この三つには、「別」というのが共通語です。
「別」を確認しておきます。
この文字は骨+刃物を組み合わせた形象になっています。
「関節を切り分ける」という原意は、
つなぎ合っている箇所に刃物を入れて切り分けることを意味しています。

■「差」
この文字は、稲穂なりの長さなどがばらばらのことです。
よって、長短やその違いを判断することになりますから、
「差別」というのは、明らかに優位性や差違性の判断であり、
その判断行為そのままの表出が「差別する」という行動になってしまうことです。

■「区」
本来の文字は「區」であり、配置されているものの差違と差異を
判断して識別することです。
したがって、違いを判断する以前の行為として、
この区分ということが識別の前提になっています。区分する識別力です。

■「分」
これにも刀があります。行為は切り分けた結果のことになりますが、
二択選別ということを最もこの文字は表しています。

分別が解答を導く
「分解して判断」ということは、
明らかに「解答」を求めていく判断が要請されているということです。
さて、この三つに「差」・「区」・「分」+「別」ということで、
それぞれの識別結果から「同一性」の再確認行為が導き出されることが明らかになります。
すなわち、差別は違いをただ明確にして、その違いをさらに批評的な攻撃にしかねません。
これは暴力につながります。
区別は配置して見比べる手がかりにすぎません。ただし、区別する前提の知識が必要です。
しかし、分別は切り分けて分解したことから判断としての解答を見つけ出すことになるわけです。
よって、「同一性」の判断評価は「分別」によってこそ、
評価による確認の可能性、つまり、何が同一性かという解答にたどりつくことになります。


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「資本主義からの逃走」
  「同一性と差異性の表現は分別性を訴求する」


   


     2月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

同一性の確認、その評価軸
同一性の確認は極めて哲学的です。
同一性って何、ということが不明過ぎます。
もっとも単純に考えれば、「違いがなくて同一」ということ。
同一かどうかは、その本質との差異性の判断につながっています。
最近では、すっかり「性同一性症候群」ということが、
社会的に公認、認知されてきました。
こうした人たちがTVタレントとしての活躍ぶりも現代的な風潮になりました。
本来、性が男か女かは、「見た目・外観」で決定づけられていました。
男という性で生まれながら、脳自体とその思考は女性だったということや、
あるいは、その反対がこの症候群という医学的な定義となり社会的に公認されたことです。
「性同一性症候群」に、「同一性」ということの基本的な認識原則がある事例になるでしょう。
つまり、企業の顔・外観、商品の顔・外観という具合に、
その外見と内実が同一であるかどうかという社会的評価、
それが「同一視」されているかどうかということです。
そこで、「同一性」・対・「差異性」が問われることになります。
ところが、この差異性の判断は、三つの見方があります。

 ● 差 別
 ● 区 別
 ● 分 別

この三つの評価基準で最も低次元な判断が「差別」に他ならないということです。
あらためて、この三つの価値基準軸から「同一性」、
そしてデザイン表現での基軸を見つめ直したいと思います。


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「資本主義からの逃走」
  「企業の同一性は商材の差別化にあらず」


   


     2月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

商材の差別化という常套性
企業の商材である商品には特徴と特長が必要。
その商品とはモノ=物質等やコト=サービス等です。
そして、その商材を経営対象としている企業は、
当然、商材の特徴と特長を「差別化」すると言います。
この言い方・表現はすでに常識的な企業内会話です。
そして、この「差別化」のためにデザインが利用されています。
しかし、商品特徴や商品特長を「差別化」することは、デザインの本質ではありません。
むしろ、商品の差別化というのは、購買者を差別化することになっています。
人間の暴力性は「無知」と「差別」であり商品の差別化とは暴力性だということも可能です。
その購買者向けへの特質=(特徴と特長)、
そのものの差異性や差異性をモノ・コトに語らせようということにはつながっていません。
おそらく、購買という欲望は、マルクス的には所有欲と使用欲に他なりませんが、
現代、この構図はまったく変貌しています。
欲望の刺激装置
労働対価内での購買行動からは外れているということです。
それは、本来なら労働対価による可処分所得内での「買う」という構図が変質したことです。
それは、労働対価を信託化=クレジット化できる金融構造があり、
人々の購買欲望が操作されているということです。
しかも、この操作は広告や広報というこれにもデザインは見事に荷担している情報操作であり、
この欲望の刺激装置化に「差別化」が仕込まれているということです。
しかし、デザインは「差別化」を創出する機構ではありません。
デザインが企業・商材・商品に装置化するのは「同一性」です。
企業存在を具現化している商材とその商材環境の同一性を、
すべからく確認を購買者に訴求することということで、同一性と差別性はまったく異次元であり、
ことばの体系下においても論理性を欠いていることを記しておきます。


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「資本主義からの逃走」
  「企業の同一性は商品の差別化ではないということ」


   


     2月 20th, 2011  Posted 12:55 AM

自己同一性と自我同一性
「同一性」というのは哲学や心理学的術語でした。
このことばは源流までたどれば、
アリストテレス時代にまで遡及できます。
ひとまず、心理学的な解釈と類似=アナロジーが可能だと考えます。
すなわち、人間の存在性、その「同一性」はパーソナリティの形成因です。
だから、自我の関係との対照性を企業の同一性に当てはめることができそうです。
パーソナリティは自我が二つで構成されて、
その個人が帰属する社会や文化との関係性因として見ておくことです。
特にこの二つに注目をします。
 ● 自己同一性=self identity
 ● 自我同一性=ego identity
企業にも同様に、
 ■ 企業の自己同一性
 ■ 企業の自我同一性
があると考えることができます。
しかし、企業の自我はほとんど経営者の自我に決定づけられているというのが私の体験です。
これは別稿で語り直す必要があるでしょう。
さて特に、企業という組織体の主体性・確定できる存在性の確認や、
社会や文化への帰属性は、企業の存在を表象させられる企業環境のすべてに関与しています。
この企業の表象性は、「見て分かる」、「見て分かってもらえる」ということで、
ビジュアルC.I.は不可欠になっていると考えていいでしょう。
「商品の差別化」という自我同一性は間違い
そこで、同一性、その反極には差異性があります。
この差異性の解釈には、差異性と差違性があり、
その表象的なとらえ方の一つに「商品の差別化」があります。
商品そのものの同一性を確認する手段として、
商品の判断性や商品の訴求性のテーマになっています。
しかし、差異性、差違性と差別性は全く異なっているという認識が必要ですが、
ほとんど常識的に「商品の差別化」が語られています。
これは、企業の自己確認を離れた、企業の自我同一性の一方的な押しつけであり大きな誤りです。
商品を分別してもらう企業・商品の同一性を見直すひとつのテーマになるものと私は考えています。


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「資本主義からの逃走」
  「日本株式会社のブランド戦略その再構築」


   


     2月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

ブランド戦略は同一性を創らず
まず、ブランド戦略が企業戦略第一義は不正解です。
ブランド戦略に翻弄され始めた企業戦略は、
根本的に間違っている、ということを指摘します。
理由は、簡単明瞭です。
企業は、「社会的な存在性」・「国際的な存在性」を明確に支援される必要があります。
その社会・国家・国際環境が激変すれば同一性判断を見誤ることになるわけです。
「社会的な存在性」というのは、まさに同一性が確認されていなければなりません。
それは、企業C.I.の見直しでもなくブランドという区別明示の目印作業ではないということです。
よく、ブランド戦略が企業C.I.につながっていくとか、
企業C.I.とブランド戦略がつながっているという言説、これが基本的に間違っているのです。
ブランド=焼き印という区別銘柄づけが同一性を社会に訴求していくという考え方、
この思考そのものを廃棄する必要があると私は思っています。
つまり、企業が存在する「社会観」・「世界観」が変貌し変質し変化していることの認識が
当然に十分でなければならないのです。
少なからず、政治性・企業性・国際性・投資効果性・イメージ性など、
すべての構造変革が毎日日常的に変化していることを直視する必要があるということです。
再構築という新創造
このブログも4年目に入りました。
ずばり、「資本主義」を廃棄する時代・社会の中で、
実際的な企業という構造・形式・内容・イメージすべての連関性と連鎖性を終焉させることです。
新たな「同一性」創出に向かわせる時期に入ってきたと確信をしています。
特に、日本株式会社のブランド戦略は、日本のアイデンティフィケーション=同一性を、
維新ではなくて革新する時代だと認識するべきなのでしょう。
したがって、新・日本株式会社のブランド戦略などはありえません。
まずは、日本の同一性の再確認から何を焼き印=ブランド化できるかを考え直したいと思います。
この考え方を分化すれば、日本のすべての企業に当てはまることになるでしょう。


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