kazuo kawasaki's official blog

『資本主義からの逃走』
   「伝統?・・・デザインが応えていくために」


   


     7月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

越前打刃物へ
現・越前市(武生市)は、
私が小学5年から中学2年までをすごした街でした。
かつては、国府があり、紫式部が父親とともに滞在していて、
彼女が詠んで歌は、「こんな雪が降って寒い所はイヤだ、京の都が恋しい」というのばかり。
にもかかわらず、紫式部の街と喧伝していますし、銅像まであります。
それよりも重大なのは、「鎌」が全国(日本列島北部だけ)に出回っていたという歴史。
 南北朝時代からの「越前打刃物」産地だったことです。
私が、デザイナーとして再度鍛え上げられたのは、
この産地の仲間・職人さんたちと「タケフナイフビレッジ」を創り上げたことです。
ここで、私は「デザイン」の価値=デザインされている商品価値を
産地に納得してもらわなくてはならなかったのです。
東芝時代は、デザイナーであるがゆえに、
デザイン価値を詳細些細に語り切るということはそれなりにありましたが、
「デザイン?」という一言に対して、説得し、納得してもらわなければなりませんでした。
当時も、そして現在でも、「デザインは付加価値」というのがまかり通っています。
「たかだか包丁」です。しかし、「包丁」・「刃物」と私は向かい合うことになりました。
なんといっても「伝統的工芸技術」を思い知らされることになります。
が、私はこれまでの「伝統技」がウソっぽく見えているのです。
 ●素材がこれでいいわけがない。
 ●製造方法の「手作り」が間違っている。
 ●産地表現が商品のどこにも無い。
 ●これからの包丁になれる性能・機能があるのか。
 ●この産地の存続性の鍵は何か。
というようなことが、それからの私へ自問自答して、なおかつ産地のみんなに、
「だから、デザインした商品にすべき」という話をしていかなければならなかったのです。
私に、これまでの「伝統技」に「デザイン」を「付加」するという発想は皆無でした。
つまり、「付加価値としてデザイン」というフレームはゼロだったのです。
以後、私は福井県内の伝統工芸産地に飛び込んでいくことになります。
私が「デザイン価値」と言うべきなら、それは次の三つに集約させることができます。
 ■「伝統」とは「裏切る」こと、裏切るだけの新技法をデザインが主導すること。
 ■「産地」の由来や作り手であるみんなを「ブランド」化すること。
 ■「越前打刃物」の新「物語」性を情報化していくこと。
この三つを「デザイン」で統合化してみせることができる、ということでした。


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『資本主義からの逃走』
    「伝統工芸産地と波、幸運なスタート」


   


     7月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

自問自答の始まり
「そんなに、デザイン、デザインと言うけれど、
デザインで産地は生き返れるのか?」。
この言葉を投げかけられたことをいつも思い出します。
以後この自問は忘れたことがありません。
私の東京でのデザイナー経験が「何だったんだ」ということになります。
この自問自答に思い悩まなければならなくなった初体験でした。
私は、今も現役で、デザイナーとして製品開発から商品展開をしています。
が、この「問いかけ」を常に抱いています。
伝統工芸と波
30歳でした。ふるさと福井に帰って、もちろん仕事も無く、
夕焼けの日は、日本海に沈む夕日と波を撮影するために車で出かける日が連続していました。
興味の対象は「波」でした。
「波」のかたちは、決して同じかたち=形態のものはありえません。
そして、音響をデザイン対象にしてきた経験は「音波」でもあったわけです。
色彩も「波」でした。
私の中では、これから取り組む「伝統工芸・越前打刃物」と「波」が共存していました。
これが、今考えると「幸運」だったのです。
車椅子生活になったことは「不幸」でしたが、
「幸」そのものが実際はとんでもなく怖いことを示していることを知っていましたから、
「幸運」はすぐにやってきていたのです。
しかし、伝統工芸産地の職人さんたちに、
「だから、デザインなんだ!」と言い切れる自信は、まったくありませんでした。
その「自信」獲得のために、私はデザイナーとして振り出しにもどされていました。
私に覆い被さってくる「波」の形態を見定めるスタート地点では、
「歩けなくなった私」と「車椅子を必要とする私」を見詰めていました。


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『資本主義からの逃走』
    「感傷的に、ブルバキの予知はデザインが引き継ぐ」


   


     7月 16th, 2010  Posted 12:00 AM

レトリックとしてブルバキ
私が最後に開発し商品化し、
東芝での決定的な製品開発成果は、イコライザーアンプでした。
SZ-1000です。今なお、オーディオマニアには「語られるアンプ」です。
ヤフーのオークションでは使うこともできないのに取り引きされています。
そして、初めてデザイン系の専門誌にこの開発背景を書きました。
その背景に、当時、本当に思いきって、「ブルバキ」に触れました。
以後、私が飛び込んでいく世界観とデザインの学際性の基盤になっています。
しかし、ブルバキという集団が成し遂げたことは今ではそれほどでもなく思い出にすぎません。
けれども、若い頃夢中になったことの「意義」は大事であり、
生涯を決定づけているということでは、
私にとって、マルクスに傾倒しなかった「論理」があったことは確かです。
悲しいかな、同世代が70年代学園闘争に走り、
その挫折を今頃、権威主義を隠避しているのを見ると、
没落する日本はわが世代の責任と思います。
さて、「美しい花、花の美しさというものはない」を前回例示しました。
用語を取り替えれば、この入れ替えは一つの言い方にはなりますが、
これはもっとも近代において峻別されているレトリックにすぎず、
最も低能な表現手法を自己表現しているにすぎません。
この構造を多用する職能は建築家が多いようです。当然なことです。
しかし、彼らの手法には、ほとんどが対クライアントに対して、
「一品制作」であるために有効性を高度にしなければなりません。
その意味では相当のレトリック能力が求められます。
そのレトリックを使いこなす職能家として「建築家」を自称できるのだと私は判断しています。
なぜなら、その論理は彼らの設計、デザインは「一品制作=特殊解」ですが、
社会性としてのコンセンサスを得るには、
特殊解を一般解とするレトリック性が必要だからです。
したがって、構造主義や記号論などでは、このレトリックが、確実な手法論になっています。
私が美大生の頃、「造形」を論理として認識していこうとするなら、
建築家の著作しかありませんでした。
無論、バウハウス時代には、建築に集中してプロダクトデザインが位置づけられていました。
そして、まったく、建築領域でブルバキの論理を見つけた経験は皆無です。
理由は、建築には「構造学」という数学的な論理があり、
それがブルバキの論理などはまったく無視することができたからだろうと推察しています。
私は、資本主義の逃走の「場」の設定に、
感傷的ですが、ブルバキにもどることにします。
それは特殊解と一般解をつなぐレトリック納得に最適ではないかと考えるからです。
そして、ブルバキから、デザインの「付加価値論」否定を行いたいと思っています。


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『資本主義からの逃走』
「『音友会』=Aurex・音響事業部OB会のこと」


   


     7月 15th, 2010  Posted 12:00 AM

私は、東芝には主任教授のほとんど指令で入社しました。
無論、教授には「音」がやりたいと告げてありましたが、即決で東芝でした。
東芝で「音」に関わることができました。
入社早々に、Aurexブランドロゴはコンペで私のが選ばれ、なおかつブランド・ビジュアルマニュアルの整備もやりました。ネオンサインプランまでやりました。しかし、
28歳の時、交通被災でそのまま退社したわけです。したがって、何の挨拶もせずに、退社したことがずーっと気がかりでした。上司とは交通被災・車椅子生活・ふるさとUターン・大学人と常に連絡をとり相談をしてきました。というより、いつも私を見守り励ましてもらってきました。食べられなくなった頃には、東芝から仕事をもらっていましたが、それは彼の独断だったと思います。その上司から「音友会」に入会させてもらったのです。今年初めて参加し、その規模の大きさや毎年会員が増えるということです。なるほど、ヤフーのオークションで今でもAurex商品は買うことができます。私は当時はとても買えないアンプなど、おおよそ私が担当したモノはコレクションしました。コレクションした直後に、金沢21美術館で「個展」、Aurex展示だけの部屋もつくることができました。だから、私にとって音響工場は、デザイナーになって最初の道場でした。かつてお世話になった方々に御礼と挨拶ができました。最初に赴任したのが銀座の阪急ビルに意匠部がありましたが、磯子の音響工場に行ったとき、「ここが面白い」と思って、自ら工場駐在を申し出ました。したがって、私の東芝時代は、銀座・磯子・総研(現・中央研究所)・溜池(東芝EMI)・その他東芝関連工場から各種部品製造の中小企業から大企業・大学でした。事故直前には、全国主要都市に、Aurexのショールーム開設の企画書を書き、ショールームをデザイン設計施工の監督、オーディオフェアもアシスタントからディレクターもできました。担当した製品がすべてヒットしたわけではありませんが、「時代を先行したモノ」も随分とやらせてもらいました。当時は休日も会社に行くのが楽しく、また、出張中も姿を消してしまうことも何度か、「始末書」書きは得意分野でした。いわば、「自由なる新人デザイナー時代だった」、このような幸運を支えていただいた音響事業部は閉鎖されました。しかし、今となると、現在のAV時代まで当時の技術を進化させていたなら、わが国のデジタル時代は変わっていたかもしれないと思います。私がちょうど退社する時にPCM録音=デジタルHi-Fiがスタートしました。90歳の長老の方から声をかけられました。「川崎、来年も顔を出せよ、TC-560を持ってきて見せてやるから!」。「あの、それって何ですか?」、「俺がやった真空管ラジオだ」。「・・・・・・」。彼にとって多分、そのラジオは音響工場では生産していませんでしたが、技術者としての誇りある製品だったのでしょう。同期のデザイナーが逝きました。彼の自宅を訪問したとき、彼が最初にデザインしたTVだけは絶対に棄てるな、と家族に言い残していたことと重なりました。日本の電機業界を支えてきた技術者・デザイナーの魂を、私も抱いていますから充分に自負できます。Aurexは私のアノニマスデザインですが輝いていたデザイン成果だと確信しています。来年も出席したいと思っています。


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