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『資本主義からの逃走』
    「 視覚空間は存在しないことを認識する必要がある」


   


     10月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

感覚空間

空間を形容すれば、何々空間という言い方は可能です。
そして、何々空間に対しての空間認識があるでしょう。
その空間認識に対して、形態認識が付随、
あるいは認識の対象性=情報認識があるということが理解可能です。
人間の五感に対応することでは、五感・感覚空間が存在しているということは認識可能です。
しかし、視覚=実際に見えるという空間は、
実は不在であり非在であることを明確にしておく必要があります。
喩えるなら、「かたちというかたちは存在していない」ということに等しいわけです。
つまり、「視覚空間」という言葉を与える空間があるのだろうか、ということです。
「視覚空間」は無いと断言していいでしょう。
次元空間
というよりは、視覚能力は無限という次元空間ですから、
この空間には「視界」という言葉が与えられます。
人間の視覚能力は、他の聴覚・触覚・臭覚・味覚にはそれぞれに対応する空間、
その設定や仮説化は、感覚空間と呼ぶことで仮設化可能です。
しかし、視覚は実際は何万光年という次元空間=宇宙を「見る」ことが出来ます。
そこで私は、「視覚空間」という言葉ではなく「視界」という
次元的な言葉があてがわれていると考えてきました。
「視界」に存在する物・モノ・ものを認識するためには次元空間の認識が必要です。
万一、「視覚空間」という表現をするとするなら、
レトリック・メタファー・アナロジーとして運用することは許容されるでしょう。
視覚の要点・要素・要因
けれども、「視界」という言葉の存在を認識することは、
空間認識とさらに形態認識を区分したり分別するために、まず、次の手続きが必要です。
視覚は、視点・視線・視座・視野・視界という空間認識の要点や要素で成立しています。
視覚構造と呼んでおきます。
視点は、必ず二つ存在します。
どこから(eye-point)=視座であり、どこを(view-point)があります。
その二つの点によって視線=まなざしができます。
そのまなざしが要因となって変動する=dolly(CGでのカメラ視線術語)軌跡や対象空間が、
視野であり視界という空間です。
この空間に形態の存在・非在・不在が具体的な形態認識です。
仮想空間
情報空間には、視覚空間はありえず「視界」となる情報空間の設定によって、
初めて空間認識、さらに形態認識ができるということです。
そこで、抽象的なあたかも視覚認識できうる形態認識は、
あくまでも仮想空間=Virtualityであって視覚空間では無いということです。


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『資本主義からの逃走』
    「『情報』は記号と信号でまず大別」


   


     10月 20th, 2010  Posted 12:29 AM

号する
情報という訳語が、現代を決定しています。
物質・情報・エネルギーが世界構造を構成しています。
これを、世界構造の大きな大別・種別とするとき、
さらに、ディレクトリーを情報の大別・種別にまで入り込んでみます。
私は、情報はまず「号する」という基本的動作から、号が包含してきた意味があります。
そしてその包含意味をそのままの仕組みが、
情報の形式・内容・質・意味・意義になっているのではないだろうかと推測してきました。
「号する」というのは次の三つから始まっているとまとめておきます。
  ■ 大声で叫ぶ、号泣すること・泣血号天
  ■ 次に、評判をたてて言いふらすこと・号為賢相
  ■ 名をつけることや表向きに呼ぶこと・号日皇帝
では、「号する」こととは何かということが「情報」に繋がっているという私の種別です。
情報=「信号」・「記号」
結果、情報を大別すれば、「信号」・「記号」になるというわけです。
そして、この二つには、人間=人と己、そして言です。
その言が前後関係になっている漢字にすべての意味が情報にまで象徴されることになると思います。
情報は信号化されることと、記号化されることで、
情報の実質的中身を種別することができるのです。
信号的な情報と記号的な情報という種別から、
「情報空間」も同様に、次のように呼ぶ・号することができると考えます。
「信号的な空間」と「記号的な空間」、
それぞれをさらに検証していく方向があるものと考えています。


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『資本主義からの逃走』
    「もう一度、『情報』意味の徹底検証」


   


     10月 19th, 2010  Posted 12:29 AM

情報は訳語
これまで蔓延してきた「情報」の意味、
その原意をしっかりとまとめ直しておきます。
   1■ 「情報」は森鴎外の訳語だったという事実
   2■ 「情に報いる」という誤った意味解釈の影響
   3■  日本語「情報」の原意が歪んだことの功罪
森鴎外・「大戦学理」
1. 森鴎外は軍医であり、文学、小説家であったからこそ、
訳語を与えることができたという事実は、もっと明らかにされるべきでしょう。
クラウゼヴィッツ「戦争論」の邦訳を森鴎外が行っています。
彼は「大戦学理」という中で「情勢報告」=「情報」としていたという事実から、
もう一度、言行される「情報」という言葉周辺をみなさなければ、「情報革命・情報化・情報社会」
そして、「情報空間」そのものが大きく歪曲してきたのではないだろうか、
という危惧感はぬぐえません。
あくまでも、情報という言葉は戦略用語であり、
これはとりもなおさず、対外的にはコミュニケーションを断絶し、
対内的にはコミュニケーションの了解と共有が起こるという、
何が対外であり、対内でのコミュニケーション、
この相反軸を常に変動させる要因を示唆している言葉だということです。
情に報いることは情報ではありえない
2. これまで情報は、「情に報いる」という、
あたかも情、心、気持ちの共有性という意味に、
大きくて多くの共感性あふれる意味性で解釈されてきました。
しかし、もし、情に報いるという意味なら、漢文的な統語形式ならば、
「報情」でなければなりません。これなら、レ点が入ら無ければなりません。
「報レ情」ならば、情に報いるという解釈が可能です。
また、「情」というのはきわめて感情、や情緒性などの意味が包含されていますが、
この解釈には、基本があります。
忄(りっしんべん=心)+青(あお=中国古典解釈はくろであり、どろどろとした汚れ)
=こころの中に汚れたものが流れこんでくるという状況、という意味です。
となれば、情に報いるという、あたかも清廉で清心な気持ちのやりとりという意味は、
真逆の解釈意味を与えたことになります。
再度、「情勢報告」=「情報」にもどれば、情勢=対外での事変を報告するという、
「報(報告)する情(情勢・情況)の正確さを確認することができます。
情報と意識のバランス
3.しかし、これまで情報を情に報いると、
いわばパロール的=会話的な解釈論にもメリットがありました。
それは、わが国のコミュニケーション、たとえば以心伝心的な、
相対する間での分配に「情」を配置した功は、
「情報革命」を「意識革命」=ドイツ的な解釈性に重なっていることです。
けれども、情報=意識への要因注入は、あきらかに性善的解釈だけを大きくし、
情報が伝達されていく怖さ、すなわち性悪説的な、
情報操作される危険性を度外視することを見逃してしまったことも事実=罪でした。
「情報」の形式と内容、
その均衡性=バランス感覚や情報の処置性と処理性が破綻していることに気づくべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
    「情報空間の再定義と新定義をはじめたい」


   


     10月 18th, 2010  Posted 12:54 AM

情報化革命・情報革命
20世紀は、大変な時代だったと思います。
二度の世界大戦後は、大きな反省もしましたが、
今度は資本主義と社会主義の対決、冷戦が世界を覆いました。
ようやく、この冷戦も終わったかと思ったら、民族闘争、宗教対決が始まりました。
この背景に加えて、環境破壊が進行し、地球上の人類その存続すら危ぶんでいます。
そのようなことをひきずりながら経済体制での大きな転換が起こっています。
私たちは、20世紀直前に、大きな技術革命に巻き込まれました。
コンピューター・パソコン・ネットワーク・インターネット・ユビキタスなど、
冠詞化されたり、述語化される革命に直面している日常空間の中に生きています。
私たち日本では、それを「情報化革命・情報革命」と認識してきました。
情報空間という呼称
私は、こうした革命の環境を「情報空間」と呼んでいます。
それは、「何が情報で、情報が何で、そうして日常性に大きく関わってくる情報環境の空間」、
そんな意味を私は含ませたいと考えるからです。
「情報空間」とひとまず呼称すれば、
現実の日常性から、将来への理想的な夢や希望の空間を創り出せるかもと自分に期待するのです。
「情報空間」は、自分に限らずもちろん、人間、人類、世界を包含する空間になると考えます。
そこで、あらためて「情報空間」を詳細に分別したり、熟考していくことで、
この空間での情報をもう一度検分することがデザイナーの職能義務だとさえ思います。
再定義と新定義への衝動
つまり、「情報空間」そのものを進歩させ、この空間と人間・自然・人工物、
さらには、過去=歴史から、未来づくりの基本を見つけ出したいと願うからです。
たとえば、敗戦後、日本の情報空間がどのように形成され、
現実、どんな問題を抱え込んでいるのかも再確認しなければならないという衝動があります。
この衝動は、日増しに拡大しています。
だから、なんとか、「情報空間」の再定義を試みて、さらに新定義を見つけ出すことが、
問題解決かもしれないというイメージが衝動とも同居しているからです。


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『資本主義からの逃走』
    「小さな空間としてのローカル」


   


     10月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

小さな空間
マルキストとして著名なリオタールは、
「大きな物語」と「小さな物語」を歴史論から、
ポストモダニズムの提言にしたことはもう忘却されているでしょう。
私は、この分析・解釈、そして新しい時代づくりへの思索的考察が、
耳鳴りになっているのかも知れません。
しかも、反マルキストですから、かえって彼に囚われているのでしょう。
そこで、今、瀕死的な状況にある地方都市の再活性化を、
東京=大きな空間との対比も、この耳鳴りの質が変化する気がしています。
しかも、東京が小さな空間になりつつあることも自覚しなければなりません。
なぜなら、国際的には、気づいたら東京はローカルになりつつあります。
ソウルがあり、上海があり、マレーシアがあり、シンガポールが大きな空間になってきました。
だから、私はことさらに「小さな空間」から再出発です。
その高密度性能、充実した機能、確約された効能をデザインし直すことが、
もっとも大事だと意識しています。
ローカル「越前市」を変える
私が、小学校高学年、中学時代をすごした街、
「越前市」=武生市+今立町の合併)に、デザイナーとして、ここで育った人間として、
「ローカル」の再興を伝えたいと帰省しました。
「0.5次産業化up」
一次産業はすでの1500人、二次産業は19000人、三次産業は24000人、
このデータを見ながら「小さな空間」の近未来産業をデザイナーとして提案したいと思います。
簡潔に、結論は一次、二次、三次を0.5次産業化upしていく具体デザインです。
それは街の伝統文化を「大きな物語り」にする方法を、まずは発想しようということになりました。
一つは、「情報」での価値性アップです。
それは私が取り組み始めたアンビエントアライアンス=ロボット+原子力+情報を視覚化します。
そうすることで、 I see ! とみんなが参画してくれるデザインアイディアだと考え着きました。
これから、この具現化の活動を開始するでしょう。


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『資本主義からの逃走』
  「大きな空間と小さな空間・ポストモダニズム不要」


   


     10月 16th, 2010  Posted 12:00 AM

「物語り空間」
現代、「空間」の設定は多様に可能です。
私は「物語り空間」ということを設定してみます。
これは多分「大きな物語」と「小さな物語」になぞらえた想いです。
「大きな空間」は地球という空間・グローバルな空間であり、
「小さな空間」は故郷という空間・ローカルな空間です。
幸運にも私には、故郷・北陸に福井県という生まれ故郷空間・小さな空間を持っています。
私は、「大きな空間」と「小さな空間」を対比して考えることのできる次元的な空間論者です。
万一、この対比する空間を持ち得ることができないとするなら、それは不運だと思います。
それこそ、産業経済や政治が対象としている「空間」は都市空間であり、
グローバルに国際空間での資本主義的な「富の獲得・分配・蓄積、そして再配分」に、
経済と政治は呪縛されている不運さは不幸さにまで結びついているということです。
産業・経済・政治から離脱するデザイン
このブログタイトルそのままに表現すれば、資本主義からの逃走というのは、
このグローバル性・国際空間の空間認識、その次元性です。
次元性というのは、経済単位と政治単位からの離脱を私は意図しています。
だからといって、古典的な「無政府状態の国際空間」ではありません。
私の意図の核心は、「大きな空間」・「小さな空間」=グローバル空間とローカル空間を、
産業・経済・政治から離脱するデザイン=創造です。それを求めていくには、
「小さな空間」=ローカルの伝統と文化、取り巻いている自然空間が出発点だということです。
ポストモダニズムからの離脱・やや古くさいが
今、地球環境の保全性や自然環境という自然空間、その破壊の修復がそのまま、
人類の存続に直結していることはすでに私たちは熟知しています。
しかし、ローカルの伝統と文化が蓄積されている「小さな空間」から、
「大きな空間」・グローバルを救済する方法論を見つけ出しているわけではありません。
私は、「小さな空間」が次第次第に拡張や拡大し、
あるいは無限に「大きな空間」になっていくという想像力を大切にしたいと思うのです。
多分、「大きな物語りと小さな物語り」と言えば、リオタールを思いうかべるでしょう。
しかも、彼はマルキストです。
なおさらのこと、「大きな空間」と「小さな空間」は、
ポストモダニズムからの離脱をも私は狙っています。


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『資本主義からの逃走』
  「生老病死・身体空間性を見失うとき」


   


     10月 15th, 2010  Posted 12:00 AM

身体空間認識で見失うこと
身体空間は空間認識だとメモをしました。
E.T. Hallのプロクセミクス=proxemicsを参考にすれば、
それはレトリカルな表現が可能です。
ただし、このレトリカル性、あるいはアナロジー的な思考をプラスさせることは可能だと思います。
だから、身体空間は空間認識では次元的な表現に寄りかかることは簡単簡易です。
ただし、肝心なことを見失うことの哀しみから焦燥感や喪失感を私は考えてきました。
「身体空間=空間認識」が全く出来ない状況を人間=万人は持っているということです。
「生老病死」
つまり「生老病死」が、空間認識での身体空間性を見失うことだと思います。
私たちは、「生」の時空間、その時の身体空間は忘却しています。
「老」=老いていくことは、本来ならば蓄積されてきた経験によって、
身体空間を知り尽くしているはずです。ところが、
これは全く真逆のことになりかねない空間認識での危険性が満ちているということです。
「老」が「考える」という象形文字のコンテクストを十分にひきずっているということが、
実際はその真逆性があることにも転換していると思うのです。
物忘れから認知症・アルツハイマーは空間認識力を0次元にしてしまう無情さがあります。
そして「病」です。
病というより病気という身体的かつ生理的な異変は、
空間認識性をすぐに見失うものだということを私自身が沢山経験しています。
重篤ともなれば、その時の本人に身体的空間は、ある錯覚をもたらします。
たとえば、幽体離脱とか臨死体験です。私もこうした経験があります。
しかし、あれが幽体離脱といわれている白日夢にすぎないとか、
臨死体験と思えるような悪夢だったのだと私は自分の経験を整理しています。
無と空、ゆえの間
少なからず「生老病死」は、
身体空間の「無」あるいは「空」という哲学性や宗教性を打ち立ててきました。
特に、日本人の伝統的な文化だったとさえ考えることができます。
すなわち、身体空間と空間認識にとって、「生老病死」と「無」・「空」は、
実は、さらに重大な「間」という伝統性を創出してくれたいたのかも知れない、
というのが私の意見です。
身体空間のトポロジー
さらに、私は、自分の「生老病死」という多元性と多様性にトポロジー感覚があります。
身体空間のトポロジーだと表現しておきます。
このトポロジーは、確かに「空」なる身体内部を構造化していると考えています。
デザイナーゆえ、その視覚化=Visualizationに囚われきましたし、その解読を試みています。


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