kazuo kawasaki's official blog

『資本主義からの逃走』
「十牛図確認・モノはヒトとコトをつなぐ構造化助詞」


   


     6月 20th, 2010  Posted 2:00 AM

モノ=モ・ノ
モノいう表現は、私流には「人工物」をという意図です。
今日ある大学デザイン系の報告書を読みました。
大学の後輩が教授職にあります。
デザイン系学生への教育方針を模索している相当の内容でした。
確かに、先般、ある「デザイン系大学の作品展」でも、
この大学、学生の作品はとても優れた成果でした。
学生の作品は、教える側の反映であることは間違いありません。
この報告書では、「デザイン」を「モノ」と「コト」の関係性を
重点的に教育方針で論議の経過や結論にまとめていました。
大学の意欲を強く感じた次第です。

「デザイン」がようやく、
「外観づくり」とか、「応用芸術」ということからは解放されつつあります。
明らかに、デザインは、「コトのデザイン」だということは明白になりました。
単純な図式は、
「ヒト」と「コト」を「も・の」でつないでみれば、ほとんど論理性などもなく、
図式ができるということです。
●「ひと」モ「こと」=「情景」=人間と情報の関係
●「ひと」ノ「こと」=「情報」=人間と人間の関係
これは、「モノ」が介在して、人間と情報・情景を構造化していることを可視化しています。
再度、{人間と情景・人間と情報}・{人間も情景・人間も情報}
この関係式になるということでは、
「モノ」=モ・ノという助詞の機能=助詞がコンテクストの要になっているということです。
私は、あらためてこの関係性=構造性に、「人工物」の役割を配置する必要性を感じます。
助詞
「助詞」である、「モ」と「ノ」が、
日本語のコンテクストの構成要素であることに注視します。
私は、常に「日本語」と向き合っています。
それは日本人として生まれ、「いのち」をつないでいるのが「日本語」だからです。
私はデザイナーという職能で「モノ」の「かたち」を対象化してきました。
その対象である「モノ」・「モノづくり」=「かたち・づくり」に関わっていますが、
その基盤であり背景には「コト」があります。
そして、その「コト」と人間の関係は、
「ことば」だというすべてが、実は「十牛図」のごとく、
連環していると考えることができます。
今日も、「十牛図」のイメージは、私に「ひと」・「モノ」・「こと」に覆い被さっています。


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『資本主義からの逃走』
   「牛を探し求める・『十牛図』についての対談」


   


     6月 19th, 2010  Posted 12:25 AM


私は十二支では、「丑歳生まれです」。
昨年、還暦でしたから、生まれ歳をいれて6回巡りました。
日本舞踊家の西川千麗さんと、Ustreamで対談をしました。
思いがけない出逢いでした。
親友たちが仕組んでくれた対談でした。
「何を対談する?」
「まぁ、出逢ったら、それなりの話になるはずだから」。
そんなことで、簡単に引き受けて、
まあまあ、「舞踊論」だからそれなりに、
それも自分なりに思っていることで対応をと考えていました。
舞というロボット
私が最初にデザインしたロボットは「舞」と名付け、
その次のロボットが「踊」でした。
だから、「舞踊」には私なりの論がありました。
「舞」は、足の裏側を決して見せない。
「踊」は、飛び跳ねる。
そんなことを、日本の「舞踊」、その伝統や、
歌舞伎・能・舞い・踊り、さらにはダンスやバレーなど、
舞台芸術が、人間の肉体をもって表現する意図を
私なりに追いかけてきました。
そして、「Dance」を「舞踊」と翻訳してきたのは坪内逍遙でした。
対談では、この翻訳が正解だったのだろうかとも話し合え、
学ぶこと多々ありました。
「十牛図」
さて、ところが、この対談の題材には、
「十牛図」が持ち込まれました。
それは、西川千麗さんがこの秋に発表する新作日本舞踊の題材だったからです。
私の記憶は、ふるさと、祖父、吉峰寺で中学時代に見た、
ほとんどうる覚えの絵柄とその物語、
物語が意図する目的が蠢きだして、内心ハラハラでした。
「十牛図」は、「牛を探し求める10話の話にこそ、
人間は、生きて死ぬまでに「悟り」を得ていく、
ある種の永遠の終わりなき、始めなき、「禅図」です。
西川千麗さん、彼女は、この「十牛図」をテーマにした「舞」を創作されて、
この秋に発表されるということでした。
なぜ、彼女とこれほど満ち足りた対談ができたのかと、
今日になって、さらにその重力感を受け止めています。
この「資本主義」への思索をもう一度見詰め直す動機。
それを与えに舞い降りられてきたのかもしれないとさえ思っています。
生・悟り・死
私たちは「生きる」ということが「死んでいく」ことだと知りながら、
「生きる」がゆえに、「悟り」と言われる境地にたどり着きたいのでしょう。
「悟り」など得られるはずが無いとさえ思います。
しかし、「死にいくため」にこそ、
その境地を追い求めいくことが「生きがい」であること。
彼女は、この秋、京都でこの新作を「舞」として表現し、
私たちにヒントを与えてもらえるのかもしれません。
そういえば、女優の真行寺君枝さんの創作劇も、
直筆で招待を受けながらも観に行くことができませんでした。
「映像」で観ました。
やはり、舞台という場で、
こうした「舞踊」や「演劇」を肌で実体験しなければ、
それこそ、「十牛図」のごとく、
私は彷徨うだけかなのかと、想い知らされた対談でした。
この秋、この新作が楽しみです。


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