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「スタイラスをすべてチェック後の選別」


   


     5月 7th, 2012  Posted 12:00 AM

先般紹介のスタイラスをもう一度チェックしました。
結果、これらを選びました。
スタイラスの先端部は、四つに分類できます。
これが現在市販されているすべてでしょう。

  • 導電ゴム
  • 金属
  • 導電プラ繊維
  • 導電プラ

いずれも自分なりに相性があると思いますが、
最近は、ほとんどが導電ゴム半球状態のモノが増えています。
私なりには、以下の三つの使い勝手で選別し、
● 筆記スピードが一致すること
● 接触感触が心地よいこと
● 筆筆記のカスレ具合が思い通りのこと
そのために、導電ゴム内に導電ウレタンで先端部の硬さ調整をしています。
これらのどれが最適かもApple Store, Ginzaのイベントで紹介します。
(左端:導電ウレタン)


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「『華麗なる賭け』のように・・・とはいかず」


   


     5月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

小学校から、将棋・囲碁・麻雀を父から教わりました。
父はこうしたすべてのゲームをマスターさせたかったのでしょう。
ところが、この三つはどうしても好きになれませんでした。
将棋はそれなりに面白かったのですが、
負けると悔しいことや、もう一度生き返るゲーム性が嫌でした。
しかも囲碁も麻雀も座位でのゲーム性が好きになれませんでした。
映画の名作に「華麗なる賭け」があります。
原題の「トーマス・クラウン・アフェアー」でリメイクされた映画です。
スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイが、
チェスをする場面があります。
この映画での二人の取引をたまらなく象徴する場面です。
それを観てから、チェスにのめり込みました。
しかし、我ながら下手くそです。
パソコン相手だと、とてもかないませんが引きつけられます。
となれば、私の習性はチェス収集にも向かってしまいます。
これは携帯用ではおそらく最も工芸的な物だと思います。
エルメスの木工技術が駆使されています。
しかし、もう一工夫が欠落しています。
マグネットでチェス盤とコマがくっついてくれれば飛行機内でも遊べます。
あえてそうしなかったのだろうとも思いますが、
これでは「装飾的」にすぎません。
バウハウス時代のモダンデザインは、コマの役割を覚えるのが困難です。
最も使いやすいのは玩具になっているプラスチック製が機能的です。
しかし、本格的にそのゲーム性を楽しむには、
やはりアンティックな物を海外で探しています。
もう喫煙の時代ではありませんが、シガーやパイプタバコ、
そしてブランディが一番チェスには似合うのかもしれません。
ともかく、今ではチェスはMac上で戦っています。
かって、Apple社に「Mind Top」をプレゼンしたときに、
景品アイディアとして、
そのパソコンと同じ大きさのチェスセットも提案しました。
そして、プレゼン後の私の味方連中の評価では、
あのチェスセットまで周到なプレゼンが嫉妬になったということでした。
日本の将棋界でトップクラスのある人が、
世界でも5指内に入るスターだということはあまり知られていません。
「クゥイーン・ガンビット」=先手を打つ、
これは、私の著作タイトル
デザインという先手・日常的なガンビット」になっています。
「シシリアン・ガンビット」という心臓病の治療方法もあります。
チェスは上手くなりたいゲームです。

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「大好きな色鉛筆・最近のお気に入り」


   


     5月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

「作家は万年筆だが、イラストレーターは色鉛筆」。
色鉛筆の方が毎日楽しそう。
浪人時代にそんな判断をしました。
母は、「ドクター(私の真のねらいはいづれ作家)が血を見て暮らすより、
絵の具を見て暮らす方があなたに向いている」。
結果、医学部受験(しましたが)から美大に転向して今日があります。
したがって、色鉛筆は必需品であり、大事な物です。
そしておそらくほとんどの色鉛筆は試してきたと思います。
常に、今最も気に入っているものは必ず持ち歩きます。
今は、この三つが最高にいいと評価しています。
最近は、幼児が使っても「折れない色鉛筆」が出てきました。
日本ならではの物です。
ただ、色合いや色相がそろっているのは、外国製になってしまいます。
100色や限定品などの高級品もありますが、
私はむしろ、「即スケッチに」となる色鉛筆が大事です。
そして、ボールペンとの相性を最も気にしています。

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「絵画に惚れることの重大さ」


   


     5月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にはいつも目配りをしています。
それは美大で学んだこともありますが、
「絵が大好き」という天性の嗜好性があるからでしょう。
心臓疾患で長期入院162日間入院をしたことがあります。
ちょうどその時に、
以前から美術雑誌で見かけ心を奪われていた画家がいました。
彼の初めての日本展開催を知り、
妹にカタログ購入を頼みました。
その後、フランスで彼の画集を随分探し回りました。
しかし見つかりませんでした。
ところがそれは書棚の一番上に大量に並んでいました。
まさかそれほどの人気画家とは思ってもいなかったのです。
モンパルナス付近の美術書専門街でも、
そこの書店主は「家族全員が大好きだ」と告げられました。
フランスでは本当にポピュラーでした。
ともかく、大好きな画家はいっぱいいますが、
彼はその中でも一番です。
パソコンなどのデスクトップ画面は、
必ず彼の絵にしています。
あるとき、
グラフィックデザイナーから画家に転身した友人から、
「誰の絵が好きか」と尋ねられて彼の名を上げたら、
「買えばいいじゃないか」って、簡単に言われました。
「彼の名をあげるなんて最高にいいよ」と評されました。
私は「色彩論」を教えるときには、
彼の絵画での私なり解釈の色彩調和論を講義します。
この「サッカー」などを見ても明らかに、
具象性と抽象性、さらにマチエールもミックスメディア性など、
現代絵画を革新しています。
現代絵画と現代音楽は相通じるところがあります。
「絵画」と「音楽」は美学の対象分野であり、
私にとっては、デザインをするときの背景、
特に造形と色彩選びの基盤・下敷きであることは間違いありません。
そして、彼のこの絵が代表するように
世界の画壇に大きな影響を与えるものとしてスターになりました。
これからさらに一般的にも有名性を獲得することを約束されました。
ところが個展準備の制作中、個展直前に自死しています。
どういうわけか、私は自死を選んだ画家が好きなようです。
フランスに行くと必ず彼の画集を探し求めています。
彼の作品で欲しい物が数点あります。
彼の名は「ニコラ・ド・スタール」です。
「絵画」を眺めるということと自然風景を見ること、
すなわち「鑑賞」するということの重大さを心眼にしていくことは、
きもちの振幅にα波を与えるようなものです。
このα波がいのちを活性化するのです。
このα波を絵画に込める苦難が作家を冥府に誘い込むのでしょうか。
デザインも絵画同様「鑑賞」してもらうことを願っています。

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「スタイラスペンは、まだまだ進化が必要」


   


     5月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

スケッチで思考すること。
このことを職能に出来たことは私にとって幸運でした。
一番好きなことは「スケッチ」を描くことです。
それがデザイナーという職能につながっていることを喜んでいます。
しかし、ビジネス=金儲けにしていくことには
大きな抵抗そのものを抱いてきたことも事実です。
まして、デザインがビジネスのための大きな手段のために、
デザイン対価を経営者と論議することは苦手であり、
これまでどれだけ経営者と物別れを経験してきたことでしょうか。
デザイン対価以前に経営者の人柄や人品への敬愛から嫌悪感、
この振幅性に自分を沿わせることが本当に苦心惨憺でした。
さて、スケッチでも一番好きなのは「水彩風景画」ですが、
その次が、ボールペンと色鉛筆着彩、
そしてスピードライマーカー、水墨です。
油絵は美大時代に挑戦したことがありますが、嫌いです。
日本画には憧れがあります。
だからリタイア後に日本画画材での膠は研究するテーマにしてあります。
さて、プロとして、特に次世代デザイナーやその予備軍には
もうマーカースケッチは棄てさせています。
というわけで、私自身は、電子ペン・タブレットなどは
デザイナーのプロ道具と意識して、
そのような道具の進化に技法を私なりに研究し、
日常的なアイディアスケッチ程度まで自分もトレーニングをしています。
ようやく、iPadでのプロ的なスケッチ、
そのためのスタイラスも選択肢が増えてきました。
当初は自作をしてきただけに、
何が「手に馴染むか」ということがわかります。
そして達した結論は、
やはり、デザイン技法の基礎である「デザインストローク」から「運筆」、
さらに「草書」です。
つまり、様々な筆記具・鉛筆・ペン・マーカーから筆までが
指先と一致してくれることが肝要だと考えています。
しかし、どのような筆記具であれ、
もう一つの相互性は「紙質」との相性があります。
「紙墨相発」という言葉があるくらいです。
となれば、スタイラスとPad画面素材とのインターラクション、
「ハプティック性」が可能になることを期待しているということです。
5月末に、AppleStore銀座で、
私なりのスケッチの基本技法を紹介するつもりです。

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「扇子の季節、伝統センスが壊れ始めている」


   


     5月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

以前、ファンの方から私の著作を絵柄にした扇子をいただきました。
それも京都の老舗、「宮脇賣扇庵」の物でした。
この「宮脇賣扇庵」で様々の扇子を見ていて、また発見しました。
自然描写で特にまた葉っぱの写実性が崩れているものが多少ありました。
私はこの「扇絵」という日本の伝統的なキャンバスには憧れがあります。
そこで、展示してある「正確」なものと駄目なものを見分けていました。
大声で「あれ、間違っている」と言ってワイフに叱られました。
「また大きな声で、駄目でしょ」って。
「間違いは指摘しておくべきだ」と。
お店の方と話をしたら、その通りです、との回答をいただきました。
時折、プロの日本画家、日本画画材でないと扇制作は不可能、
膠が扇制作では大きく影響しますが、
日本画家の先生でも間違いが多くなってきている、とのことでした。
このところ陶磁器での自然写実とデフォルメも間違いが余りにも当然です。
いづれ、私も「扇子」を特注して作品化したいと考えていますから、
「宮脇賣扇庵」さんには
徹底して「絵の制作での注意点」を講義していただきました。
「扇子」はまさに日本の発明品です。
本来ウチワ的な風をしかける調度品は
エジプトから中国と世界的にありますが、
「折りたたみ」=foldingの形態にしたのは、
まさに「日本らしさ」であり、
「携帯性」と「凝縮性」は、日本のモノづくりを端的に表しています。
要は(この漢字も扇子の部品名にあり)
いわゆるfolding ・mobileは
デザインの一つの造形のあり方だと思っています。
しかし、こうしたモノが文房具には大変に多くて感心しますが、
家電やその他の機器にはまったく欠落してきている風潮が
増加しているように思えてなりません。
文房具のダウンサイジング(凝縮性)・ミニチュア化・折りたたみ性は、
多分日本は最高に進化を遂げています。
にもかかわらず、機器設計において、
このモノづくり精神性は壊れてしまったのかもしれません。
その象徴が、自然写実でのデフォルメであっても基本を崩していることは、
日本の伝統文化を壊しているものと指摘しておきたいと思います。
デザインの世界から、さらに新たな表現領域への興味は強まっています。
もちろん、デザイン本来での、「補助人工心臓」や「透析医療器」などの
ダウンサイジングは、今、一番追いかけているテーマです。

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「ビーズのきらめきに・・・・・」


   


     5月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

『ゴルゴ13』がビジネス書になると思っていたら、
やはり、ビジネス書「ゴルゴ13の仕事術」がありました。
私はほとんどビジネス書は読みませんが、
ついついamazonしてしまいました。
この連休中に済ませてしまいたいこと、いっぱいありますが、
最も子供の頃から、そんな予定をすべてこなしたというのは、
「受験時代」ですらできなったのでもう諦めというか「諦観」です。
となるとやはり「ビーズでブレスレットづくり」に夢中になります。
京都に行くと大量に素材を買い求めてきます。
「夏用」を買い込んであります。
が、やはりその他の部品アイディアがあって、
それがあればアクセサリーの根本を革新できるはずだから、
アクセサリー「ブランド」持ちたいとも考えてしまいます。
しかし、そろそろリタイアを考えていますから、
このビーズで遊ぶことも一つのやり方だと思っています。
車椅子生活を宣告されて、読みあさった本は、
すべからく「老年生活」のハウツー本でした。
老後は「ものづくりと園芸が最適」という内容ばかりでした。
そしてやってはいけないことは三つありました。

  • 商品として売ってはいけない・そのような金銭欲を離れること。
  • 人に教える立場になって「先生」と呼ばせてはいけないこと。
  • 「展覧会」などで見せびらかしてはいけないこと。

これを読み終わったとき、
(どうしよう、プロのデザイナーは商品づくり、教育、展覧会開催)、
これがプロの核心だからと随分戸惑いました。
「先生」と呼ばれることは恩師から、
「先生とは先頭先陣を切って生き延びること」だからと教わりました。
だから、リタイアしたら趣味に徹することだと確信しています。
父は70歳ですべての社会的な立場から離れました。
そして79歳、散歩中に道端で倒れて逝ってしまいました。
9年間は、中国(戦地めぐり)・沖縄・靖国神社行事出席でした。
それは7年半も軍人だったことへのなんらかの慰霊だったのでしょう。
その気持ちを存分に使い果たしたのかもしれません。
私もビーズの彩りや輝きを単純に「無」のきもちで見つめられます。
ブレスレットをプレゼントすると
まだまだ僅かの人ですがみんな喜んでくれます。
リタイア後を真剣に考える人生の季節になりました。
ただし、「命がけ」で果たしたいことはまだあります。
「戦闘と戦陣」に向かっていく時間に
限界が見え始めていることは確かです。


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「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」


   


     4月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

ここではデザインをテーマにして書いていますが、
ワイフから禁じられている分野が多少あります。
スタッフや学生達は知っていますが、
ただでさえ、「過激派」とか「怖い」とか言われてきましたから、
ホビーやコレクションでも、公開するにはヤバイ分野がありますが、
これもデザインする上ではとても参考になることが多いのです。
さて連休ゆえ、どうしてもまた読みたくなってコンビニで買い求め、
「やらないといけないこと、いっぱい」なのですが、
読み直して、この作品の仕立てと見立てに男の子としては惚れ惚れします。
何も評論を書きたいわけではありません。
漫画という表現形式の基本でありアナログ世界観に安心します。
そしてストーリー展開は「荒唐無稽」ですが、
主人公の完全無欠ぶりには、
やはりこれぞ「プロフェッショナル」が満ち溢れています。
ただ、私なりの銃器評価においては厳密に、
やや性能と機能の違和感があることはそのマニアとして意見を残します。
しかし、そのプロフェッショナル性が、
道具・機器・装置への性能と機能が見事に関連、
これには大きな敬意があります。
この徹底した性能への機能的なユーザビリティの成果が、
「荒唐無稽さ」を解消してくれています。
この解消の上に「完全無欠」のストーリーが成立しているのです。
最近の映画では、「ミッション:インポッシブル」が最も、
ゴルゴ13的な完全無比なストーリー性がありました。
「ブラック&ホワイト」のアクション展開も
つながっているように思います。
どうしても現代はCGでの演出性に頼りがちな映画表現にどっぷりです。
B/Wのペン描き・コマ割表現で、ストーリー表現に埋没できることでは、
この漫画がこれだけロングセラーになっていることでは
最高の表現でしょう。
いわば、「コンテンツ・コンテクスト」での荒唐無稽さは、
不可能な想像力=荒唐無稽さを、
完全に実現する「完全無比」=創造力になるプロセスと成果は、
ビジネス的にも引用できることがありすぎると思っています。
漫画はその描画性に、自分のスケッチが引きずられると、
デザイン=造形ラインから現実性を失うと思っていますから、
ほとんど読みません。
絶対に自分のラインが
大きな影響を受けてしまうことを知っているからです。
ともかくもう一度徹底的に、
「荒唐無稽」から「完全無欠」の投機効果を
再学習してみたいと思っている次第です。

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「発声するロボットVo-Calへのデザイン支援」


   


     4月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪大学大学院にはいくつかのロボット研究部門があります。
なかでも、浅田稔教授は、
認知発達関連をERATOプロジェクトを率いた
「発声するロボット」研究の第一人者です。
私が阪大に移籍する前から彼の研究では、
デザイナーとして論議をしてきた間柄でした。
大学内で会うということはほとんどなくて、
学会や講演会で出逢うことが多いわけです。
これまでほとんどのロボットは、
電子音の組み合わせで発声していました。
人間のように呼吸=空気圧変調で「発声」するモノは皆無でした。
あるときある講演会で、
浅田教授の「発声アイディア」のプレゼンを見ました。
「オ」という音声がまだ出来ないというプレゼンでした。
私はそのプレゼンですぐに思いついたことがありました。
それは聾唖障害者の発声支援機器のアイディア提案の経験でした。
そこで「ア・イ・ウ・エ」は、
丸筒・直線的シリンダーに空気を送れば発音可能ですが、
「オ」はそのシリンダーを90度曲げなければならないということです。
そこで、浅田教授の研究室を私の研究室でデザイン支援になりました。
直線的シリコンシリンダーをプランジャーで押してやるだけで、
「アイウエオ」発声は可能です。
しかし、「ことば」を発声するには日本語はかなり簡単ですが、
舌や鼻音や歯の擦音まで多国籍言語ともなるとまだまだ要因は増えます。
が、日本語しかもなんとか関西弁「モーカリマッカ?」まで、
状況を認知して発声するという発達するロボットをテーマにしました。
機構としての機械要素であるプランジャーを5本セットし、
そのスタイリングデザインを追い求めました。
結果、なんだかインディアンの羽根飾りが頭部にある形態になりました。
この実装形態そのままをメカノイド的にまとめた結果から、
私は次のような寓話を思い出しました。
それは、ナホバ族インディアンの話です。
「かって動物も人間も同じ言葉を話していました。
しかし人間が動物を攻撃して殺して食べるということを聞いた動物たちは、
鳴き声に変えてしまった」という話です。
いわゆる人間の呼吸器官のイミテーションを機械工学的に実装設計すれば、
その形態は身体化するときに、
その寓話を引き出すデザインになっているということです。
私は、「呼吸」・「ことば」・「発声」に至る前の
「状況認知」はそのまま、
寓話に近い「身体論」から「形態論」になっていくということです。
つまり、ロボットデザインは、人間=ヒューマンとは何かを突き詰めれば、
「これがロボット」に連鎖しているということです。
そして、「ロボットとは何か」を突き詰めれば、
今度は逆に「これが人間のあるべき姿」に連続していることになります。
したがって、ロボットデザイン、その基礎学が工学の下敷きでもあり、
その基礎学の構築があらためて、
「人間とは何か」を知らしめてくれるということです。
となれば、原子力の「安心運用」にロボット工学は必然であったはずです。
ところが、何でも「原子力」と「ロボット」を結びつける研究には
大学研究費は文科省に絶対に認められてこなかったと聞きました。
これこそ、科学と技術を冒涜してきたのが原子炉政策であり、
政治としての省庁はそのことに荷担していたことは明らかです。
「産業用ロボット」から、
「家事ロボット」や「福祉ロボット」、「娯楽ロボット」に、
日本の政治はロボット工学を呪縛していたことは明白でした。
だからこそ、
デザインでこそ「ロボット工学」を仕切り直す必要があると考えています。

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「ロボット・『踊』の意図すること」


   


     4月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

私のロボットデザインは「舞」から始まりました。
それは、「形態論+身体論」=Nomenclatorです。
哲学者・中村雄二郎先生の明確な方向づけがあったからでした。
したがって、あの「不気味の谷」に落ち込んでいる多数のロボットから、
確実に離脱することができたと自負しています。
ロボット学者や企業ロボットが
最も見失っていることを具現化できるのです。
すでに遺産的なアシモフのロボット原則もさることながら、
J・ボードリヤールの次の指摘も乗りこえていると自己評価しています。
「もしもロボットが、
機械的な人工補綴というその性質を
はっきりと示していれば、
それはまったく「安全な状態で魅力」を発揮するためである。」
さらに、
「もしもロボットが、
行動の柔軟さというところまで人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
そして、二本足より確実な四輪・四つ足で、階段を上り、
飛び超す動作体系を目的化したデザインです。
そして、「表情化の実現」です。
これにはまだまだロボット設計学の進化を待たなければならないでしょう。
ヒューマノイド的なまさに人間の「顔」からの離脱が
当然でなければなりません。
そして、ヒューマン・ロボット・インタラクションという学域が
これから構築されていくことを「意図」して、
CGでそのデザイン設計に至りました。
「舞」は足裏を見せませんが、
「踊」は、足裏をまさしく小躍りして見せることになります。
安全+安心、
つまりまず安全であることを確約することで安心できるというのは、
スポーツの型のようなことです。
「受け身」という型をマスターするとか、
「準備体操」を十分にしてということが物語っています。
安心+安全は、
小動物のごとくまったく攻撃はしてこない「かわいさ」です。
かわいさという安心が成り立ってから、
その行動体系で安全が確保されていることを意味しています。
「舞」も「踊」も、「表情」でのかわいさが的確に、
人間とロボットとの相互性を保全できればいいというのが、
私の基礎学的なデザイン意図ということです。
ただ、まだこの「踊」にはメカノイド的な印象が残っています。
その改良と改善がいまだに私のテーマです。

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