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「絶好の危険な機会だから・・・仲良くなればいいのです」


   


     7月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

「危機管理学」の「危機とは」、
この定義を私は明白にしつつあります。
険」な「会」を人間はどうするべきか、ということです。
危険なとき、危険なことを「絶好の」機会、チャンスとすること。
もし、橋本左内が生きていれば、
この無駄なアポリア=宿痾の状況を危険だからこそ絶好の機会、
チャンスは今あります。それこそ、「今デショ!」。
わが国は「竹島」であり歴史的な史実をもってわが領土です。
私もこの考え方には全面賛成します。
しかし、
韓国は「独島」と呼び、すでに実効支配(軍備)されています。
お互いがそれぞれの主張をすればするほど危険度は増加一方。
そのたびにお互いが無駄をし尽くして疲れ果てていることを隠し、
いわゆる「領土・覇権主義・問題」をし合います。
つまりません!いい加減にすればいいのです。
全く無効な心理戦は事実戦時にいたるやもしれません。
それなら、島は二つあります。
それぞれが持ち合えば、また取り合いになるだけでしょう。
やめませんか?
仲良くなることこそ「人類の知恵の結晶」なのです。
二つの国家が二つの国の最高の技術で、この今は役立たない
覇権主張を大変革すればいいのです。
この二つの島に、理想の遊び場をデザインしあえばいいのです。
小さな島に台風も来れば、
海洋のあり方の研究チャンスがあるでしょう。
「危険」極まりない覇権主義をデザインで融解するのです。
大きな絶好のチャンスある島が二つあるから、
お互いが最高技術でこの島を「知性と知恵の未来創発島」へと、
デザイン開発で連結したアイランド結島化することです。
私は、もし、橋本左内は生きていれば、
いい加減にこの無駄をチャンスに変えるでしょう。
確かに、宝庫があるのかもしれません。
だから取り合うのでしょう。
宝物、そんな物ありません、と私は確信しています。
在ったなら、分け合ってこの両島に投資すればいいのです。
残るは軍事発動でしょうか?
未来は軍事で創出は、歴史学的にもエビデンスは皆無です。
デザインで、この「険」と「会」を「危機」として、
危機解決のプロダクトデザイン管理学で、
納税・財務も二国間制度設計を果たせばいいと私は思っています。
私は日本人です。そして、きわめてよくいう超・右翼なのです。


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「徳富蘇峰の評価も忘れられて・・・・」


   


     7月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

坂本龍馬評価・無血革命と言われた明治維新、
私は日本人が集団化したときの評価を、正当に観ることが肝要。
このことを私の生き様の中心に決めてきました。
だから私の判断が全て正しいとも思ってはいませんし、
私自身、意地であっても固守するという気概を肝心にしています。
かつて、ある事で、
「おまえは、友情と憂国とどちらが大切か!?」と聞かれて、
「憂国であり、たとえ虚像であっても憂国無き友情など無視!」。
こんなことで絶交経験もあります。
そういう意味では、橋本左内のごとくを選びます。
彼は15歳にして以下の「啓発録」を書きました。
        ● 去稚心・稚心を捨てる
        ● 振気 ・気概を発揮
        ● 立志 ・志を立てる
        ● 勉学 ・学問を尊ぶ
        ● 朋友 ・友人を選ぶ
この五つは子どもの頃から、たたき込まれてきたと思っています。
福井県では必ず「立志式」が慣行となり、
「啓発録」という教科書も独自にありますし、
改訂を楽しみにしています。
だからこそ、小説であたかも明治維新の歴史的史実を疑います。
むしろ、わが国のジャーナリズム発祥人の一人である徳富蘇峰、
彼が、数少ない橋本左内自筆の書を所有し、
奥書きをしたためていた事実を心から喜んでいます。
適塾といえば、福沢諭吉は塾長でした。
しかも、橋本左内と生年は同時です。
左内は1849年に入塾ですが、諭吉は1854年に入塾です。
そして1859年に左内は惨殺されました。26歳です。
1860年「咸臨丸」に諭吉は乗りますが、
艦長・勝海舟とは「犬猿の仲」になったと聞きます。
諭吉が生涯、体制派ではない理由、
その心底には同塾生への想いがあったと思いたいのです。
徳富蘇峰もきっとその想いだからこそ取得保管したのでしょう。
私もこの五条で生きのびる覚悟です。


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「憧憬の人物、その実筆書状を探す」


   


     7月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

明治維新において、そのヒーローを坂本龍馬と人は言います。
私は大きな間違いだと思ってきました。
彼はその書状・手紙が多量にあっただけであり、
それほどの思想があったわけではありません。
小説になりやすかっただけの人物だから、あたかも歴史扱い。
江戸城の無血開城だとか、明治維新を無血革命も大間違いです。
「安政の大獄」は明治維新のために拷問・獄死・自決だけでなく、
斬首、その日の気分で優秀な能力を惨殺しました。
大勢の優秀な憂国の士の能力は血染められたのです。
子どもの頃から、私のヒーローは「橋本左内」です。
かつて、越前市(元・武生市)で越前打刃物の展示がありました。
その時、橋本左内と横井小楠、二人の「定め書き」を見ました。
その記憶をどうしても確実にしたくて、
市長に私自身も書状を書きました。
返事はさりげない「デジタル記録づくり」を知らされましたが、
納得いかずに、秘書課長あてにメール。
「そのようなものは存在しません」
私は執拗に「あるはず」。
「確かにありましたから、データを送付」。
これではないと確認すると、徹底的に調べました。
ありました。福井県が買い取って所蔵していたものでした。
写真撮影には2週間、書類審査があって・・・、
切れました。
何がなんで写真がほしいのです。
手をつくして、データをいただきました。
「デジタルデータにする」というその方法違っています。
おそらくそうした手法を全ての行政は知らないと思います。
私なりに送付されたデータでプレゼン資料を作りました。
15歳で彼は「啓発録」を書き、
16歳で大阪の「適塾」=大阪大学医学研究科源流に学び、
20歳で福井藩藩医となりますが、
一時、大老候補となった松平春嶽と江戸に出ます。
25歳、滋賀藩の井伊直弼大老によって政治犯となります。
その斬首刑直前の4通の書状を
徳富蘇峰が一時所有は明らかでした。
その4通の書状を見ながら、
26歳、斬首されました。
10年間の彼の行動は「書」が無いだけに今なお闇ですが、
「適塾175周年記念大阪大学の講演」で、
私は先端デザインの下敷きとして語るつもりでいます。


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「しばらく休筆・ふるさと福井にいます」


   


     7月 16th, 2013  Posted 12:00 AM


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「スピーカー企業の社長は学者であった」


   


     7月 15th, 2013  Posted 12:00 AM

私の愛車SL-500はBOSEのスピーカーです。
正直、BOSEのスピーカーはマニアにとってはやや・・・でした。
BOSE日本支社から、依頼がありました。
スタッフに言いました。
「BOSEのスピーカーは、やりたくないよ」って。
違いました。私への依頼は、
「日本にデザイナーなのに人工心臓をやっているらしい」、と。
日本支社長は阪大で医学系の教授たちとも会いたい、という依頼。
大阪大学附属病院の会議室で、ボーズ社の真実がプレゼンされ、
それは医療機器や振動抑制装置でした。
阪大はその装置導入にあたって、ボーズ氏来日講演を依頼。
しかし、彼の来日は高齢であり、スピーカーではないことを強調。
「彼はMITの学長候補を断り続けている」という話を伺いました。
スピーカーメーカーの利益は全て彼の研究資金であり、
万一、MIT学長になれば、その利益は大学に差し出すこと。
そのような話を聞き、スピーカーが世界的にヒットしたのは、
この日本であって、ボーズ=坊主のイメージ脱却の苦労話でした。
彼の教え子はすべて医療機器の研究者であり、
FDAの担当者は彼がリーダーだと教えられました。
やがて、そのスピーカーそのものも日本で生産されていました。
つい最近その生産を解消したことも知りました。
日本でボーズを成功させた社長も引退されましたが、
結局、その経営手腕はある大手の通信販売企業社長をしています。
それでも、私はボーズの超小型スピーカーをじっくり検証して、
当時、EIZOのたった400ccのエンクロージャーでの
f0を絶対に80MHzにする方法に苦しみました。
そこで、思い切って、ボーズ社の日本支社長に聞きました。
「本当は教えてあげられないけれど・・・」と言いながら、
そうなのか!、を知りました。
一度、米国に会いにいく約束を伝えてもらいました。
やはり、別れの時期が来るのです。
彼は逝きました。
参考になる超小型スピーカーをいただきました。
そのような出会いのあとにSL-500の音響は精度を上げました。
合掌。


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「『危機管理プロダクトデザイン』は先端統合デザイン」


   


     7月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

先端デザイン・統合デザイン、
デザインを形容する先端・統合を作成し、その概要を定義。
大学人として18年の具体的活動には、
2004年に、私はある連載でPKD=Peace-Keeping Designを、
先端的で統合的なデザイン活動としてきました。
この評価は、国内よりも海外で評価されました。
フランスではフランス芸術大学で講義とワークショップに、
米国ではクリントン・グローバル・イニシアティブ では、
私の具体的活動とともにデザインディレクターに選ばれました。
そして、私が最も驚愕したのは中国の反応でした。
北京理工大学にアジアデザインセンターができたとき、
作品を貸しましたが、貸した私は、「もらった」と言われる始末。
そして、講義依頼を受けました。
私は講演レジュメに次の4つを加えました。
靖国問題・教科書問題・南京問題・慰安婦問題です。
「あなたは決して中国には来れない」と返答を受けましたが、
その後、北京で講義をしました。
タイトルは、「デザインによる国際貢献」でした。
中国のデザイン、その先端では国際貢献へのデザインがテーマ。
国内では医療機器メーカーでワクチン接種計画が統合化しました。
ステンレス針は今後は無くなるということで、
経鼻接種の器具開発・遺伝子検査・ワクチン接種方法でした。
その中で、遺伝子検査は一ヶ月を5時間というシステムを完成し、
これを、あるデザインコンペティションに応募しました。
一応は、国内通過しましたが、「難し過ぎる」との評価でした。
私は、「だから、デザイン職能は遅れている」と言っています。
それは審査委員自体の知性力の問題だと確信しています。
わが国のデザインを私は次のように言い放っています。
「欲望の刺激装置としてのデザイン」は終わったのです。
「デザインは難問解決の最適解を形態で解答する実務」です。
そうなれば、当然のこと、浮かび上がってくるのは、
「国際貢献へのデザイン解答」です。
PKD=Peace-Keeping Designはその一つとして、
阪大での「危機管理プロダクトデザイン」のテーマです。


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「大学の講義で究極を学ぶ、Eminent Scholar College」


   


     7月 13th, 2013  Posted 12:00 AM

私は大学人になって基本は講義をしてきました。
もちろん、デザインですから、実習・演習・訓練がありますが、
阪大では教養科目的にデザインの意味・定義・先端性の講義では、
学生に一般人が混じることで、学生の意欲が全く異なります。
だからなるべく一般人を講座に招くことを考えてきました。
結局、「大学で何を学ぶか」ということの本質が分かりました。
それは「私自身が教授達から学びたい」というのが結論でした。
明言すれば教えることで教わることの本意を知ったのです。
私自身、「学ぶこと・知ること・磨くこと」については、
大学は最高の場だったということです。
教授職になってからは、ことさら、恩師や年上の教授たちから、
「学び直したい」と思い込むようになったのです。
そこで、こうした教授たちから「学び直したい」という想いが、
「Eminent Scholar College」を創りたいと考えたわけです。
Eminent Scholarというのは、フィラデルフィア大学で、
生涯教授や大学の有名教授職のタイトルでした。
大学人になって、「大学で学ぶこと」その真意は、
教えるほど教わる重要性を自分自身が実感した次第です。
そこで、すでに大学人になっている後輩たちに、
この特別な講座を開講するコアメンバーを呼びかけました。
絶対にやらせたいと思っている後輩はいわば脅しても・・・です。
そしてなんとしてももう一度受けたいと願ったのは、恩師でした。
私の恩師は敗戦後、官僚でありながら米国で、
「デザイン」を学び、日本にデザインを伝えた
第一人者です。
Gマークの創立はじめ、デザイナーとしても先端的なデザインを、
国内で最初に始めた人物であり、
私がデザイナーになれたのも、彼の厳しい指導を受けたからです。
彼から「デザインを学んだ者しか」、真の造形は不可能です。
そして、もっともっと聞きたいことがあります。
だから、まずは彼の講義中心からこの講座をスタートさせます。


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「『内部障害者マーク』を国際化していくデザイン案と提示」


   


     7月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

私がこのマークデザイン依頼を受けて実際は直ぐにデザイン。
しかしながら、この展開に至るのに相当の時間を使いました。
でも、諦めずに提案内容を徹底的な国際化と最新技術印刷までを
私はデザインが問題解決と日本だから最新技術展開を遂行。
依頼は福井県内部障害者の団体の方々でした。
デザインはすぐに出来ました。しかしその展開の途中には、
東京都でも制定マークが出来上がってきました。
私はこうしたマークは、本当に哲学的な問題解決策が必要です。
たとえば、ほぼ万国共通の「車倚子マーク」は氾濫していますが、
デザイン完成度の低さから、各国での使用は見直されています。
先般、New York市の車倚子マークが変更されましたが、
私の提案マークによく似ています。
さて、このマークには、欧米でも解釈が未だに混同されている、
「アスクレピオスの杖」イメージとハート印を造形要素。
本来は「アスクレピオス」と「ヒポクラテス」が医療の象徴です。
しかし、欧米ではこの二人が題材とされているギリシア神話、
その解釈についての議論がそのまま、ヘビと杖に表れています。
それはヘビが一匹なのか二匹なのかという問題の解釈です。
しかも、その杖に鳩がイメージされることで、
平和や安全や防衛などの象徴化までイメージ展開されることです。
私は、あくまでも、内部障害者は「外観では判断が不可能」です。
ところが、実際は障害者であって、
社会からは常に彼or彼女の医療性や防衛性が大事です。
ある意味では、アスクピレオスの杖と鳩と蛇二匹を、
歴史的にも、あるいはそれぞれの解釈説を相当に検証しました。
その核心には、「危機管理」という学域の設定からも、
CrisisとRisk、それぞれに「デザインマネジメント 」の
明確なコンセプト定義化も行ってきました。
定年退官後も大阪大学大学院に研究室があります。
7月30日には、「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」、
この解説キックオフを行います。
さらに適塾開設175周年記念講演を開催し参加します。
適塾は阪大医学部・医学系研究科の源流でもあるからです。
いづれにおいても、医療・医学・安全・防衛がテーマゆえに、
この「内部障害者マーク」はデザイン実務の一つです。


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「海と速度とその気泡掃気技術」


   


     7月 11th, 2013  Posted 12:00 AM

航海することと航空することには特別な単位があります。
一時間に一海里を進む速度のことです。
一海里は1852メートルですから、
それを1ノットの速度と呼びます。
私は、単純に1ノットは時速2km/h程度というイメージです。
そしてこの海里は地図では海図が用いられますから、
私は戦艦大和の最高速度が27ノットだから、
あの当時最大の大きさで時速は50km/hだったというイメージです。
したがって、審査会では常に高速性を求めていることには、
ハッとすることが多いのです。
航海とは、速度を求めるのではなくて、
航海する余裕の時間が重要だということです。
しかし、経済性を考えれば、速度性は技術開発の要点になります。
私が審査委員になって、初めて女性がプレゼンターでした。
正直、プレゼンはとても好感が持てるものでした。
ひょっとすれば女性がプレゼンすれば印象は良いのかも・・・
ところが、この審査会は実に詳細な質問があります。
それでも今年のグランプリは、この大型輸送船「双洋」です。
船には「喫水」という船舶と海面のインターフェイスがあります。
この船はその喫水を求めて、
ペンギンの泳ぎ方を参考にしたということです。
つまり、ペンギンは水滴で泳ぐように、
この船底に水泡を掃気するというわけです。
この開発はこれまでにもありました。
いきなり、船底に海水があるのではなくて、
水泡を掃気して高速性を求めようということでした。
結果、
省エネ効果があるという空気循環効果の最大化を求めたのです。
私はペンギンの泳法には水泡とペンギンの破毛効果だと思います。
それでも、船底での気泡流の最適化は、
大型貨物船の速度という経済性は審査委員全員が賛同しました。
これからの日本の造船開発、
その方向を提案したものとしてグランプリ船舶になりました。


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「海底資源探査船というわが国の技術は防衛されるべきだ」


   


     7月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

中国が日本にレアメタルを売らない、と言われました。
資源の本当に無いわが国には、頭脳があります。
日本の頭脳の素晴らしさをしみじみと知りました。
経済産業省の海底資源探査船「白嶺」は、
以前文部科学省の探査船「ちきゅう」を凌ぐ船舶が生まれました。
領海を世界で6番目に保持しているわが国の海底には、
資源の宝庫だということをこうした探査船の頭脳が発見します。
おそらく、造船技術だけに留まらない船舶造船が成功しています。
それは、私の授業・「海洋デザイン戦略」での演習課題で、
あるチームが選んだのは、「ちきゅう」が造れる造船工場計画。
若い海事工学系の学生は、探査船の造船技術の統合化を
港湾での防災された造船工場計画として提案してきました。
私は、最後の講評会で「白嶺」が生まれた話をしました。
審査委員からも、こうした船舶が世界にあるかどうか、を
尋ね、世界には全く無いと聞いたときには、
審査委員全員が、この造船技術こそ日本独自そのものであり、
造船を産業化し、このような船舶にこそ税金を使ってでも、
数隻は欲しいという声がありました。
ところが、残念なことは、この船はまったく無防備です。
いわゆる水鉄砲(現在は韓国製が最も強力)さえ在りません。
いざとなったら、海上保安庁が守ってくれたとしても、
彼らにはミサイルさえ無いのですから戦闘はできません。
このような国家はありえません。
防衛装備程度は備えるべきですが現在の憲法では許されていません。
私がこのようなことを書けばすぐに「右翼扱い」されます。
左翼は絶対に私は認めませんが、右翼ではありません。
右翼以上の発言力と行動力を磨いているつもりです。
ついでながら、スパコンは絶対にNo.1で在るべきなのです。
なぜなら、わが国は「気象情報の探索」とか言っていますが、
本来、スパコンはミサイル発射・ミサイル命中技術開発です。
いい加減に、この平和呆けから目覚めるには、
こうした探査船造船技術にも防衛装備開発があるべきだと、
私は言い続けていく立場でありたいと思っています。


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