kazuo kawasaki's official blog

「Ship of the Year審査会・・・海洋国家だから」


   


     6月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

この審査委員になってもう6年目です。
「Car of the Year」はとてもよく知られていますが、
船舶にもこうした船舶・造船生産への顕彰制度がありました。
正直なところ審査委員になるまで知りませんでした。
私の恩師・平野拓夫元金沢美術工芸大学学長が創設以来、
審査委員長を務めておられます。
私はグッドデザインでも船舶審査は知識も無く避けてきましたが、
「関西海洋教育アライアンス」で「海洋デザイン戦略論」を、
これも恩師からこの学会に「やらせるべき」とのことで、
最初は大変な思いで勉強もしましたが、今、大好きな分野です。
「戦艦大和」を造る程の国家でしたし、
日本は、造船では世界トップだと思ってました。しかし、
無念ながら、漁業産業にしても年間所得280万円程度であり、
ノルウェーの年間990万円と比べると、国家戦略が必要です。
だから、随分とこの日本が「海洋国家としての立場」は、
脆弱で弱々しくなってきています。
だから、私はなんとしても海事・港湾・船舶・造船は、
「デザイン戦略とデザイン必要」を訴求する立場と考えています。
ようやく、グランプリ選定でも議論が白熱してきましたが、
船舶造船業界での「デザイン認識」は30年遅れていると思います。
この3年ほどで、急速充電のハイブリッド船舶も出てきました。
しかし、わが「海洋国家」を取り囲む問題が山積しています。
わが国家が牽引してきた国際規格は日本不利に追い込んでいます。
また、ソーラーバッテリーとリチウム電池駆動や、
バリアフリー船舶の一般的な語り方にも、
私には科学的根拠不足、制度未完性を見抜くことができます。
私はなんとしても、造船業界に、
インダストリアルデザインを、
プロダクトデザインを、
デコレーション=デザインという認識を絶対に改めていただき、
次世代デザイナーも、デザイン教育界も、
「海洋デザイン戦略」を持ち込んで、
世界でトップ産業にするべきと考えています。
海賊がいて、サメと闘い、地球港湾や北極海の地球異変まで、
この産業界は「デザイン革新」されるべきだと主張しています。


目次を見る

「老人が杖をつく考の象形から、思考の考」


   


     6月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

「思考」の「思う」は、生まれながらの心からの直感。
このようにとらえると、
「考える」と「思う」を再度象形文字から考えることが可能です。
「考」は本来は「老」という象形から派生しています。
老人というのは、
多分、「思って、想って、思い続けてきた人間」です。
経験や聞いた話などの実体験が「思う」ことになるのでしょう。
しかも、老人とは、髪が白くて腰が曲がっている。
この象形が「老」という漢字だと言われています。
さらに、この「老」から、腰の曲がった老人が杖をつきます。
つまり、杖をついているのは佇んでいるわけです。
老人が杖というのが、「考」という象形文字だというのです。
「思考」の「思う」ことと、
「思考」の「考える」ことには、人生の時間が重なっています。
日本語漢字、象形文字の素晴らしさに私はあらためて感動します。
なんと、「思考」とは、
人間が生まれて、直感的に感じ取る「思い」を、
人生の、経験、話、実体験、そして教育成果で「考える」。
私は、赤ん坊の「思い」と老人が杖をついて佇んで「想う」こと。
なんと「思考」というのは、
人間の生涯という時間にわたって想い続けていることです。
とりわけ、私はデザイナーという職能なので、
デザイン思考というのをこの生涯の想いに重ねることができます。
しかし、困難なのは、
デザイナーに成ったときには思うというよりは考えています。
だから、デザイン思考というのは、想うことは考えること。
それゆえに、デザイン思考の思うことは、
デザイナーゆえの直感が「思う」ことになっているはずです。
こんなに象形文字から基本を積み重ねていくことは、
なんと面倒くさいことの繰り返しだと自覚します。
しかし、デザインにとっての「思考」とは、
「思う」ことは直感であり、
「考える」ことは熟考のまま佇んでいる「想い」だと思うのです。


目次を見る

「田の象形から、思考の思」


   


     6月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

漢字「田」は、頭蓋骨の象形文字でした。
そして、とても大事なことは、3歳までには、
この頭蓋骨には「泉門」と呼ばれている穴が空いています。
この穴は、3歳で閉じられます。
いわゆる「三つ子の魂」と呼ばれるように、
3歳までに、たとえば理系とか文系が決まるように、
頭蓋骨の中の脳味噌には、この穴から吹き込まれる何かが、
影響しているとさえ言われてきています。
しかも、この「泉門」というのはラテン語でも同様に、
「泉」でありその出入り口として「門」と言われているそうです。
したがって、この「田」は決して田畑という文字ではありません。
だから、脳味噌が心で反応していることが、「思う」こと。
もうひとつの「想う」は、
相手に対して、すなわち、対象物に心の動きを表しているのです。
私は、「思考」の「思」を「田」と「心」、
それらの象形文字でこれまで大学でも説明をしてきました。
「思考」とは?
あるいは、「何が思考に」ということも、
詳細に検討することが、デザイン思考の基本だと想っています。
特に、女性が赤ちゃんを持ったなら、
「三つ子の魂百まで」というように、
この泉門についての重大性を語ってきました。
おそらく、私も母の胎内から3歳までの間に、
何かが影響したのかもしれません。
たとえば、米国では、死亡した乳幼児の頭蓋骨を丹念に調査し、
泉門・頭蓋骨・脳検査によって、
ロボット思考の基準すら調べられているということを、
著名な日本のロボット学者から聞いたことがあります。
叶うなら、胎児から3歳までの泉門の解剖学的な所見が必要です。
「思う」ことは、
実は、人間は生まれながらにして、
心と脳での直感的なことが大きく寄与しているのかもしれません。


目次を見る

「キーボードデザインはここから始まった!」


   


     6月 16th, 2013  Posted 12:00 AM

Apple社からPDA・Newton100と同サイズのキーボードを
当時、福井で活動していた私に、
シャーップ帰りにAppleのチームが立ち寄っていました。
まさか、福井でAppleの新製品デザインを追いかけている、
このようなことは想像もされなかったと思います。
その契約では、Apple社の弁護士から、
デザインスタジオも綿密に条件づけられていました。
福井のスタジオには当時最も新しい錠が付けられていました。
契約書類も相当の厚さだったと思います。
私の伸縮性のあるアイディアは当時、片腕だったS氏が、
ペーパーモックで作成してくれました。
彼の腕前は多分今でもペーパーモデル作成はトップだと思います。
今でも、彼のモックは頑丈であり金沢での個展に展示した程です。
キーボードの基本は収集もしました。
だから、多分、世界的にも最高のキーボードは、
私が収集したモノ以外は無いとすら思っています。
4年前に、私は「鏡面でLED発光キーボード」を商品化しました。
そして、4年かかりましたが、
「Touching Feedback Keyboard」を完成しました。
間もなく、Mac版が発売になると思います。
静電タッチでなおかつ触覚フィードバックの実装は、
おそらく、これからのスイッチやキーボードなどを変革します。
触った感覚が確実に指先に感じることを目指してきました。
キーボードが鏡面であるということ、
これも工業意匠権は確立させることができました。
私は、キーボードは絶対に直線的であるべきと考えています。
それは、ピアノの鍵盤に等しいこと、
腱鞘炎を防止するというより、腱鞘炎のリハビリは、
「平面に指先自重をかけること」がエビデンスです。
だから、今後のキーボードは、キーボタン一つ一つよりも、
必ず、「触覚フィードバック=Touching Feedback Keyboard」は、
新しいスイッチ環境を変革してくれると確信しています。
平面なのに、指先は膨らんだ場所を押しているという感覚です。


目次を見る

「コントローラーのデザインはまったく進化していない」


   


     6月 15th, 2013  Posted 12:00 AM

関西の大手電機企業、そのTVデザインチームと仕事をしました。
当時の人たちは、今では二人が大学教授になっています。
その企業で「オン・スクリーン」の開発に参画しました。
今では当たり前になっている、音量や基局選択、時間表示など、
TV画面に表示し、そのコントローラーのデザインでした。
当時は、「ハイパーカード」を使ってMacでデザインをしていました。
ところが、TVコントローラーはその後、何も進化していません。
私は、この時の「オン・スクリーン」の経験を大切にしています。
そして、私がたどりついたのは、
四つのボタンとアイコン表示で充分であり、
それをトラックパッド的なコントロールで完成させることでした。
1990年代にApple社の
「メディアインテグレーション」で提案をしていました。
その後、私のデザインでEIZOにて商品化した液晶TVでも、
なんとか実現をめざしましたが市場的にはまったく無理でした。
そのTVはすでに商品化は終了しましたが、
今でも「映像表現とデザイン」は自分ながら、これを超えるモノ、
そんなモノは残念ながら全く登場していません。
問題は、現状のコントローラーは「すべて最悪」です。
デザイン思考不完全なモノが平然とデザインされています。
私の持論は、4つのボタンと「オン・スクリーン」で、
映像表示の選別は、簡単に制御することができます。
正直、液晶TVの地上波、そのインターラクションは不完全です。
どうして誰も指摘しないのでしょうか!
私自身、自宅のTVをコントロールするには、
4つのリモコンが必要です。
最も、このような使い方をしているのは特殊だと思いますが、
音響システム・ゲーム機・AppleTV、さらにはCATVまでを
コントロールしなければなりません。
そして、ワイフにいっぱい言い逃れを考えて、
ともかく「最高の音質と映像」が必要だと思っています。
そういう意味では、
このようなコントローラーの時代がともかく来て欲しいのです。


目次を見る

「コンピュータを強く認識したときの人物と試作デザイン」


   


     6月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

東芝入社早々に、COBOLとFORTRANを学ばせられました。
大学時にタイプライターを学んでいたので、
パンチカードでプログラム打ち込みは得意でしたが、
大きな疑念が残りました。それはいづれ書きます。
しかし、Apple?の登場とMacintosh128Kで私はこの世界が、
必ずデザインの手法を変えると直感しました。
それから、様々なコンピュータやパソコンと出会い、
1990年代に、私はApple本社・ジョン・スカーリー会長直属の、
デザインコンサルタントになりました。
東京のバブルを横目で見ながら、クパチーノ本社、
その社長室で、私はアラン・ケイ氏に突然会わされました。
ほとんど躊躇も上がりもしない私が仰天し慌てました。
日本でも彼へのプレゼンがありました。
当時「Jeep」というコードネームの生徒向けパソコンです(右)。
ともかく、アラン・ケイが発明したパロ・アルト研究所での、
彼のコンピュータがジョブスを刺激し、Macに繫がる訳です。
キーボード・モニター・マウス・GUIこの四つが
WYSIWYG=(What You see What You Get)になって、
パソコンが今日に至っています。
私には、当時は七つのプロジェクトがありました。
その中で、生徒用、学生用ではありません。
つまり、小学生がバックパックに収めて使えるパソコンでした。
ちょうどその頃には、AppleとシャープがPDA=Newtonを開発。
Newton100と同等の大きさのキーボードが求められていました。
私は、現在のキーピッチを計測し直して、
そのキーピッチ余白を省略すれば、
その余白分で拡張可能がわかって実装化ができたというわけです。
もっとも、ジョン・スカリーとアラン・ケイともに、
このプレゼンを箱根でやったことは思い出ですが、
本当に存分にその頃は、
米国でパソコン開発の困難さを東洋人として知った気がします。
しかし、アラン・ケイは私にとって「雲の上の人」でした。
それでも、当時、すでに現在のトラックパッドや、
USBにつながるであろう会話は始まっていました。
「マルチメディア」全盛の時、
「メディア・インテグレーション」がコンセプトでした。


目次を見る

「I seeの世界観」


   


     6月 13th, 2013  Posted 12:00 AM

英語では「わかった」ということをI seeと言います。
私はおそらくこの40年、「みる」ということを語ってきました。
少なからず、「みる」という漢字、それぞれについても、
どれほどのことを語り、
さらに、「みる」道具や機器をデザイン開発してきました。
メガネフレームからパソコン・ディスプレイ、
そして、ヘッドマウントディスプレイ、医療機器に及びます。
結局「みる」という行為が最終的には「理解」することです。
この理解によって、人間は解放され、自由になるというまでの、
私のひょっとすれば、宗教観だったのかもしれません。
そして、たとえば「見える」というのは、
必ずしも健常者のことではありません。
目の不自由な方=盲目の人についても、
自分のデザイン対象にしてきました。
今もデザイン対象にしていることでは「点字」の世界があります。
たった6個のブツブツ、その凹凸感で、文字・数字になります。
もちろん、和文と英文には違いがありますが、
たとえば、「ト」と「T」が同一であったりすると、なぜか、
私はうれしくなります。
正直、目が見えれば、その凹凸無しでも見えてわかるのです。
しかし、私たちは、目が見えるからといって、
その視覚で判断出来ることがどれほど貧しいかということです。
そして、そのことに気づくべきだと思ってきました。
たとえば、大学人になった当時は、
「市街調査のワークショップ」もいくつかやりました。
そんな時、私は主催者側に、
必ず、白杖を持った人たちを加えてもらいました。
それは、彼らは、「見えていない」という感覚では、
決して解らない、「風の向き」や「水の流れ方」を
感じ取ってくれるのです。
だから、私は、I seeというだけが、
理解したということにはならない気がしています。
むしろ、仏語のvoir・avoir・ savoirという変化は、
ことさらに見ることから、
理解するまでの働きがあると思っています。


目次を見る

「また、岡倉天心を追いかけている」


   


     6月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

それこそ、私が美大に入った頃、
私は友人に言っていたことがあります。
「自分はデザイナー志望だから、
決して、岡倉天心を好きになることなんて絶対に無いよ」と。
当然のこと、美大時代は岡倉天心や彼の行動を、
知ろうとすることさえしませんでした。
ところが、デザイナーになってから、
「茶の本」をまず何の動機もなく、読みました。
「力囲希咄」、この意味がわからないままに、
この意味を求めている自分に出会いました。
この言葉を作品名にしたこともあります。
そして、決定的になったのは、ボストン美術館に行き始めてから、
私はどんどんと岡倉天心にのめり込んでいきました。
気づけば、彼は福井藩主の子どもでした。
私を取り込んだのは「東洋の理想」でした。
「アジアは一つである。」
これが、著作の冒頭にあります。
そして、この言葉は1903年、海外で出版された書籍にもかかわらず、
冒頭の一語は、大東亜共和圏構想の広告コピーに使われました。
だから、あたかもこの一語はアジア支配力の一文になりました。
私は、この書籍も理解せずに、当時の軍部のまるで悪行推挙、
軍部はすべからく悪人集団、
この指摘と著作意図を常に読み比べてきた気がします。
最近、またあらためて岡倉天心を読み始めました。
というより、調べ尽くしたいことが大学に在学しながらも、
次々と増加してきています。
とても読み切れないほどの資料に取り囲まれています。
だから、写真の「東洋の理想」もハードカバーを探せなくて、
文庫本を買ってまで、もっと知り尽くしたいと思っています。
理由はただ一つです。
「アジアは一つである。」という彼のこの一語は、
決して、軍部に使われただけではなくて、
大東亜共和圏をなぜ、
この小さなアジアの小国が軍事を果たしてまでも、
「アジアの主張」をしなければならなかった。
この理由をなんとしても書き残したいからです。


目次を見る

「20年追い求め、やっとその時代到来か・・・」


   


     6月 11th, 2013  Posted 12:00 AM

「スカウター」と名付けました。
エスノグラフィーという民族の個人的な、
視覚性と情報性を考えて見れば、そこに必要な情報を。
この思考を20年熟考してきたのかもしれません。
大学人になる前に、ある大企業とある省庁とへの提案は、
すぐにベンチャー企業ができました。
しかし、この発想はとても早すぎたのでしょう。
「売れること」より、技術進化の方向を示していました。
1996年、大学人になって、
この提案は「ディレクター」で制作し中国の学会で発表しました。
それ以来、私にとりついた技術展開概念とデザイン対象でした。
私は「映像」を全体像で追いかけてきた実感があります。
当時思いついていたアプリケーション、
自転車競技、カーレース、学術用途、医学・手術、音楽など、
この領域にこれは最適な、言わばヘッドマウントディスプレイ。
私が、気づいたのは、
目の前が真っ暗な映像が見えるモノは船酔いすることでした。
これは人間の生理がまったく受け付けない代物ということです。
にもかかわらず、未だにこの商品化をしている企業は実験不足。
話題になっているGoogle Glassは、
元のアイディアは日本産だと断言できます。
現在、評価版があるらしいのですが、
私は根本で4つの疑問を持っています。
今それを明らかにすることはできませんが、
この4つを日本が進化させたなら、
彼らのあの商品価値は劣ることは間違いありません。
20年前の発想は、何も変える必要はありません。
私は、「技術がデザインを実現できなかった」と思っています。
ということは、
デザインは常に技術への提言を持っているべきだと考えます。
たとえば、Apple社は、かつて「Knowledge Navigator」という、
パソコンが秘書になることを提言していました。
現在すでに、iPadであれ、Cloudであれ、
私たちの日常には、当時のデザイン思考以上の志向性があります。
デザインは100年先を考えていいわけです。


目次を見る

「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」


   


     6月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

美術学校には入ったけれど、油絵を描く力もなく、
まして、美術といえば、セザンヌは好きだけど、ピカソはなぜ?、
という私には、「現代美術」?、美術がなぜ表現手法?でした。
その私に「ことば」で、心から美術・建築・音楽までを
最も理解させていただいた人、それは「宮川淳」でした。
もし、世界で最も最高の出版物は、彼の「遺作全集」です。
そして、この著作を読んでも分からないとするなら、
もう一度、自分の知性そのものを疑うべきだと今なら言えます。
だから、私がデザインという世界への道筋は、
彼によって形成されたと確信さえしています。
当然、私の「プラトンのオルゴール」の一人であり、一台です。
私はこの作品には、回る円錐形と赤いLEDとを使いました。
音楽・ビートルズは「MOTHER」でした。
彼は客死しました。
そのニュースを聞いたときに、私の体が沈んでいく感覚でした。
彼自身のデザインに対する一節は、
私には冷徹で空々しさしかありません。
その空々しさを打ち消そうとして生きてきた気がします。
彼の客死を評論した文章はほとんど読んだと思っています。
私は「ことば」の評論が、網膜に映る美術あるいは芸術を
これほど明快にした人物はいなかったとさえ思っています。
私が、敬愛する倉俣史朗氏を評論しようとしたとき、
そのテキストは彼の著作を何度も読み返しました。
私は、自分のデザインの評論は、
必ず彼の網膜が紡ぎ出す「ことば」だったら、
どのように評論されていただろうと思うことにしています。
それは、他のデザイナーの作品・製品・商品、
そしてそのモノが日常生活で位置することも、ことばになります。
だから、形態はまさに「言語」になりうると考えるのです。
おそらく、この抽象的な文章は理解してもらえないでしょう。
それなら、はっきりと言い切れば、
デザイン・建築・美術・音楽などに対する、
あなたの知性の再考を私は求めます。
デザイナーなら、なおのこと、
あなたにデザインの才能などあるわけがありません。


目次を見る