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『資本主義から逃走せよ!』
  金融工学の始祖はマルクスだった_16 
  「カード」という「メディア・インテグレーション」


   


     6月 3rd, 2009  Posted 7:30 PM

「貨幣」の速度性が、まったく、経済の論理と、
経済社会での都・対・鄙の構図を変貌させてしまったことを指摘しました。
貨幣=コインで具体例を述べました。

次に、「カード」というメディアが、
経済構造に食い込んできたことにも注目しておきましょう。
「カード」といえば、おおよそ、3種類ほどあります。

 
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これは、貨幣そのものと考えていいでしょう。
しかも、このクレジットカードには、
「貨幣速度論」に照らし合わせると、
商品やサービスへの対価支払いが、分割されたり、後払い、
すなわち支払いを延長させるという速度調整ができることです。
これは、「貨幣」機能があるということです。
クレジットカードは、「貨幣機能」の代替機能があるということに
注視しておいてください。

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購入した利点を、サービス対価として、還元させたり、
購入支払いに対するなんらかの権限を拡大したり制御する効能があるということです。
これは、機能ではありません。
効能です。
つまり、効能というのは、「薬・薬剤」などの効果のことです。
ここでは、機能と効能の違い、その差異についてはふれません。
考えていただくことをお願いします。

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文字通り、身分証明書の形式が、カードになっています。
自分が社会的にどのような立場であるか、
社員証や学生証、そして趣味趣向での会員証から、
経済に関与するサービスの性能性があるということです。

私は、すでに日常化している「カード」という形式には、
「機能性・効能性・性能性」が、
それぞれのカードに付与・付帯しているということを整理しておきます。
なぜなら、これは、「貨幣経済」が「情報管理」によって、
「メディア=形式」での、経済内容が
変質し、変貌し、変容していることをあらためて指示しています。

端的に言えば、「資本主義」でのマクロ経済もミクロ経済も、
「カード」という形式、その機能・効能・性能が
深く関与してきてしまっている、ということこそ、
「資本主義を終焉」に追い込んでいる
「メディア・インテグレーション」の事例だと考えているからです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_15 


   


     5月 12th, 2009  Posted 9:15 AM

子供の頃から「収集癖」があります。
それは「一人っ子」だったからかもしれません。
さらに、「欲しくなるモノ」は他人が持っていたり、
流行するモノはまったく欲しくありませんでした。

今、こうした「収集癖」をあからさまにしているブログがあります。
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さて、「貨幣とスピード」の話をしたいと思います。
イメージしてください。

「東京の地下鉄で切符を500円硬貨で買いました」。
「人口が1500人の山里に一軒だけある
スーパーマーケットで500円硬貨を使いました」。

それぞれの500円硬貨は、どんな旅をすることになるでしょう。
東京の切符自販機の硬貨は、すぐに、取り出されて、
めまぐるしく、人から人へと渡っていくのです。
つまり、その500円硬貨が「使われる度に」
その価値は、500円×使用価値度数となります。

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ところが一方、田舎=鄙のスーパーマーケットの
レジスターに入っている500円硬貨は、
ひょっとすると1週間、あるいは1ヶ月後に、
銀行員によって集金されるかもしれません。

500yen

人から人へと次々に何度も使われることは、
東京=都会=「都」の500円硬貨の役割だったのに、
田舎=「鄙」の500円硬貨とはまったく異なる価値になっているわけです。

私が指摘しておきたいのは、「貨幣論」で言うところの
「貨幣=硬貨価値」は、それがどこに存在しているか、ということによって、
その「スピード価値」が付帯しているということです。

この「スピード」すなわち「貨幣使用速度」が経済学的に方程式になって、
「場と使用速度」の関係までは
まったく無視されていると言っても過言ではないでしょう。

現在、地方都市の商店街が、「シャッター街」=すでに、
日常的な商売から撤退している街の500円硬貨と、
大都会で何度も何度も人から人へ使い回される硬貨=貨幣価値は、
まったく、「貨幣価値」が変容していることを理解しておくべきことでです。

そして、「経済学」での
「貨幣使用度数×使用速度」式を私は知りたいと思っているわけです。
私は、自分の生年1949年の銀貨に限って集めています。

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そして、こう思うのです。
このコインは60年、どんな旅をして、
今、私の収集品として、銀貨はピカピカに磨いて、
「ごくろうさん」とコインに語りかけるのです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_14


   


     5月 8th, 2009  Posted 9:50 AM

このところ、「多忙」です。
これはとてもいいことではありません。
体調=心臓の負担も自覚できるようでは、
不安になってしまいます。

そして、最も不安なことは、
「パンデミック」がとうとう起こってしまいました。
私の直観は当たってしまいました。
「ワクチン・シリンジ」の開発、
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それは、PKD(Peace-Keeping Design)という世界的なデザイン運動の
具体的デザインとして提案し、マスコミにも取り上げられています。

そして、今、金沢21世紀現代美術館で、
「愛についての100の物語」という大規模な企画展に招待されて、展示をしています。
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講演にも行く予定です。

さて、このブログはむずかしいと周囲に言われています。
しかし、この程度ぐらいは読みこなしてほしいのです。
なぜなら、「貿易立国・日本」は、
すでに、「産業の方向性」を間違っていることを指摘しておきたいのです。
たとえば、「マクロ経済」と「ミクロ経済」という分類がありますが、
この分類はすでに時代遅れなのです。

簡単に私的解説をしてしまうと、
「マクロ経済」は、世界経済・市場論・貨幣論を語ってきました。
「ミクロ経済」は、日常生活での市場論と大雑把に言っておきます。

私は、「市場論」と「貨幣」について、
「スピード論」が決定的に欠落しているのです。
「貨幣のスピード」について見届ければ、
たとえば、「都」と「鄙」、
すなわち、「都市=大都会」と「地方=田舎」での
「貨幣価値」に速度性があるということです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_13


   


     4月 13th, 2009  Posted 11:00 AM

なんだかここまでマルクスの事を記述してくると、
私はまるでマルクス全否定論者のようになっている、
と感じている人もいると思います。

しかし、そうではありません。
思想として、「資本論」を受け入れるわけにはいかないだけです。

そして、マルクスについては、
生涯かかっても読み切れるはずもないほどの著作が氾濫していますが、
大きな間違いにはうんざりします。
たとえば、マルクスは数学が大の苦手だった、
というのは間違いでしょう。
苦手なら、「数学ノート」を作ってまで、
それをエンゲルスに説明用とまではしなかったはずです。

確かに、「資本論?」では、
数学的な記号での、特に「貨幣論」が展開されますが、
さほど高度な数学的な論理にはなっていないことは確実です。
もっとも、「資本論?」からはエンゲルスが書き残したと言われています。

いわゆる「経済学」の大きな根幹、要素には
「貨幣」の意味、「貨幣」の運用、「貨幣」のサイクル性が取り上げられます。

ところが、マルクスの時代には想像外、想定外のことが
世界の「金融要因」が発生してくることです。
想定外は、三つあると私は思ってきました。
さらに、「要因としての金融」と「金融とサービス」が
これからはさらに変貌することが想像可能です。

ともかく、その三つをあげておきます。

 ■ 「クレジット」信用を「カード」化
   これは「クレジットカード」というプラスチックマネーの登場です。
 
 ■ 「貨幣」は要素ではなくて
   「要因としてのスピード」はまったく想定外だったこと。
 
 ■ 「金融サイクル」は計算ではなくて、
   「金融演算」、すなわち、コンピューター上でのサイクル性は、
    即、「景気」連動につながった。

私はこの三つは、マルクスの「資本論」の想定外だった。
しかし、金融工学の根底には
やはり「資本論」がその基盤を構造化していたことは認めているのです。

この4月に、ある金融機関・銀行の「入行式」で記念講演をしました。
これから、金融業界・銀行人になる人たちに
「時代とともに働く意味」という話をしました。
この講演の根底では、確かに、私の金融への想いには、
マルクスの『資本論」があったことは確かです。
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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_12


   


     4月 3rd, 2009  Posted 12:00 AM

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「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。

使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。

マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。

「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。

保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。

別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。

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明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。

だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。

高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。

なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、

「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。

階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_11


   


     3月 31st, 2009  Posted 10:00 AM

「四句分別」というMATRIXは、MANDALAとして、
一つの概念が単純に8つの概念で取り囲まれると私は考えるようにしています。

それは、概念を核心とする概念機能、
あるいは概念の機能性や概念感覚を把握し認識するための条件と考えているからです。

まさしく、曼荼羅に描かれた仏像の機能と言っては言い過ぎかもしれませんが、
人間の思考は「ことば」に、特に、その概念があらわす
夢・願望・期待・理想を表しているという仮説を私は持っています。
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そして、これを、私は「ことばとかたちの相対性」と呼んでいる思考の構造化にほかなりません。
そこで、「使用」ということをMANDALA 図に載せて分類をします。
それは、どういう「使用」というのがあるのか、
ということをともかく配置してみるとその構造=関係が見えてくるのです。

「核概念」の上部には上位概念が左右に並びます。
そして中心と左右は同等の重力を下位概念に上下にわたって及ぼしているのです。
さらに、「核」・中心に対しての対立やあるいは対位性は、
中心感覚を平衡化するバランス感になっていくものだと考えています。

まずはじめに、「使用」を中心、「各概念」に配置します。
そうすると以下の図のような、「使用」の目標や目的、そして効果が視えてきます。
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「使用」を取り囲んでいる8つの「ことば」に対する意味とその「感覚」は、
そのまま「使用観」という世界図象として、
私たちの感覚を世界観として成立させているのではないでしょうか。

たとえば、「使用」するというのは、
急用もしくは専用のために採用することから始まっているのだと考えてみることができます。
採用感は採用するための自分の世界観だと考えれば、
その「使用」の「価値感」=「価値観」ということで、
個人的な感覚、私だけの感覚であっても、それを一般化させることも可能になるわけです。

つまり、「使用価値」がどのように分解されて、
なおかつ統合と集約を、それぞれの概念価値として要素化、
あるいは要因化しているということになるわけです。
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ただし、この曼荼羅図は、あくまでも二次元での仏像の配置です。
そのアナロジーとして、MANDALA図に「ことば」その「感覚」を配置してみました。

本来は、仏像界という宇宙観は多次元空間での存在にほかなりません。

それは、「ことば」もその発信性や意味論は
宇宙観にただよっている感覚にすぎないと考えることが出来ます。
平面界での配置であることも注意をはらっておきたいと付け加えておきます。

結局、世界観は私は3次元から多次元化していることをすでに知識として認識しているからです。
それは、「価値観」あるいは「価値感覚」は
多次元化された時空間に存在しているということになります。

問題は、この多次元的な「価値」、ここでの「使用観」は、多次元的に時代が変容させたからです。
すなわち「多様化」している「使用価値」へと拡大と収束が起こっているということです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_10


   


     3月 27th, 2009  Posted 8:13 PM

「所有観」と「使用観」という二極分類を融解してみたいと思います。
「四句分別」のMATRIXに「使用」と「所有」の二極を配置してみましょう。
それは、「使用中心の所有意識」と「所有中心の使用意識」という領域が、
必ず、意識上に存在していることになるのです。

これが、東洋的というか、日本的な融合感覚ではないでしょうか。
この「分別」こそ、現世公案的な悟りへのアプローチとなっていたのです。
現在、この日本的感覚が押しつぶされてきたことを思い出す必要があると私は考えています。

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乱暴な言い方をしておきます。
つまり、1970年代初めに、「脱・工業化社会」、「ポストモダン」、
そして「意識化社会」という予測論が出てきました。

これは、「情報化時代」、「情報社会」が到来することの確約された予測論だったのです。
しかし、その内実が構造化される外因は
すべからくオイルマネーによる金融支配構造に資本主義そのものが、
まだまだ進展していくという幻想、いや妄想が生まれてしまったのです。

具体的には、私はデザイナーとして二つの現実を見てきました。
石油文明をあくまでも維持しようという石油資本家たちの支配構造から脱出できませんでした。
これを裏打ちする事件も歴史的な事実となっていくのです。
この指摘はいづれ書き残すつもりでいます。

とりあえずまずは、「電気自動車の開発と実現」がずーっと拒絶する
大きな支配的な政治力が温存されていたということです。
そこにコンピューターやネットワークという技術革新=イノベーションが覆い被さってくるのです。
「イノベーション」は、オーストリア出身のJ.A.シュンペーターが、この言葉を提示しました。

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さらには、「資本主義の崩壊」までの思想を登場しているのです。
このことについては、いづれ後述してまとめておく必要があるでしょう。
そして、これは、コンピューターテクノロジーあるいはインフォメーションテクノロジーによって、
そして資本主義が強化されたがゆえに、この妄想が正当化されたものと判断せざるをえません。
即、1973年にはオイルショックによって、この妄想が一時叩きのめされました。

けれども、この当時のコンピューターはまだまだマシンの段階でした。
ところが、コンピューターがパーソナル化する時代に入ります。1980年初頭です。
それこそ、資本が金融というシステムの中で、
ますます専門家だけが制御できるネットワークになっていくことにつながります。

と同時に、それは「グローバル化情報社会」として、
先進国家にのみ、その資本財の配分、つまり「富の分配」という構造社会になっていくわけです。
この「富の分配」には、
「所有観」と「使用観」が融解して二極性が崩壊していくと言ってもいいでしょう。
私は、これをMATRIXからMANDALAへと変容してきたのだと評価しています。

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MANDALAとは、正式には「金剛界曼荼羅図象」です。
この図象に描かれた仏像図とそれぞれの仏像の意味性を私は詳細に語るべきだとさえ思っています。

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ここではあくまでも「所有」と「使用」の二極を
多様的な意味を集約するためにMANDALAを応用します。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_09


   


     3月 23rd, 2009  Posted 12:20 AM

マルクス理論の骨格である「価値論」は、
きわめて西欧的思考で固まっていると思います。
それは二元論での分割では、思考を閉じ込め、
その二元を二極化する正当性だけを信頼してしまいます。

私はこれこそ、思考・思想を信仰してしまう危険性があるのだと指摘しておきます。
私は、この論理構造は、東洋的、仏教、その禅宗的思考によって、
一端、溶解すべきだと提案しておきます。

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私のふるさと福井には、永平寺があります。
この永平寺開祖・道元の思想には、二元論を融解する思考手法があるのです。

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もっとも、道元自身は、自然体的な思考論であったのですが、
後世になって、「現世公案」という解釈論の手法となった「四句分別論」があります。
この論理によって、二元・二極、その分解と統合化は、溶解と融合を促すことができます。
「四句分別」ということを、
私は必ず、海外の大学で講義する時には、
「現世公案」という思考論を紹介をすることにしています。

なぜなら、デザイン発想でもこの思考方法は発想を促進するには、
とても優れて有効であるということだからです。

ところで「公案」というのは、禅宗用語です。
禅宗というのは、行学という思考を日常から
さらに展望を「生き方」の「悟り」としていく宗教です。
つまり、「ことばの意味」・「自然事象の徹底した理解」・「自然とことばの構造・関係」を
身体化する宗教哲学だと、私は了解しています。

では、簡単に「四句分別」というのは、2×2=MATRIXという図解で
視覚的な援用でより理解が容易くなるからです。

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たとえるなら、西欧的なyesとnoの関係です。
日本人は、yesとnoを曖昧にする民族と非難されてきました。
私は、それが「日本的思考の根本的思考」だと再主張したいと考えてきました。

どんな人間のこのyesかnoかという価値判断を求められたなら、四つの評価感覚があるはずです。
 ■まったくyesである。
 ■まったくnoである。
 ■yesだが、noという思いも残っている。
 ■noだが、yesという思いも残っている。

これらを図解(2×2=MATRIX)してみると「一見して分かる(=分別することが)できるでしょう。

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では、この「四句分別」によって、マルクスの「価値論」を公案してみたいと思います。

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それは、マルクスを原点としながら、
この思想を現代の経済的な問題解決論としておくことではありません。
「資本論」は「宗教」と断言したからには、
あえて、日本の高密度な思考によって、再構築してみたいと考えるからです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_08


   


     3月 21st, 2009  Posted 11:52 AM

たとえば、「車」は、移動手段としての機械=マシンというモノです。

「使用価値」は、移動に使用する内容があるということです。
もう一方では、「車を持つ」という「所有価値」があります。
そこで、「車の形容される内容=価値」と考えてみましょうか。
どうでしょう。

たとえば、私は男としてそれなりに車が好きです。
だから、自分にとって「望ましい車」、
その上で「好ましい車」という基準で車を選別してきました。
これまで何種かの車を「所有」して「使用」してきたわけです。
それは、「車の内容への感覚的な私の満足度」が「車に対する私の価値」でした。
「好ましい」のは、無論デザインそのものであり、
そうしたデザインをするメーカー・ブランド・車種でした。
「望ましい」という「車」は、まだ技術的にも進化してはいないと思っています。
もっとも、男子的には、
それなりに「望ましい」と思われるような車種は「所有」してきたと思います。

今、所有しているのは、ベンツのSL500とベンツのS320の二台です。
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キャディラックのロングリムジンを「所有」し「使用」していたこともありますから、
考えてみれば、車への価値的な欲望は、それなりに満足していいのだろうと思います。
そこで、「車」の価値感と価値観を、
本当に、「所有価値」と「使用価値」だけで語り切れるのかというと、
そうでもないことが、20世紀戦後から現在では、
すっかり、「形容詞としてのモノの内容が変貌」しているということからも、
「資本論」での「価値論」は、今日までの省察はできていなかったということです。
「資本論」の想像力の限界、それは、明確にこの論理は確信には至らない思考だったということです。
それゆえ、今、流行として、「マルクスは現代をすでに見極めていた!」なんていうのは、
そう言ってはばからない連中の想像力の貧しさを哀しんでしまいます。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_07


   


     3月 20th, 2009  Posted 2:08 AM

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希望という言葉があります。
その「望」という漢字には、諸説があるようですが、
「望とは、なかなか見えない遠方の物を探し求めている」という意味です。
これは、現代にも通じていると思います。
原意には、つま先立って、満月が今か今かと待ちのぞんでいる、
という意味も、この文字の派生ではうなずける話でしょう。
次に、好意という言葉の「好」はどういう派生の歴史があったのでしょうか。
これは、この文字の形そのままのようです。
原義が形に表れているということです。
「女」の人が「子」供を大切に養育することを表していますから、
女性と子供との親愛関係が反映した漢字と考えていいでしょう。

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さて、前置きが長くなってしまいましたが、
「価値」というのは、簡単に言ってしまえば、
「望ましい」ということと「好ましい」ということだと私は定義しています。
なぜ、ここまで一段下りて「望ましさ」と「好ましさ」が、
「価値」だと言っておかなければならないかというと、
デザイナーどころか、営業マンであれ、経営者であれ、
「商品価値」をその歴史性から語り切れる人物には出会ったことがありません。
おそらく、「経済学」・「経営学」・「商学」など商売に関する学域ですら、
この「価値論」あるいは「価値観」には、遠望するほどの距離があると思い続けてきました。
ここであらためて、「資本論」がらみで、このことをメモっておきます。

「望ましい」というのも「好ましい」というのも、
言葉としては、「形容詞」です。
だから、「価値」っていうのは、
「形容詞」のいわば人間を取り込んでいる世界観、
その中にあるということが論理だと言っても構わないでしょう。
私が、「価値」は「形容詞で評価されている内容」だということです。
それなら、マルクスが示した「所有価値」と「使用価値」というのも、
「所有している内容を感覚的な形容であり、使用している内容」と言い換えることができます。


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