6月 3rd, 2009 Posted 7:30 PM
目次を見る
5月 12th, 2009 Posted 9:15 AM
目次を見る
5月 8th, 2009 Posted 9:50 AM
目次を見る
4月 13th, 2009 Posted 11:00 AM
なんだかここまでマルクスの事を記述してくると、
私はまるでマルクス全否定論者のようになっている、
と感じている人もいると思います。
しかし、そうではありません。
思想として、「資本論」を受け入れるわけにはいかないだけです。
そして、マルクスについては、
生涯かかっても読み切れるはずもないほどの著作が氾濫していますが、
大きな間違いにはうんざりします。
たとえば、マルクスは数学が大の苦手だった、
というのは間違いでしょう。
苦手なら、「数学ノート」を作ってまで、
それをエンゲルスに説明用とまではしなかったはずです。
確かに、「資本論Ⅱ」では、
数学的な記号での、特に「貨幣論」が展開されますが、
さほど高度な数学的な論理にはなっていないことは確実です。
もっとも、「資本論Ⅱ」からはエンゲルスが書き残したと言われています。
いわゆる「経済学」の大きな根幹、要素には
「貨幣」の意味、「貨幣」の運用、「貨幣」のサイクル性が取り上げられます。
ところが、マルクスの時代には想像外、想定外のことが
世界の「金融要因」が発生してくることです。
想定外は、三つあると私は思ってきました。
さらに、「要因としての金融」と「金融とサービス」が
これからはさらに変貌することが想像可能です。
ともかく、その三つをあげておきます。
■ 「クレジット」信用を「カード」化
これは「クレジットカード」というプラスチックマネーの登場です。
■ 「貨幣」は要素ではなくて
「要因としてのスピード」はまったく想定外だったこと。
■ 「金融サイクル」は計算ではなくて、
「金融演算」、すなわち、コンピューター上でのサイクル性は、
即、「景気」連動につながった。
私はこの三つは、マルクスの「資本論」の想定外だった。
しかし、金融工学の根底には
やはり「資本論」がその基盤を構造化していたことは認めているのです。
この4月に、ある金融機関・銀行の「入行式」で記念講演をしました。
これから、金融業界・銀行人になる人たちに
「時代とともに働く意味」という話をしました。
この講演の根底では、確かに、私の金融への想いには、
マルクスの『資本論」があったことは確かです。

目次を見る
4月 3rd, 2009 Posted 12:00 AM
「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。
使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。
マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。
「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。
保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。
別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。
明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。
だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。
高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。
なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、
「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。
階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。
目次を見る
3月 31st, 2009 Posted 10:00 AM
目次を見る
3月 27th, 2009 Posted 8:13 PM
目次を見る
3月 23rd, 2009 Posted 12:20 AM
目次を見る
3月 21st, 2009 Posted 11:52 AM
たとえば、「車」は、移動手段としての機械=マシンというモノです。
「使用価値」は、移動に使用する内容があるということです。
もう一方では、「車を持つ」という「所有価値」があります。
そこで、「車の形容される内容=価値」と考えてみましょうか。
どうでしょう。
たとえば、私は男としてそれなりに車が好きです。
だから、自分にとって「望ましい車」、
その上で「好ましい車」という基準で車を選別してきました。
これまで何種かの車を「所有」して「使用」してきたわけです。
それは、「車の内容への感覚的な私の満足度」が「車に対する私の価値」でした。
「好ましい」のは、無論デザインそのものであり、
そうしたデザインをするメーカー・ブランド・車種でした。
「望ましい」という「車」は、まだ技術的にも進化してはいないと思っています。
もっとも、男子的には、
それなりに「望ましい」と思われるような車種は「所有」してきたと思います。
今、所有しているのは、ベンツのSL500とベンツのS320の二台です。
キャディラックのロングリムジンを「所有」し「使用」していたこともありますから、
考えてみれば、車への価値的な欲望は、それなりに満足していいのだろうと思います。
そこで、「車」の価値感と価値観を、
本当に、「所有価値」と「使用価値」だけで語り切れるのかというと、
そうでもないことが、20世紀戦後から現在では、
すっかり、「形容詞としてのモノの内容が変貌」しているということからも、
「資本論」での「価値論」は、今日までの省察はできていなかったということです。
「資本論」の想像力の限界、それは、明確にこの論理は確信には至らない思考だったということです。
それゆえ、今、流行として、「マルクスは現代をすでに見極めていた!」なんていうのは、
そう言ってはばからない連中の想像力の貧しさを哀しんでしまいます。
目次を見る
3月 20th, 2009 Posted 2:08 AM
希望という言葉があります。
その「望」という漢字には、諸説があるようですが、
「望とは、なかなか見えない遠方の物を探し求めている」という意味です。
これは、現代にも通じていると思います。
原意には、つま先立って、満月が今か今かと待ちのぞんでいる、
という意味も、この文字の派生ではうなずける話でしょう。
次に、好意という言葉の「好」はどういう派生の歴史があったのでしょうか。
これは、この文字の形そのままのようです。
原義が形に表れているということです。
「女」の人が「子」供を大切に養育することを表していますから、
女性と子供との親愛関係が反映した漢字と考えていいでしょう。
・
さて、前置きが長くなってしまいましたが、
「価値」というのは、簡単に言ってしまえば、
「望ましい」ということと「好ましい」ということだと私は定義しています。
なぜ、ここまで一段下りて「望ましさ」と「好ましさ」が、
「価値」だと言っておかなければならないかというと、
デザイナーどころか、営業マンであれ、経営者であれ、
「商品価値」をその歴史性から語り切れる人物には出会ったことがありません。
おそらく、「経済学」・「経営学」・「商学」など商売に関する学域ですら、
この「価値論」あるいは「価値観」には、遠望するほどの距離があると思い続けてきました。
ここであらためて、「資本論」がらみで、このことをメモっておきます。
「望ましい」というのも「好ましい」というのも、
言葉としては、「形容詞」です。
だから、「価値」っていうのは、
「形容詞」のいわば人間を取り込んでいる世界観、
その中にあるということが論理だと言っても構わないでしょう。
私が、「価値」は「形容詞で評価されている内容」だということです。
それなら、マルクスが示した「所有価値」と「使用価値」というのも、
「所有している内容を感覚的な形容であり、使用している内容」と言い換えることができます。
目次を見る