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『資本主義からの逃走』
   「欺瞞的エネルギーこそ、共同幻想である」


   


     6月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

エネルギーへの論議
「物質・情報・エネルギー」が現代世界構造の三大要素です。
物質と情報については、これまで考察メモをここに記してきました。
さて、「エネルギー」を大きな課題として取り上げていくことになります。
正直、書けないこともあると告白しておきます。
しかし、後世、私のアイディアや思考が間違いであるということがあったとしても、
提言を書き連ねておく所存です。
ある直感があります。
欺瞞的エネルギーは風景であり光景にはなりえぬ
それは「太陽エネルギー」・「ソーラーパネル」についてです。
私は、これが地球にとって最善のエネルギー源になるとは思えませんし、
考えれば考えるほど、「欺瞞的エネルギー源」にすぎないということです。
ソーラーパネルが輝き、風力発電のプロペラが回っている、
これは「風景」にはなるでしょうが、
「光景」にはならないと考えます。
なぜなら、ソーラーパネルを生産するために、
どれほどの電力を消費しなければならないかということです。
風力発電も決して主力電源・エネルギー源にはならないことは明らかです。
私は、おそらくここでは「原子力」について言説化を考えています。
まず、「エネルギーは原子力」である、と明言しておきます。
そしてこの論議は、「タブー」化されてきましたが、
真にエネルギーを考察し洞察するには、この論議こそ大名目だと考えます。


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『資本主義からの逃走』
  「失われる倫理への治安はデザインが問題解決をする」


   


     6月 14th, 2010  Posted 1:31 AM

警察大学校、敬礼の音
敬礼で始まり、敬礼で終わった私の講演。
これはわが父への「レクイエム」であった。
デザインは、「唯一」の実務・手法、だがら学術になる。
その可能性を信じて「生きてきた」。
そろそろ、私にはリタイアの時期が見えてきた。
しかし、やり残していることが膨大だ。
地方の警察官に生涯を捧げた父は、
日華事変から大東亜戦争、そしてインドシナ解放戦線で終戦。
焼け野原、ふるさと福井に帰還し、
選ばざるを得なかった職業が「警察官」だった。
捜査・刑事一筋で、
最後は、福井県警察本部刑事部長・警視正で退官した。
息子は、デザイナーとなり、
「警察大学校」に「警察」と「デザイン」の関係を持ち込んだ。
「警察」、この言葉に歴史的伝統的に込められてきた意味は、
いづれ紹介しなければばらない。
倫理性が崩壊していくのは、二つである。
「政治」の混迷と「経済不景気」。
その倫理性は「治安」されるべきであり、
この「治安」に「デザイン」は不可欠である。
私に残された時間に、この具現化を果たしたい。
そして、次世代デザイナーに引き継ぎたいと願っている。
敬礼、その整然とした「音」が私の皮膚にぶつかってきた。
この感覚を忘れることはないだろう。


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『資本主義からの逃走』
   「『形態学序説』と『資本論』は西洋的論理の結語論」


   


     6月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

結語・結論の論理
人間が「自然支配」を念頭に置いたのは、西洋的論理観に顕著です。
ゲーテの「形態学序説」は、その書き出しから、その論理観が明快です。
自然を支配しようとしつつも、その自然を熟知しようとすればするほど、
人間の被弱さや脆弱さを認識させられる、その結論を書いています。
マルクスも同様に、
人間の支配構造の変質化、
その起因性をかかげながら、その結論の論理でした。
大は小に、小は大へ
私は、「ガリバー旅行記」の作者,
ジョナサン・スウィフトの次の言葉が念頭にあります。
「象は実物よりも小さく描かれ
蟻は実物よりも大きく描かれる」

この指摘は、当然です。
象を実物大で描くには相当に大きな用紙が必要です。
だから、普通の紙に描けば輪郭線で表し詳細まで描くことは困難です。
蟻は小さいので、大きく描きますが、
実物が小さいためにその詳細を観察して描くことはむずかしいということです。
そこで、論理で象でも蟻でも熟知するには、
概念と観念での描写はその成果として、
象も蟻も捉え直すことができます。
これはゲーテも同じ事を言っています。
なぜなら、その論理によって理解をしようという自分、
つまり人間存在を自問自答する試みが、
いわば歴史的伝統的な定本になってきたのでしょう。
したがって、もう一度次の詩を読み直しておきます。

長年、精神はよろこばしくも、
自然がいかに生を創造するのか、
探究し、知ろうと
熱心に努力してきた。
多様に自己を啓示するのは、
永遠の一者。
大きなものは小さく、小さなものは大きい。
すべて独自の仕方で。
たえず変化しながら自己を保持する。
近くて遠い、遠くて近い、
形成し、変化しながら。
私は驚嘆して眺めるばかりだ。

        ゲーテ・『紙の世界・「パラパーゼ」』

私もここで、ゲーテを引用するのは、
「資本主義からの逃走」という論理を打ち立てようというよりは、
むしろ、現代に至るまでの基盤思想、経済論理に対するデザインという手法が、
未来を決定していく位置を確保したいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「# 25周年の経験なれど納得できないアスリートグラス #」


   


     6月 12th, 2010  Posted 2:01 AM

メガネデザイン25周年
メガネフレームのデザインに関わってきて、25年になります。
今年は、クライアントであるメーカーが、
「25周年記念」として復刻番や新作を発表してもらってます。
私のメガネフレームは、大勢の愛好者が支援していただいていて幸運です。
そして、私のブランドのみに、
大勝負をかけていただいている専門ショップもあります。
もうすっかりと、メガネに関わるほとんどの知識は身についていると自負しています。
しかし、メガネフレームは
「明らかにファッションであり、さらに、流行現象の中で翻弄される商品」なのです。

必需品だが
やがて、地球上の人口が70億人になります。
おそらく、人口統計学的な予測よりも早く、70億人に達するでしょう。
引き替え、わが国の人口は「少子化」とともに激減しています。
ともかく、35億人=メガネが不要です。
そして35億人=メガネは必需品です。
現在の調査では、12億人、メガネを所有していますが、
23億人はメガネを持っていません。
この23億人向けのメガネは根本からの「革新」をめざして開発を進めています。

アスリート用サングラス
ところで、メガネフレームには、「スポーツ向け」というのがあります。
プロのアスリートたちは決まって、
このスタイリングデザインをかけています。
しかし、このメガネフレームほど、
どんな人間、人種を限ってみても、
「似合っている」と思ったシーンはまったくありません。
もし、「まあまあ」というのは、スピードスケートや、
サンバイザーなどで、ヘアースタイルというか頭髪を隠してしまえば、
それなりのスタイルに「見える」だけです。
翻って言えば、スポーツ、アスリート、ゴルフなどにこのスタイリングを、
私に言わせれば強引に「商品展開」した企業のオリジナリティは評価できます。
25年の経験から、私は次の三つの方向をともかく道筋をつけたいと考えています。

メガネを必要とする人へのまったく「革新的メガネ」の開発
廉価なメガネへの「生体工学と人間工学」をデザインで導入
あの醜いアスリートメガネの「スタイリング一新」

果たして、ここまでやり切れるかと考えるとき、
私なりの経験と予測、
さらに造形シェイプ、
その創出方法は教育しておきたいということです。


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『資本主義からの逃走』
    「共同幻想=グランドデザインは統合された妄想」


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
 「幻想には常に憑依してくる妄想は整理するべし」


   


     6月 10th, 2010  Posted 12:50 AM

幻想に憑依する妄想
幻想である夢や希望は、少なからず、理想主義です。
だから、デザインに幻想は不可欠だと主張しています。
しかし、幻想の理想主義は「とてもか細い=幻という意味」のごとくです。
したがって、このか細さは憑依されるのです。
まさしく幻想が妄想となる傾向が張り付いています。
妄想の分類
妄想をいくつかに分類すると、
自分では幻想と思い込んでいるけれども、
本当は妄想だったという「客観的な認識」よって、
訂正を柔軟に可能にしておくことが肝要かつ寛容だと考えてきました。
● 関係妄想
● 被害妄想
■ 被毒妄想
■ 追跡妄想
■ 注査妄想
■ 嫉妬妄想
● 誇大妄想
■ 血統妄想
■ 発明妄想
■ 心気妄想
■ 罪業妄想
■ 微少妄想
● 憑依妄想
このように妄想は整理することができます。
この整理感覚を客観性にしておくことで、幻想と妄想の線引きをすることが、
「訂正の可能性」を確認できる「自分」、
その自己認識で解放することができるのだと私は思ってきました。
「瞑想」
この自己認識を図る手法に「瞑想」=座禅などが知恵だったのだと納得しています。
幻想と瞑想で、妄想かどうかを確かめることこそ、
資本論への肯定が資本主義の否定という妄想ではなく、
さらにそれなら、
資本主義から逃走あるいは解放されるという幻想に、
実は分類されている妄想に入り込んでいること、
そのことを最も重要に客観視しておくべきだと考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「幻想には理想主義がかすかに動いている」


   


     6月 9th, 2010  Posted 12:34 AM

幻想
幻想の中に埋没していたいと思います。
いや、幻想の中で生きられるならとさえ願うほどです。
しかし、幻想と妄想は、まったく別次元だということは、
完全に理解しておかなければなりません。
ただ、日常会話的な場面で、
「これは妄想にすぎないけれど」と言うのは、
ほとんど冗談的な意味合いであることは断っておかなければなりません。
なぜなら、厳密に妄想というのは「病的」、いや精神病に他なりません。
幻想交響曲
「幻想交響曲」「というのがあります。
ベルリオーズの作曲であり、彼の代表作というよりも、
この曲によって、彼の存在が歴史的になったと思っています。
この交響曲の第一楽章が、「夢・希望」だったはずです。
私は、デザイン、あるいはデザイン的発想、デザイン効果は、
「夢」と「希望」をめざしていることをまったく疑うことなく、
強い確信の元に、デザイナーという職能であったことに満足しています。
妄想としての資本論
さて、幻想か妄想かの議論が「資本論」から「資本主義」に向けられてきたことは、
資本論に対する批判から肯定の間にありました。
少なからず、私には「資本論」から導出された発想にには妄想があったものと考える側の人間です。
しかし、「資本主義」の全面的賛同、疑念無き肯定は、
デザイナーという職能と経験から、
どこかで「幻想」としていたのかもしれません。
この賛同や肯定も、実は、か細くて揺れ動いたからだと、
つくづく思うようになってきました。
たとえば、「妄想」を精神病的に分類する方法で、
「幻想知覚」
「幻想着想」
「幻想気分」
知覚としての幻想・着想としての幻想・気分としての幻想と考えてみれば、
明らかに、デザインには気分性、着想性、そして知覚性があります。
しかし、この性情には決して「病的な確信」に寄りすがって、
「訂正不能」は起こらないということです。
「訂正不能」
幻想ということだから、気分も、着想も、知覚も、
常に訂正することに呪縛されてはいないということになります。
私が、デザインに幻想が不可欠というのは、
デザインは妄想に陥っては成立はしないという確信を携えてきたからです。
しかし、「資本論」が危ういのは、資本主義への否定論には、
知覚的にも、着想的にも、気分的にも、
「訂正不能性」がこれまで数多く存在していたことです。
けれども、今、私はここで、
「資本主義」への訂正を逃走という言葉にすることが可能です。


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『資本主義からの逃走』
 「白日夢の幻想が・・・創造に向かうとき」


   


     6月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

白日夢
ここでの論理を終盤に向かって収束と集約をさせていきたい。
そうなれば「形態学序説」をもう一度しっかりと読み直そう。
そう思いつつ、
「白日夢」という言葉は明快で明確ですが、
結局は、「うすらぼんやり」しているだけの意味にすぎません。
私も叶うなら、連日、うすらぼんやりしていたくてたまりません。
確かに、私自身デザインに夢中なとき、
それは「緊張」と「白日夢」が交互になっているとも考えられます。
あるいは麻酔でとてもいい気持ちという感覚と同等な空意識があります。
白日夢の中で書き残されたのでは、という小説もあります。
太宰の作品には、それを感じ取ることがあります。
しかし、文章や言葉と対峙している感覚が、
白日夢的になるという体験を私はしたことがありません。
けれども、スケッチにともかく集中していて、
頭の中が本当の空白状況になることはしばしばです。
Morpheusが入り込む
そんな時、私はMorpheusが、私の中に入り込んでいて、
ほとんど空白と空虚の狭間に自分が浮かんでいると、
後で悟るのです。
それから、私はボールペンスケッチに色鉛筆着彩をします。
これはもう夢中になるのです。黒と色彩にのめりこみます。
Morpheusの意のままになっているのかもしれません。
そして、「コレダ!」という瞬間で白日夢から目覚めます。
幻想・カオスから創造
おそらくこの状況・状態は「幻想」の中に自分がいるのだろうということです。
「幻想」あるいは「幻想論」をひとまず纏めたいと思いますが、
それは、すでに「幻想」の否定論になりそうな気がします。
つまり、「幻想」だけに、
「幻想は幻想の中で」、
「幻想には幻想だけを」、とも想っているのです。
幻想×幻想=白日夢=カオスだとするなら、
明快さも明確さも際だっているわけではありません。
パウル・クレーは、このことに浸りきっていたデザイナーだったのだろうと推測します。
幻想こそ、カオスならば、
そこから幽体離脱を果たしたとき、
「ある・かたち」に辿りついているのです。
私は、この瞬間こそ「創造」だと想っています。


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『資本主義からの逃走』
 「Morpheusの白日夢から」


   


     6月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

Morphe
昨日は、うろ覚えだったMorphesは間違いでした。
ひたすら、このブログは毎日の思いつきや思い込みをメモっていますので、
くれぐれもご海容ください。
そこで、
Morpheus; Morpheという人物の存在性に、
私の「幻視」あるいは「幻想」を重ねます。
むしろ、彼の存在、その発想を共有したいと考えるからです。
これは幻想です。しかし、妄想ではありません。
モルヒネ
モルヒネ」という麻薬があります。
まさに、その薬名の由来に関わっている人物です。
人物というより、登場人物と言っておくのが正しいでしょう。
ヘシオドスの「神統記」にはギリシア神話からの話があります。
Thanatos=タナトスに纏わる話です。
タナトスは「死」を司る人物(神)となっています。
この兄弟にSomnus=ソムヌス(Hypnos=ヒュプノス)がいます。
ソムヌスは「眠り」を司る人物(神)です。
そしてこの息子に、まさしく「眠り」の中でも、
白日夢
「白日夢」を担当?している息子がいるわけです。
この人物が、Morpheus; Morpheです。
「白日夢」だけに「日中もうつらうつらしている」のです。
この目覚めてもいない、と言って眠ったもいない状況から、
麻薬;モルヒネという呼称が生まれました。
さて、このタナトス、ソムヌス、モルペウスから、
ある幻想的な発想を引き出したのがゲーテでした。
1817年、彼は自費出版した書物というよりパンフレットがありました。
形態学序説
「Morphology Introduction」=「形態学序説」です。
このいわば幻想、あるいは、カオス的な状況から「形態」が生まれるという話は、
パウル・クレーの「造形思考」にまで繋がっているのではないかというのが、
私なりの解釈です。
私は、本来、「形態学序説」こそ、デザイン造形学の定本と考えてきました。
ところが、「形態学序説」は、医学領域で「形態発生学」、
あるいは「形態発生論」に伝統的な連続性を蓄積しています。
これは、「なぜ、内臓の形態が誕生してからある形態に至るのか」ということです。
私はむしろ、デザイン造形すなわち、
「形態造形」はゲーテの発想に大きなヒントがあると思い、
そんな発想論=白日夢的な中でぼんやりと、
観念的、概念的に浮かび上がってくる「形態」を当てはめたいと考えてきました。
前置きが長くなりましたが、
「資本主義」という「形態」から逃走して「どんな次形態」に入り込むべきなのかが、
このブログの考察メモ結果です。
「形態学序説」は「形態学」=Morphologyを提言してくれたのです。
私はあくまでもデザイナーという立場から、
Morphologyという背景を、あたかもMorpheusのように、
幻想から、確実な発想の持ち込みたいと考えている次第です。
私は、このブログの次の下敷きに「形態学序説」を置きます。


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