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『資本主義からの逃走』
「コミュニケーションとサービスを誤解した経営学」


   


     3月 19th, 2010  Posted 4:21 AM

Communication
コミュニケーションは、「お互いに分配し合う構造」です。
そして、サービスが宗教用語から変遷してきたこと、
それはとても重要だから前述しました。
とりわけ、ビジネスモデルには、この二つの言葉はキーワード。
さらにコンセプトになっています。

しかし、コミュニケーションを単なる「伝達」と片付け、
サービスを「奉仕」と訳して経済用語としたときから、
大きな混乱を看過してきたことは間違いありません。
まさに、コミュニケーションが大事だとか、
サービスに徹するというかけ声は「こだま」しているだけです。
お互いの分配構造は、何をどう納得しながら分配できるのか、
そのお互いの権利と義務のやりとりが善意は原点です。
コミュニケーションが大事というなら、
その性善説が前提となっているのかどうかが前提だと思います。
しかし、現代は性悪説がまかり通ることが当然という
そんな風潮があります。
Service
まして、そこにサービスが付着すると、
損得勘定にもコミュニケーションの分配構造が利己的傾向は、
格段に大きくなってしまうと私は不安です。
デザイナーゆえの「綺麗事」で言えば、
「伝達」+「奉仕」=利他主義への絶対的確信であり、
「伝達」+「奉仕」=自己犠牲だと断言もできます。
大損しても、利得は皆無でも、「善」であることへの勇気は、
コミュニケーションとサービスへの覚悟でなければなりません。

具体例を教育から求めてみます。
教育がサービス産業であるわけがないのです。
教育はコミュニケーションサービスです。
教育は、教える方が教わるという分配構造が強固な伝統行為。
教育はサービスコミュニケーションです。
教育は、次世代への奉仕であって、その奉仕が世代を連鎖系化。
経営学は介入不可能
この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。


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『資本主義からの逃走』
「ケータイはツールか、メディアか、
     それは使用者・所有者の人格が決定している」


   


     3月 18th, 2010  Posted 9:39 AM

Tool or Media
私はモノのデザインをしています。
モノを所有する、使用する、いづれもユーザーと呼びます。
たとえば、ポルシェという憧れの車があります。
ポルシェを所有している人は、
その人自身は、「使用観」だけで所有しているかもしれません。
これは、ポルシェが「ツール=移動する手段具」です。
しかし、いつかはあの車を「所有」したいという人にとっては、
ポルシェは「メディア=移動具よりも顕示性表現の媒体」です。
モノへの所有観を自己表現するとき、
そのモノは「メディア」になります。
しかし、
モノへの使用観をあるいは使用感覚を軸にする人にとって、
そのモノは「ツール」です。
もっともモノが、「ツールでありメディア」になるのは、
モノの「存在性」=オントロジーになっていくと思います。
私は、きわめて「所有観・所有感」にこだわっています。
それは、自分が選んで所有していることは、告白すれば、
モノで、自分の存在性をも強く演出していることです。
たとえば、
モノへのこだわり感覚は、「所有してなおかつ使用感覚」が、
「望ましくて、好ましい」=価値観が私的であってほしいのです。
私は、これまで携帯電話が自動車用からスタートしたときから、
この感覚を、自分に差し戻して、
自分とケータイとを、「ツール」なのか、「メディア」なのか、
徹底的に考え抜いてきました。
Mobile Phone as Media
結果、
明らかに、「ケータイ」は、「メディア」なのです。
無論ツールとしての機能と性能は最高であってほしいのです。
残念ながら、私自身が「私のために」社会システム、
すなわち、生産システムから流通システムに載せて、
「製品化」から「商品」にしたモノは皆無です。
とりわけ、デザイナーにはそのことを徹底して、
自問自答してほしいのです。
結論は、モノ、たとえばケータイ、
その「ツール」であるのか「メディア」であるのかは、
ユーザーの人格の投影であることは間違いありません。
ちなみに、現在、私が愛用しているのは、
いづれもホワイト色のiPhoneとBlack berryで、
メガネテンプルのカラー毎に合わせた、
それぞれカラーのHeadsetです。


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『資本主義からの逃走』
「ケータイの人称会話からのオントロジー」


   


     3月 17th, 2010  Posted 2:02 AM

Aristotle
最も会いたい人にプラトンとアリストテレスがいます。
二人とも膨大な言葉に「思考」を載せて残してもらった、
それが私の会いたい人という理由です。
プラトンは、「プラトンのオルゴール」という本と、
作品・展覧会インスタレーションが、
金沢21世紀現代美術館に、永久収蔵されました。
しかし、アリストテレスはまだまだ、私には未知です。
たとえば「メタ論」ということに限っても、
それは膨大も膨大な思考です。
無論、「形而上学」は多分生涯大きな連峰のようなものです。
会話の人称
さて、ケータイは発信・受信で「会話」のツールであり、
メディアであることは明白です。
ケータイでの「会話」には、一人称=私は交互に、
その交互さは二人称が入れ替わるということです。
だから、その「会話」には、一人称と二人称が交差します。
ところが、その二人の会話に、
「ところでさぁ、あいつのことなんだけど・・・」というのは、
三人称が入ってくるわけです。
「会話」が膨らんでくる、と言ってもいいでしょう。
その会話内容には、次のことが起こっているのです。
Inclusive & Exclusive
包括的な話題=InclusiveなContentsがケータイ会話で、
コミュニケーションされている状況です。
では、そのケータイ会話を取り囲んでいるのは、
除外的な話題=Exclusiveなことです。
一人称・二人称・三人称を包括していない除外性、
あるいは、そうした会話に独占されていない状況があります。
私は、このInclusive性とExclusive性の間、
その介在的な存在を「ケータイ」というモノとするなら、
「存在」そのモノを「メタ=本質性と事実性」には、
明らかに「人称会話」のモノという「存在論」が浮かんできます。
私は、ケータイを「会話」=「人称」=「存在」で、
その思考学域に「オントロジー」を配置してみたいのです。
その中核存在=ケータイの存在論から、
ケータイデザインを発想するということはまだ試されていません。


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『資本主義からの逃走』
 「ケータイを焦点化するエスノメソドロジー」


   


     3月 16th, 2010  Posted 1:56 AM

Ethnomethodology
「エスノメソドロジー」という学域を知ってから、
すでにどのくらいでしょうか。
人間が無自覚でも、認知と行為の接点ということを、
ミクロな社会学という観点は、デザインサーヴェイでしょう。
私はそうした接点を「Point of Contact 」と呼びます。
しかも、認知と行為を「会話」という関係論で、
ということは、まさに、Point of Contact=ケータイです。
「会話」は確実に、
人間関係=社会学的な存在関係を決定しています。
そのツールであり、メディアでもあるケータイを定義可能です。
現代、「無くてはならないモノ」がケータイであり、
「無くても一向に構わないモノ」もケータイといわれています。
つまり、日常生活での、関心と無関心との両面性あるモノです。
しかし、すでに現代人にとって、ケータイの存在は、
明らかに、自分の人間関係はもちろんですが、
PC機能も統合化されて、
自分の能力の支援すら果たしてくれるモノとなってきました。

● 実在性
● 機能性
● 構造性
● 象徴性

これは、ケータイが日常生活に登場し「実在性」となり、
さらに「機能性」の拡大が始まりました。
今ではすっかり、認知と行為の「構造性」が、
Smart Phoneに進化していると考えることができます。
今では、「どこのケータイを使っているか」という、
その使用者の「象徴性」に至ろうとしているモノなのです。
作法性
それだけに、モノとしての形態から、
所有性と使用性への、認知と行為、すなわち「作法性」は、
現代の民俗的意味性、「エスノメソドロジー」という社会学、
その代表的な対象になってきています。
したがって、ケータイの形態という意味性は重大です。


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『資本主義からの逃走』
 「Smart Phoneもどうしてデザイン発想は停止するのか」


   


     3月 15th, 2010  Posted 9:11 AM

「ケータイ国際フォーラム」での制作を20分、
プレゼ画面づくりで過去に関わってきたケータイ、
その資料をほとんど見直してみました。
携帯電話は、赤坂でフリーになった時に自動車電話から、
私の体験はスタートしました。
肩からかけるあの大きかった頃、
米国でモトローラを手に入れる苦労やベンツ仕様の
最も高価だったケータイは、SLKと同じ色彩でした。
どれだけのケータイを保持してきたことでしょうか。
ケータイとデジタルペンとヘッドセットも全て体験。

Star Trek

そしてなんと言っても、「スタートレック」の
Communicator・60年代にこの発想はありました。
そのガジェット玩具も手に入れてコレクションしました。
大手通信企業で1年、人間工学的な調査で、
最適文字レイアウトを決定しました。
それからFOMAの企画に加わりましたが、
私の提案は当時早すぎたようでした。

ある企業トップから、アドバンスではまったく、
入力キートップを無くしたインプットを提案しました。
しかし、それは幻です。
すでに私のデザイン意図は、SmartPhoneでは駄目だ、
という思考に至っています。

ケータイのContentsは、ContextとSyntaxへと
その進化を遂げるべきでしょう。
ところが、どうしてiPhoneBlackberryの発想に
デザイナーは拘束と呪縛されています。
それは、外観形態とその「作法」と「会話」、
そして、「存在」を、

Ethnomethodology
Ontology

根本的に「エソノメソドロジー」「オントロジー」
徹底して近接しなければならないのです。


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『資本主義からの逃走』
 「NetworkというWebにある価値と心地」


   


     3月 14th, 2010  Posted 11:30 AM

53回目・2009年のベネチア・ビエンナーレに登場した作品。
トーマス・サラセーノは、地球を次のように表現しました。


“Galaxies forming along filaments,
  like droplets along the strands of a spider’s web.” by Tomas Saraceno

この作品は、現代の地球をもっとも具現的に表現しています。
私のこの作品の印象からデザイナーとしての直感と予感が、
今なお次々と、PC ・Wi-Fi ・SmartPhone ・Cloudなどの
一般的なNetwork社会の世界観へ、
次のようなデザイン対象への背景思考を広げてくれています。
私のデザイン対象は、ハードであり、ソフトであり、
そのデザイン成果には、価値感と心地感を「最適解」として、
常に意識化していなければなりません。
問題=Problemへの解答=Solutionは形態に集約させます。
しかし、成果であるべき条件を設定します。
私は、その成果に、「コンテンツ」が「コンテクスト」に、
「コンテクスト」が「シンタックス」へ確実にしていく進化を
デザインが成し遂げてほしいと思っています。

私たちがコンピューターを手に入れてから、
日常の頭脳活動のツールとして、あるいはメディアとして、
「対話性」=インターラクション性の使い勝手にこだわることが
大きなビジネスとしても成立しました。
このビジネス・産業・資本性は、
すでに「資本論」や「経済論」・「経営論」をも変革しました。
おそらく、これからの変貌についても予知・予測すら、
あらたな資本になっています。
しかし、その資本の創出・運営・監理・維持・制度は全く
未定であり、不明だと言ってもいいでしょう。
だからこそ、デザイン、デザイン職能の役割を組み込みます。

これは私が主張する「デザイン領域の拡大」の一つです。
その学理的背景に「エソノメソドロジー」「オントロジー」を、
配置しています。
これはとりあえず、「経営・経済」の論理では、
決して語ることは不可能だとさえ思っています。
なぜなら、「エソノメソドロジー」も「オントロジー」も、
webやNetwork上での「会話」という作法や「存在」を
人間に対して差し向けてさらに「問題」を与えてくるのです。
その「価値」に対決する「心地」は同値でなければならない、
というのが、私がデザイナーとしての姿勢・態度です。


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