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Archive for 6月, 2010


『資本主義からの逃走』
  「失われる倫理への治安はデザインが問題解決をする」


   


     6月 14th, 2010  Posted 1:31 AM

警察大学校、敬礼の音
敬礼で始まり、敬礼で終わった私の講演。
これはわが父への「レクイエム」であった。
デザインは、「唯一」の実務・手法、だがら学術になる。
その可能性を信じて「生きてきた」。
そろそろ、私にはリタイアの時期が見えてきた。
しかし、やり残していることが膨大だ。
地方の警察官に生涯を捧げた父は、
日華事変から大東亜戦争、そしてインドシナ解放戦線で終戦。
焼け野原、ふるさと福井に帰還し、
選ばざるを得なかった職業が「警察官」だった。
捜査・刑事一筋で、
最後は、福井県警察本部刑事部長・警視正で退官した。
息子は、デザイナーとなり、
「警察大学校」に「警察」と「デザイン」の関係を持ち込んだ。
「警察」、この言葉に歴史的伝統的に込められてきた意味は、
いづれ紹介しなければばらない。
倫理性が崩壊していくのは、二つである。
「政治」の混迷と「経済不景気」。
その倫理性は「治安」されるべきであり、
この「治安」に「デザイン」は不可欠である。
私に残された時間に、この具現化を果たしたい。
そして、次世代デザイナーに引き継ぎたいと願っている。
敬礼、その整然とした「音」が私の皮膚にぶつかってきた。
この感覚を忘れることはないだろう。


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6月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 13th, 2010  Posted 12:26 PM

6月13日 赤口(甲午)

若者たちよ、
君たちは彼らが生んだ債務を
背負わされるのだ。

リーダーシップを身につけるよう
錬磨してほしい。
ワールドカップで、
全世界が浮き足だっているときに、
世界の勢力分布の地図が塗り替えられている。

『デザインは言語道断』勢力


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『資本主義からの逃走』
   「『形態学序説』と『資本論』は西洋的論理の結語論」


   


     6月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

結語・結論の論理
人間が「自然支配」を念頭に置いたのは、西洋的論理観に顕著です。
ゲーテの「形態学序説」は、その書き出しから、その論理観が明快です。
自然を支配しようとしつつも、その自然を熟知しようとすればするほど、
人間の被弱さや脆弱さを認識させられる、その結論を書いています。
マルクスも同様に、
人間の支配構造の変質化、
その起因性をかかげながら、その結論の論理でした。
大は小に、小は大へ
私は、「ガリバー旅行記」の作者,
ジョナサン・スウィフトの次の言葉が念頭にあります。
「象は実物よりも小さく描かれ
蟻は実物よりも大きく描かれる」

この指摘は、当然です。
象を実物大で描くには相当に大きな用紙が必要です。
だから、普通の紙に描けば輪郭線で表し詳細まで描くことは困難です。
蟻は小さいので、大きく描きますが、
実物が小さいためにその詳細を観察して描くことはむずかしいということです。
そこで、論理で象でも蟻でも熟知するには、
概念と観念での描写はその成果として、
象も蟻も捉え直すことができます。
これはゲーテも同じ事を言っています。
なぜなら、その論理によって理解をしようという自分、
つまり人間存在を自問自答する試みが、
いわば歴史的伝統的な定本になってきたのでしょう。
したがって、もう一度次の詩を読み直しておきます。

長年、精神はよろこばしくも、
自然がいかに生を創造するのか、
探究し、知ろうと
熱心に努力してきた。
多様に自己を啓示するのは、
永遠の一者。
大きなものは小さく、小さなものは大きい。
すべて独自の仕方で。
たえず変化しながら自己を保持する。
近くて遠い、遠くて近い、
形成し、変化しながら。
私は驚嘆して眺めるばかりだ。

        ゲーテ・『紙の世界・「パラパーゼ」』

私もここで、ゲーテを引用するのは、
「資本主義からの逃走」という論理を打ち立てようというよりは、
むしろ、現代に至るまでの基盤思想、経済論理に対するデザインという手法が、
未来を決定していく位置を確保したいと考えています。


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6月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 12th, 2010  Posted 12:26 PM

6月12日 大安(癸巳)

自分を社会に対峙させるという
覚悟ある態度=姿勢を毅然と確保して、
生き延びてやりたいと考えている。

その姿勢を貫く確信がなければ、
自分の中に潜んでいる
「何が美しいモノなのかを見極めて、
そのモノの美しさを表現することで
社会と向かい合う姿勢」を
見いだすことはできないだろう。

『デザインは言語道断』姿勢


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『資本主義からの逃走』
「# 25周年の経験なれど納得できないアスリートグラス #」


   


     6月 12th, 2010  Posted 2:01 AM

メガネデザイン25周年
メガネフレームのデザインに関わってきて、25年になります。
今年は、クライアントであるメーカーが、
「25周年記念」として復刻番や新作を発表してもらってます。
私のメガネフレームは、大勢の愛好者が支援していただいていて幸運です。
そして、私のブランドのみに、
大勝負をかけていただいている専門ショップもあります。
もうすっかりと、メガネに関わるほとんどの知識は身についていると自負しています。
しかし、メガネフレームは
「明らかにファッションであり、さらに、流行現象の中で翻弄される商品」なのです。

必需品だが
やがて、地球上の人口が70億人になります。
おそらく、人口統計学的な予測よりも早く、70億人に達するでしょう。
引き替え、わが国の人口は「少子化」とともに激減しています。
ともかく、35億人=メガネが不要です。
そして35億人=メガネは必需品です。
現在の調査では、12億人、メガネを所有していますが、
23億人はメガネを持っていません。
この23億人向けのメガネは根本からの「革新」をめざして開発を進めています。

アスリート用サングラス
ところで、メガネフレームには、「スポーツ向け」というのがあります。
プロのアスリートたちは決まって、
このスタイリングデザインをかけています。
しかし、このメガネフレームほど、
どんな人間、人種を限ってみても、
「似合っている」と思ったシーンはまったくありません。
もし、「まあまあ」というのは、スピードスケートや、
サンバイザーなどで、ヘアースタイルというか頭髪を隠してしまえば、
それなりのスタイルに「見える」だけです。
翻って言えば、スポーツ、アスリート、ゴルフなどにこのスタイリングを、
私に言わせれば強引に「商品展開」した企業のオリジナリティは評価できます。
25年の経験から、私は次の三つの方向をともかく道筋をつけたいと考えています。

メガネを必要とする人へのまったく「革新的メガネ」の開発
廉価なメガネへの「生体工学と人間工学」をデザインで導入
あの醜いアスリートメガネの「スタイリング一新」

果たして、ここまでやり切れるかと考えるとき、
私なりの経験と予測、
さらに造形シェイプ、
その創出方法は教育しておきたいということです。


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6月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:24 PM

6月11日 友引(壬辰)

議論の場で
言葉による思考ができるということは、
社会がこうあってほしいという願望を
それなりに意識的に抱いているあかしであり、
安心できる。

『デザインは言語道断』姿勢


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『資本主義からの逃走』
    「共同幻想=グランドデザインは統合された妄想」


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。


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6月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 10th, 2010  Posted 12:22 PM

6月10日 先勝(辛卯)

容貌というのは、顔かたちである。
風姿というのは身振り、パフォーマンス性だ。

『デザインは言語道断』容姿


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『資本主義からの逃走』
 「幻想には常に憑依してくる妄想は整理するべし」


   


     6月 10th, 2010  Posted 12:50 AM

幻想に憑依する妄想
幻想である夢や希望は、少なからず、理想主義です。
だから、デザインに幻想は不可欠だと主張しています。
しかし、幻想の理想主義は「とてもか細い=幻という意味」のごとくです。
したがって、このか細さは憑依されるのです。
まさしく幻想が妄想となる傾向が張り付いています。
妄想の分類
妄想をいくつかに分類すると、
自分では幻想と思い込んでいるけれども、
本当は妄想だったという「客観的な認識」よって、
訂正を柔軟に可能にしておくことが肝要かつ寛容だと考えてきました。
● 関係妄想
● 被害妄想
■ 被毒妄想
■ 追跡妄想
■ 注査妄想
■ 嫉妬妄想
● 誇大妄想
■ 血統妄想
■ 発明妄想
■ 心気妄想
■ 罪業妄想
■ 微少妄想
● 憑依妄想
このように妄想は整理することができます。
この整理感覚を客観性にしておくことで、幻想と妄想の線引きをすることが、
「訂正の可能性」を確認できる「自分」、
その自己認識で解放することができるのだと私は思ってきました。
「瞑想」
この自己認識を図る手法に「瞑想」=座禅などが知恵だったのだと納得しています。
幻想と瞑想で、妄想かどうかを確かめることこそ、
資本論への肯定が資本主義の否定という妄想ではなく、
さらにそれなら、
資本主義から逃走あるいは解放されるという幻想に、
実は分類されている妄想に入り込んでいること、
そのことを最も重要に客観視しておくべきだと考えています。


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6月09日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 9th, 2010  Posted 12:42 PM

6月09日 先負(乙酉)

資本主義に裏付けられた民主主義も
止揚しなければならない。

その兆候は、
インフォメーション・
テクノロジーに対する
人間の殊勝さに
表れているのではないかと考える。

『デザインは言語道断』奇特


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