kazuo kawasaki's official blog

Archive for 7月, 2010


『資本主義からの逃走』
    「表現としてのデザイン、その構造」


   


     7月 27th, 2010  Posted 12:51 AM

構造=関係
このところのブログでは、「構造」という言葉を私は使いすぎています。
しかし、それには私の重大な思い入れがあります。
デザイナーとして、本題の資本主義、その構造を見詰めているからです。
構造は、思想的な「構造主義」や、
学術的な領域それぞれでの術語定義がありますが、
私は単純明快に、いわゆる国語的な語彙としては意味を二つの見方だと考えます。

● 全体の仕組みから、その全体性を要素づけている関係
● 様々な要素が、全体あるいは総体を仕組んでいる関係

いづれにも「関係」という語彙がありますから、
構造=関係、関係=構造でもあるという見方です。
そこで、資本主義、特にマルクスによる批判から現代世界の構造あるいは関係に、
全体性となるデザイン、あるいはデザインという総体性に、
「表現としてのデザイン」を再配置する動機、意志、態度、方法、手段、結果、効果、成果が、
「逃走の場」になるかもしれない。
いや必ず「場」になる、その構造こそ、「デザイン表現」だと思っています。
私はデザイナーになるための「表現」、その技法、技術ということを身体化してきました。
「表現」に対する精神性とか心理性とかには、まったく無関係です。
ともかく「デザイン表現」とは「視覚化できる」技法・技術です、
それはテクニックと言った方がいいかもしれません。
スケッチ=資本
ずばり、テクニックというのは「スケッチ」です。
デザインスケッチということは、「問題解決イメージの視覚化された二次元表現」です。
資本主義構造に当てはめるなら、
そのスケッチが「資本」、
または「貨幣的なモノ」などに当てはまるでしょう。
デザインスケッチをひとまず「資本」とするなら、
この「資本」は、問題解決の構造を明確に「視覚化」できるということです。
そう言う意味で、私は「資本」=デザインスケッチ=「表現としてのデザイン」こそ、
新たな資本主義を必要とし、
その必要性こそ「逃走する場」だと確信にまで至るのです。


目次を見る

7月26日Staff Blog


   


     7月 26th, 2010  Posted 3:49 PM

7月26日

生田幸士先生
(東京大学大学院 システム情報学 教授)から
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)
紹介していただき
名古屋大学での講義スタート!

講義タイトル「知財権としてのデザイン」


目次を見る

7月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 26th, 2010  Posted 11:28 AM

7月26日 友引(丁丑)

「カッコいい」という表現は日常語である。

本来は、「恰好」というのが正確な漢字表現だ。
「恰」は、あたかも、とか、ちょうどいい、
という意味を持っている。

『デザインは言語道断』格好


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「理想主義は『全体価値』によって創成する」


   


     7月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

デザインは、その本質において理想主義です。
理想主義であるかぎり、
理想主義を意味づけることと、意味づけられた理想主義は、
「付加価値」で成し遂げられるものだろうかということを考えます。
全体に対して、属性的な付加価値づくりがデザインの役割だとするなら、
それは理想主義を叶えるものとは言い難いでしょう。
もし付加価値で、現実主義的なモノ・コトへのデザイン効果が、
理想主義へ止揚あるいは転換することがありうるだろうかということになります。
したがって私はデザイン営為によって、
理想主義の構築、その可能性があるということを自らもインプリンティングしてきました。
特に、「商品デザイン」=利益価値に直結しているモノは、
その商品の存在が社会的な理想主義を具現化もしくは支援化するものと考えています。
商品の存在は生産と消費の構造の中で、
金銭的価値=profitと社会還元的価値=benefitを生み出します。
私は、そのためにこそ社会建設的な「理想実現が目論まれた」=デザイン、
すなわち理想主義の具体的手法を積極的に提案と具体化をしてきました。
あらためて、「全体価値」を想像し創造する営為をデザインと定義しておきます。

もはや、抱えきれないほど山積している問題群のある現実社会で、
理想主義をめざすことは綺麗事だと批判されるでしょう。
それでも、人は「生きる日常」は、今日より明日がさらに幸運で幸福であることを願います。
この綺麗事は正当です。
この順当さと正しい率直さこそ、より少ない簡潔さがより多くを授けてもらえるのです。
これをless is moreと解釈しておきます。
デザインは理想主義を実現する唯一の手法だと考えています。
理想主義は「全体価値」の創成によってのみ、
私たちは手に入れることができると私は判断しています。


目次を見る

7月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 25th, 2010  Posted 9:00 AM

7月25日 先勝(丙子)

私は、
デザインにおける饒舌さ=過飾は認めない。

装飾とはデコレーションであって、
決してデザインではないからである。

『デザインは言語道断』品格


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「『付加するデザイン』は、デコラティブデルージョン」


   


     7月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

デコレーション誤解
デザインの勘違いを40年間膨大に観てきました。
私は、デザインとデコレーションとを分別しています。
また、「これ、本当にデザインかな?」と思っていた人に、
「あれはデコレーションです」と言うと、
「なるほど!」と理解していただける人は確実に増えてきました。
デザインとデコレーションとは、なかなか区別できない人が多いのは、
「デザイン」という言葉は洋装が日本に入ってきた戦後であり、
同時期には「図案」や「装飾」がデザインと邦訳されたことに起因しています。
ファッションという言葉も同様です。
そして、必ずしもそれは間違いだと断定できない意味もあります。
デザインはファッション、というのも否定的な意味もあり、肯定的な意味もあります。
過飾的妄想
したがって、私自身は、デザインとデコレーションについては、
装飾そのものを否定するわけではなくて、
問題解決というデザインの本質に装飾が必然である場合は、これは容認しています。
しかし、加飾=装飾を施すこと、過飾=加飾いっぱいにすることは
華燭を越えた装飾し過ぎていること、
すなわち「不必要で実用性も無く、
商品の存在性を事大主義的に誇張すること」をデコラティブ=decorativeとみています。
ところが、このデコラティブであることを妄想的=delusionにまで拡大していることを、
「デザイン」ということは、目に余ります。
確実に「デザイン」の必要性が訴求される時代です。
だから、加飾・過飾・装飾が虚飾化された過飾的妄想=decorative delusionを
デザインというのは、見過ごすことはできません。
これを直感的に判断して否定する言葉が、
「simple is best」というパロール=会話文節も正しい見識ではありません。
デザイン系を有さない大学や行政などには、この認識が蔓延しています。
デザイナーとしては「視覚的・認識的に痛い」とすら感じる
ポスターやパンフレットがあふれています。
これらは「付加」されたデザインですが、デザインの妄想にすぎません。
デザインが妄想の中にある人は増加しています。
特に、経営者、技術者や社会学者や経営評論家が「デザイン」を語るとき、
この過飾的妄想=デザインとなると困惑します。
デザイン行政の担当者で、
「デザインを見下して、あたかもデザインの定義」として語られるときは、
見過ごすことは私には不可能です。
デザイン価値の美学性
「過飾的妄想」が社会に存在していることは、
ある種のサブカルチャーだということも私は理解することができます。
これは「一過性的」であって、連続している騒音的なことですが、
文化の一面であることも否めません。
文化は確かに玉石混淆です。
が、デザインの純粋性にのみ、「デザイン価値の美学性」を私は求めたいと考えています。
私がデザイナーとして育成したいのは、less is moreをしっかりと確認できる資質です。


目次を見る

7月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 24th, 2010  Posted 9:00 AM

7月24日 赤口(乙亥)

ここで一つ
問題提起をしておかなければならない。

それは、謙譲的で寡黙泰然とし、
けっして饒舌であってはならないということが、
現代的な品格の定義たり得るかという点である。

『デザインは言語道断』品格


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「『付加されているデザイン』は、デコレーション」


   


     7月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

見過ごすデザイン?
正直、これがデザインされているのだろうか、
というモノが本当に氾濫し始めています。
私はすでに60歳を過ぎてからは、「見過ごすように」しています。
当然ながら気持ちは分断されます。
「明確に言うべきだ、いや見過ごそう」という二分化が内省で起こっています。
ただし、デザイン教育の現場で自分の教え子には、
「ここがデザインではない。デザインという大誤解がある」という理由を
説明し指導しておきます。
それは次世代には伝えるべきだと思うからです。
デザインはどうしても「感覚」で捉えられます。
したがって、私も価値感の多様性については、
「あってしかるべき」態度は正確に保持しています。
しかし、「デザイン価値がたとえ付加価値として目指されてことであっても」、
デザインの本質が問題解決や、新たな文化構築ではなくて、
破壊しようとしていることや、
迎合がみえみえのモノは、
デザインではなくてデコレーションという一言で片付けることにしています。
デフレスパイラルで、デコレーションをデザインと呼ぶモノが増殖しています。
でも、デコレーションといっても、
いわゆる加飾の極致である「絢爛豪華」なモノは、充分に受け入れます。
大誤解
さて、デザインの大誤解は二つあります。

▼ Simple is bestとless is moreのはきちがい
▼ Appropriation的が現代デザインだという非見識

この二つを、最近は見過ごすようにしています。
しかし、私が尊敬するデザイン界・学識界・美術界の先生方に、
自分はこうしたモノはデザインでは無いと考えますが、という質問をすれば、
必ずこうした大先輩も同じように「見過ごし」ておられます。
私もそろそろ、信頼する学生や次世代デザイナーには「聞かれたら正確に解答」する、
そんな態勢と態度になりたいと考えるわけです。
それでも、そんなことが出来ない自分がやはり存在しているようですから、
これを「実作デザイン」で具現化創造に、と意気込んでいます。


目次を見る

7月23日Staff Blog


   


     7月 23rd, 2010  Posted 10:48 PM

7月23日

福井駅のお土産屋さんで商品をチェックする
BOSS(川崎和男, Kazuo Kawasaki)。

少しの空き時間でも
様々な情報を仕入れています。


目次を見る

7月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 23rd, 2010  Posted 4:08 PM

7月23日 大安(甲戌)

モノの存在、すなわちモノのデザインでは、
品格とか品位というのがとても重大になる。
特に、身につけるモノには
品位や品格があってしかるべきだ。

私は、
これはまず清潔さから始まると考えている。

『デザインは言語道断』品格


目次を見る