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Archive for 7月, 2010


『資本主義からの逃走』
   「資本の概念、その変貌と変質を受けとめる感覚」


   


     7月 12th, 2010  Posted 12:00 AM

「土地・労働・資本」
資本主義への私の見方、と言ってこのブログを書き続けています。
肝心の「資本」は、当然ながら経済的な用語ですから、
その源、特にマルクス的には、「土地・労働・資本」が一組として扱われてきました。
それが、経済と政治とある思想で管理されれば、
なおさら、この一組の言葉はそれぞれに概念をもち、
この概念に対して、「土地・労働者・資本家」という国家的な政治形式での管理主体の検分が、
政治と経済と軍事における国際的な関係論となり、
そのまま「現代史」として、
私たちそれぞれの「日常と生き様」を支配制御してきたものだと私は考えてきました。
私は、このある意味では資本主義での三大要素の、
「土地・労働者・資本家」のどこに所属し、
私はその属性をもって生きているのかということになります。
明らかに、「労働者」という立場で「労働」、
そのプロセスで「生産」と「消費」に関わっていることになります。
しかし、この三大要素の中で「資本」は、
資本主義経済構造が極度の変換を起こしています。
私は、その根本、要素の要素を「かたち」、
その「かち」とそれらに対する私たちの「感覚」を常に意識して
「労働=職能」=デザイナーに結びつけて思慮=配慮と熟慮をして思索と思考にしています。
私の提示は、「新たな資本」・「何が資本なのだろうか」・「資本のかたち」を追い求め、
その「価値」でも「美しいという感覚受容の価値」にたどり着きたいと考えています。
私は、もはや土地は地球そのものであり、
分断されたり分割された国家や個人的な資本と同列な資産だとは考えていません。
労働者と資本家=被支配者と支配者、この構造が世界観のベースだとも考えてはいません。
「資本主義」のその原点でのマルクスから、このブログを書き起こしてきましたが、
むしろ、「物質・エネルギー・情報」が核心であって、
それを取り囲んでいる世界観と歴史観にデザインを差し向けたいということです。
簡単に言い切ってしまえば、

●「美しい物質」

●「美しいエネルギー」

●「美しい情報」

こうしたことが現在から今後の「資本」だから、
その「資本の場」に「逃走して」いく主義主張を求めています。
「資本の場」への近傍化を探し求めているのだと思ってください。
結局、
「土地」に興味があるわけでもなく。
「労働」は「働く行為」ですが、
何も「資本家」、あるいは彼らをあくまでも擁護してきた「政治形式」に、
私は自分のこれまで「生きてきた=死んでいく」何も魅力は感じていません。
むしろ、まだ「美しい」というほどではなくても、
それこそ「カッコいい」とか「かわいい」とかいう「資本」は、
生産・消費の図式をはみ出していることに、私の「感覚」が反応しているからです。
「逃走の場」は、資本の変貌と変質の拠り所への近傍するベクトル、
その作用点・方向・大きさに有るのでしょう。


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7月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 11th, 2010  Posted 9:00 AM

7月11日 仏滅(壬戌)

ネット上の物品は
「情報化」された「品物」である。
「物品」ということばはなくなっていくだろう。

そして、これからの価値ある物は、
「品」ある情報にくるまれた
新たなモノの世界を形成していくに違いない。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
  「生と死をインクルーシブする資本のデザイン」


   


     7月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

イメージの荒野
もし、「か」=幽かな儚さ(かすかなはかなさ)が、
「ち」=知をインクルーシブしていたとします。
それは、知という揺るぎない顕在性を非在的にするベクトルが働いているのだから、
とても「大切で大事な尺度感」を与えています。
この尺度感を「価値」という語彙として、
語彙内容の意味性を制度的な用語にしてきたのでしょう。
とても広大無辺なイメージの荒野に、
その「価値」なる資本は何なんだろう、
あるいは「資本」という価値は?ということに戻ります。
本題の「資本主義からの逃走」を試みなければならないからです。

イメージの荒野と呼ぶのは、
私がデザイナーとしての職能経験とこれからの職能義務を熟考するためです。
さて、私は1949年生まれですから、
多分、いや絶対に2049年まで「生」があるとは考えられません。
2049年には100歳ですから、
もし「生」あっても、認知症になっているのは「悲しい」ことになります。
でも、ワイフとはいつまでも一緒にいたいと想うので、
あらためて「生」と「死」の「哀しみ」を携えていることを噛みしめます。
さらに日常携えているのは、「生」の証である私の「社会的な生産性」です。
とりもなおさず、これは「デザインしていく資本」だと考えるわけです。
しかも、デザイン生産された資本には、社会的な価値が求められています。
ただし、私は、
その資本価値をこれまでの「資本主義」的評価からは逸脱、
あるいは逃走してしまおうと提案しています。
「インクルーシブ・デザイン」を提示しました。
一人称・二人称・三人称
一人称である私が、まず二人称はワイフでしょう。
私はワイフのために、私のデザイン生産技術やその成果、
すなわち「価値」を彼女に捧げるのです。
そして、彼女が心から満足してくれたなら、それは私の「慈愛」です。
そうしてこそ、次に、三人称である人々にも
「慈愛」と「価値」の分配を試みたいということになります。
証と正義=資本価値
この過程こそ、「私が生きている証」であり、
それは「死を受け入れるための正義」なのでしょう。
証と正義を表現している「資本」を見つけ出さなければならない。
これが、あと5年以内に、願わくば10年以内に、
決して2049年までは待てない事態に来ていることだけは確かです。
生の証、死を受け入れる正義、
この二つをインクルーシブした資本の価値に、
私のデザインが向かえる時間に、限界が見えています。
これを、あらためて「インクルーシブ・デザイン」のもう一つの定義としておきます。


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7月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 10th, 2010  Posted 8:50 PM

7月10日 先負(辛酉)

単にモノをデザインするだけでは、
デザイナーの想像力は
時代に全く適応しないのだ。

コンピューターを「機器」として、
「物品」として、あるいは
「品物」として見てみる時期に来ている。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
  「非在の顕在化が『価値』となるという私の解釈」


   


     7月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

「か」・「ち」
私は、「かたち」の存在を常に職能として意識してきました。
それは生きてきたこれまでと重層しています。
直裁的には、
デザインの大きな表現形式としての「造形デザインの結果」=「かたち」での問題解決でした。
そして、「かたち」を、控えめな「つつましい質」だと理解していることを披露しました。
非在化している「質」を「かたち」とまで断言しました。
となれば、一応「かち=価値」をも、「か」と「ち」で、整理をしておきます。
二つ、私の認識をメモとして残します。
●「か」=ひ弱で、幽かな儚さが、
「ち」を決定づけているという語彙的認識

この「ち」は、知・質・致・治・置・智などへの
「儚さを強調」することで、その「大切さと大事さ」を示唆しているというのが、
私なりの解釈です。
●「価値」とは、望ましさと好ましさの感覚論的認識
これは明らかに、経済経営用語として、金銭的価値=Profitと利得的価値=Benefit、
いわゆる利益配分の尺度観という制度用語だと思います。

そして、この二つ以外はまだ、解釈と解説ができるまでには至っていませんから、
つつましく、控えておきます。
したがって、「つつましさ」の設計価値と価値設計をデザインしていく際、
すでに「コンセプト的に価値基準の考え方を再考しようということになります。
話は、私の思考回路そのままゆえに、
読者諸兄にはまったく「つつましい」表現になっていることは許容して受け留めてください。
要は、「価値」の「か」と「ち」、
この見方の一つのメモとして受け取っていただければと考えています。
「か」という非在性が接頭語的に付加されることで、
その非在性の儚さを「大事にする」という反意義の顕在性を浮かび上がらせる、
というのが私の語彙としての「価値」の意味解釈です。


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7月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 9th, 2010  Posted 10:52 AM

7月9日 友引(庚申)

「物品」であるはずの
CD-ROMやDVDが、
「物品」とは呼べないモノと化し、
それをメディアと呼ぶ時代が訪れている。

「物」と「文」が
一対を成す時代は終わってしまった。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
   「『か』にひそんでいる非在している・つつましさ」


   


     7月 9th, 2010  Posted 12:00 AM

形態論
「か・かた・かたち」は、著名な建築家の「形態論」です。
学生時代に、この論理を知って以来、
私は、デザインする「かたち」への手続き・思考の構造に、
この論理を率直に受け入れることで、どれだけ助けられたことでしょうか。
やがて、フリーになり、デザイン対象が拡大するとともに、
特に、インダストリアルデザイン・プロダクトデザインにおいては、
自らもデザイン対象の拡大をめざしてきました。
今なお、「デザインが、なぜそこまで?」と言われたりもしています。
しかし、「デザイン」が一つは、「形態創出」で問題解決を図れるというある種の信念は、
「か・かた・かたち」論を再度、
自分で論理を明確にしようと取り組み始めました。
一つは、日本の伝統工芸産地での職人さんたちから教えられたことがあったこと。
もう一つは、1985年頃に「光造形システム」に出会ったこと。
この二つでした。
もちろん、それまでに東芝で経験したオーディオで、音響生理学や回路、
オーディオと音楽はじめ、地場産業の実情、中小企業の技術の格差などの経験はあります。
こうした経験の中で「かたち論」を醸成してきました。
私の中で、「か・かた・たち・かち・かたち」であり、
「か」
さらに詳細に、「か」・「た」・「ち」という一文字一文字を分解していったことが、
今日まで連続していることは確かです。
「ち」については、chiとして海外で日本語の意味性を語るのに最も明快であり、
エスノメソドロジーから記号論的思考を支えてくれています。
「た」については、今回は省略しますが、これも奥深い意味があります。
さて、「か」というこの表音性と表意性に注目をしなければなりません。
具体的には、「か細い」という言葉が端的です。
「細い」という感覚をさらに「か」が付着することで、
「細さ」の感覚が、より細く、より弱さある細さを意味しています。
「蚊」という生物の存在は、たった一文字です。
香・華・歌などにも、「か」という発音と意味があります。
発音も、弱く、意味そのものでは、次の言葉があります。
化・可・仮・加・価などにもその壊れそうな儚さまでの意味が、
それこそ、インクルーシブされているようです。
発音においても意味の付加性についても「か細い」感覚があります。
私は、「質=たち」に付着あるいは付加されている「か弱さ」が
か+たち=かたち、という解釈を自分に取り込んでいます。
つまり、「質」のか細さやか弱さをも統合している構造体だと考えるわけです。
「質」という確実さを感覚に、訴求するときには、控えめさがあると思います。
非在のための「か」
なんといっても、「かたち」という形は存在していません。
「質」がいくら存在性が強くて、明確な認識を与えていても、
「かたち」には、「つつましさ」が当然、付着していたものと思っています。
もし、モノの形態=モノのかたちを簡素で簡潔であろうとするなら、
「かたち」の存在というのは、控えめな、「つつましい質」だと理解するのです。
私は、これを非在している「質」が「かたち」だという具合に、
言い聞かせることが最近は増えてきたと思っています。


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7月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 8th, 2010  Posted 10:00 AM

7月8日 先勝(己未)

「物」と対峙する概念が「文」である。

この相互関係は、
私がデザインについて語る際に
「かたち=物」と
「ことば=文」を
相対化する行為と一致している。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
   「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃」


   


     7月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

産地で知った動詞
「包む」ことの意味を知ったのは、ふるさと福井。
越前和紙の産地に関わったことでした。
東京でのデザイン活動に「負けた」という想いと、
車椅子生活でどうやって「生きていく」のかという時に、
出会った言葉がありました。
「切る」・「包む」・「打つ」・「漉く」・「磨く」・「塗る」など、
すべてが伝統工芸産地に入って行った時の動詞でした。
こうした動詞から形容詞をMac関連雑誌に連載していました。
「デザインの極道論」などという物騒なタイトルで出版もしました。
この動詞を形容詞にしていく、これが「直感」でした。
直感から公案
私の「直感」は、こうした言葉と向かい合うことで、
「直感」は「直観」になり、
「公案」という論理を「造形」の背景になる、という想いしか無かったのでしょう。
「和紙」は包む素材になるのです。
しかもそれは「真っ白」でなくてはならないのです。
その「真っ白」は、楮・三椏・雁皮は陽に晒されば晒されるほど、
「真っ白」になることを知りました。
「真っ白」に水引きで締めて閉じることが「贈る」ことの作法だということでした。
詰める
それなら、「詰める」というのは、
日本的には、「追い詰めたり」、「詰め込んだり」ということで、
あまり良い印象の言葉ではありません。
「詰め込み」・「缶詰」・「腸詰め」、これが欧米的なパッケージでした。
そして、つましい・つつましいというのは、
自分の生活は「追い詰められているのではない」、
「つつましい日常であるべき」ということで、
「生きていく」作法があるのでは、と確信したわけです。
それから、日本経済、
福井からは東京での喧噪が、「変だ!」と思えるようになりました。
ちょうど、その頃、Apple社との仕事で、
いわゆる「バブル経済」は傍観できる立場だったのです。
「包む」とは「包まれている」ことの記憶の言葉です。
まさしく、胎児が母親の子宮に包まれている象形があります。
「詰める」とは、口を締め付けて閉じる象形からも、
厳しい言葉で責めなじることまでの意味があります。
包む、という言葉から「つつましい」という言葉に出逢いながらも、
私は自分を追い詰めていました。
つつましさと美しさ
あれから30年、自分を追い詰めること、他人を追い詰めることへの大きな反省があります。
だから、今、敢えて私自身がもう一度、
「包む」こと、「包まれてきた」ことに立ち戻りたいと思っています。
「つつましい」という、伝統的日本人の感性・直観公案として、
デザイン表現の「つつましさ」は、
きっと、「美しさ」に連鎖し連動するという、直観があります。


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7月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 7th, 2010  Posted 9:30 AM

7月7日 先勝(癸丑)

知識の情報化とか、
情報の知識化ということを、
つきつめて考えていくと、
自分が携えてきた知識とは
どのようなものであったのだろうか、
ということにつきあたってしまう。

『デザインは言語道断』知行


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