kazuo kawasaki's official blog

Archive for 9月, 2010


9月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 3rd, 2010  Posted 9:29 PM

9月3日 先勝(丙辰)

好奇、すなわち”好きさ加減”を、
かつていにしえの時代には昇華させて
「数奇」の世界観へと展開させた。

自分と好奇対象との関係を、
好奇から数奇へと運び上げるメディアとして、
デザインという世界があることを
明言しておきたい。

『デザインは言語道断』好奇


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『資本主義からの逃走』
    「 『富』を見失ってきたイデオロギーの文脈」


   


     9月 3rd, 2010  Posted 1:38 AM

「富の分配方程式」
資本主義も社会主義も、イデオロギーだとするなら、
私たちは、本来のイデオロギー、何がイデオロギーかを未確認のまま、
この二つの主義主張で分断され闘争させられてきました。それが20世紀です。
いづれのイデオロギーも、『富』とは何であったのかを見失なってきただけだったのでしょう。
『富』を生産し、分配し、蓄積することの結果を、私たちは20世紀末にはっきりと認識しました。
反省しなければなりません。
それは、富の分配方程式が経済図式にすぎなかったことと、
私たちという種の存続性さえ危ぶまれている現前で、たちすくんでいる有様です。
マエンゲ族とトロブリアンド島民
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、
西太平洋・トロブリアンド島民、
いづれも無論働きます=生産しています。
しかし、彼らの生産は、いかに「美しい畑作」をするかということです。
畑生産での収穫量=「富」ではないことを私たちはもっとその価値を熟知すべきだったのでしょう。
彼らの「生産」成果とは、「美しい外観や体裁の整備」、その審美性に価値をおいていたのです。
この種族や島民に最も注目し、
「労働」・「仕事」その生産による「富」を見失ってはならないという指摘はありました。
いわゆる構造主義者の示唆・分析を無視してきたことは事実です。
エコロジー・リサイクルが問題解決にあらず
「労働」とは、真に肉体労働であり、
人間という種の生理=発汗行動を忌み嫌ってきたのかもしれません。
頭脳集約が果たして、新たなイデオロギーを世界観、共通感覚にしてくれるのだろうか、
という「文脈」をもう一度引き込み直すことかもしれません。
もっと直裁的に言ってしまえば、
私の視界には、声高なエコロジーとかリサイクルが問題解決だとはまったく思っていないことを、
1989年コンピューター黎明期に訴求して以来持ち続けています。
「富の生産・配分・蓄積」という文脈で、私たちは、見失っていることが余りにも多かったのです。
エコロジーもリサイクルも、まだ「富の分配式」のままなのです。
見失っていたのは、「審美的な富」だと私は考えています。
「審美的な富」はデザイン対象・問題解決の「解答」だと確信しています。


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9月2日 Staff Blog


   


     9月 2nd, 2010  Posted 11:59 PM

9月2日

BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
指導する研究室・PiDにあるEPITAです。

何度見てもやはり美しいです。

Posted in Staff


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9月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 2nd, 2010  Posted 11:50 PM

9月2日 赤口(乙卯)

好奇対象から
自分を見失うほどの刺激を受ける。

その瞬間、世間的で一般的な判断、
すなわち常識が存在しない関係が
対象との間に生じ、
自分はその狭間に放り出される。
そこでドギマギし不安になる。

こうした経験を積み上げていくことが
最も大切だと確信している。

『デザインは言語道断』好奇


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『資本主義からの逃走』
    「 資本主義・社会主義その文脈には皆無の文化性」


   


     9月 2nd, 2010  Posted 12:35 AM

「富の配分」文脈からの解放
私は「文脈」に焦点を当てています。
その中で、「働くという文脈」に触れないと、
このブログの主テーマとの関連性は?と、いうことになると推測しています。

● 資本主義の否定=社会主義の肯定は、「労働」の文脈での搾取性や階級性があります。

● 資本主義の肯定=社会主義の否定は、「仕事」の文脈での倫理性や自由性があります。

そしてこの二つが、20世紀を構成したかのごとく激しく対立闘争をしてきました。
しかし、この闘争は、
先進国家ロシアも含めてたった1億人だけのことであったことを
私たちは前提にしておくべきでしょう。
資本主義と社会主義の文脈には「富の配分」だけであり、
結果は「地球環境の悪化と宗教がらみの民族闘争・テロ、原爆の保有」問題を残したにすぎません。
私は「富の配分」という文脈からの解放、それを「逃走」と言って、
問題解決したいと思っています。
私は1989年7月号「Bug News」というコンピュータ誌に、
南太平洋ニューブリティン島のマエンゲ族や、西太平洋トロブルアンド島民のことを紹介しました。
それは、「働く」・「労働」・「仕事」の結果が、
まったく「富の配分」ではなくて、それこそ「働く」結果の評定のことでした。
私たちが、「富の配分」でイデオロギー論争や、
その産業経済の結果に囚われすぎていることへの警鐘のための例示でした。
そのことに触れたいと考えています。


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9月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 1st, 2010  Posted 9:30 AM

9月1日 大安(甲寅)

異常さというのは、
社会性や時代性、
環境での価値基準が
変動するために、

何が正常で、
どこから異常なのかを
断定することがすでに
倒錯なのかもしれない

『デザインの極道論』倒錯


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『資本主義からの逃走』
    「 恋愛の破綻は文脈不理解、その程度問題が事例です」


   


     9月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

文脈理解の程度問題
文脈から、理解と認識の大きな問題が派生します。
「一を知って十を知る」ということもあれば、
「一を知って二を知らず」ということも充分にあります。
文脈を遮断しても「十を知る」人もあれば、
十二分な文脈が備わっていても「二を知ること」叶わない人も確実にいるということです。
要は文脈を理解し認識する能力、それは人間としての程度の問題があるということになります。
この問題には少なからず次のようなことが横たわっているのでしょう。
● 直感力・勘の良さ・知識力のある人なら「十を知る」でしょう。
● 文脈を一(いち)とすれば、その文脈性が不整備なら、「二を知る」ことは不可能。
● 文脈を十にしておいても、理解力や認識力の価値感の問題が必ず存在。
こうしたことに対して、私はもっとも気を張る必要があることを書き添えたいと考えます。
それは「コミュニケーションとは『誤解の最小化』に過ぎない」、
という前提を置いておくべきではないかということです。
それは、「わかり合えない」からこそ、長くつきあえるという事実があるということです。
恋愛という文脈から
恋愛事情で例示すれば簡単です。
「あなたってそういう人だったんだ」というのは、
理解してしまったから、もうコミュニケーションの必要性が無くたったということになります。
恋愛経験というのは、誤解の連鎖性をいっぱい体験することだと私は考えています。
所詮、男と女は「わかり合えるはずが無い」とすら暴言を残しておきます。
だから「わかり合いたい」欲望の具体的事象が恋愛だとさえ思うのです。
そこから考えれば、親子関係・知人関係・友人関係など、
人間関係での文脈は、文脈構造の象徴だと考えることができます。
親友というのは、付き合っても付き合っても、「謎」が多いのです。
だから、お互いに「知り尽くしたい」という感情があるということ。
あるいは、「もう充分に理解し合っているからこそ」、
「一(いち)だけの文脈でも十二分に精神的な解放感に満たされる」ということだと思うのです。
私は、人間がいつまでも「興味」を失わない「存在」であるとするなら、
「文脈=一(いち)、をともかく幅広くかき集められること」、
この「程度」の人間は「生きる意味」があると判断しています。
恋愛文脈とデザイン構造
デザイナーとして、モノのデザインは、
ユーザーがまず、デザインされたモノに恋愛感情を持ってもらいたいのです。
しかし、恋愛なる危険度、その程度は熟知?していますから、
デザイン文脈にどの程度の「恋愛的文脈」を仕組んでおくかは、
とても重大なことだと、いつも自己宣告しています。
なぜなら、私の恋愛体験は・・・語るに尽きるほど悲惨!ですから、ごめんなさい。


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