kazuo kawasaki's official blog

Archive for 10月, 2010


『資本主義からの逃走』
    「『情報デザイン』と『デザイン情報』の差異性 」


   


     10月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

名詞と名詞の結合
日本語には名詞と名詞の結合があります。
これを英語で表現すると、英語的には誤りになります。
しかしあえて新英語によって意味の詳細化と
強調化が容認されることがあります。
不定詞的な用法と考えることができます。
英語でも、革新性をねらった概念の提案では、こうした新語を術語として登場させることで、
新たで、知識科学を進化させる手法の一つです。
私が制度用語として関与したものには、
エコロジーデザイン=ecology designというのがあります。本来ならecological designですが、
あえて名詞+名詞にしたのは、ecological design=環境的なデザインというより、
環境に対するデザイン、環境とデザインの構造化ということで、
エコロジーデザイン賞というのを設定したことがあります。
これにはもっと政策的政治的な背景(海外との関係)もありました。
いづれ書き残したいと思っています。
「情報デザイン」と「デザイン情報」
さて、「情報デザイン」と「デザイン情報」は、
デザイン=名詞・動詞+情報=名詞が前後するだけです。
しかし、私は意味の再編化があり、それは意味の変容性を恣意的にしているのだと考えています。
これは意味に明確な差異性をもたらしていると判断することができます。
名詞不定詞的な用法での意味再編
次のような5つの解釈をしておきます。

    1■ 形容詞的に名詞(決定語)とする
    2■ 名詞と名詞によって新たな概念を派生し意味内実を強化
    3■ 動詞+名詞=名詞を対象とした動詞概念を明確化
    4■ 名詞+動詞=対象概念への動詞目的を強調する
    5■ 記号論=道元の現成公案的な新たな意味概念の象徴化

不定法の言葉の上乗性
私は、デザインという営為あるいは職能にとって、
デザイン価値、あるいは価値デザインでは、
この名詞の上乗性(=優れて勝っていることの証左)言葉使いは、
デザイン内容を概念的に強化していく一つの手法であると提案しておきます。
言語学的には、ヨーロッパ諸国語でのいわゆる不定詞用法や不定法に近傍しています。
前記5つの詳細から、「デザイン情報空間」と「情報デザイン空間」、
その詳細な定義性へと発展させていくことが観えてくることを読者諸兄に期待します。


目次を見る

10月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 22nd, 2010  Posted 7:47 PM

10月22日大安(乙巳)

チャレンジしてだめなら、
バトルしかない!
それが私のやり方だ。
デザインだって同じだ。

『デザインの極道論』勢力


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「視覚情報デザインは死角を生み出す 」


   


     10月 22nd, 2010  Posted 12:30 AM

観える
視覚情報という言葉は正当性があります。
デザイン系教育でも、「視覚情報デザイン学科」は、
あたかもデザインを代表するメイン的な存在性が社会化されています。
しかし、私は「視覚空間」を全否定しています。
視野や視界という言葉に対しての「視覚空間」は存在していないと断言しました。
私には想像が不可能ですが、盲目という障がいのある方々にとって、
視野や視界は、根本的にはありえないのです。
ところが、盲目の方の方が「観えている」情報がはるかに大きいことがあります。
白杖だけですでに道路の段差が分かったり、頬に受ける風圧だけで歩行能力が保全されています。
「見える」というのは、現実、目というセンサーで網膜に結像される写像を認知するわけです。
ところが、目のレンズである水晶体から光を網膜の真ん中で受容すると、
中心窩と呼ばれている凹みがあって、ここで最も高精細な視知覚情報を受け取ると言われています。
視知覚情報の認知や損失はこの一点に集中されていると生理的に解釈されています。
「あの人は視野が狭い」とか、「視界をもっと拡げないといけない」というフレーズがあります。
このフレーズが意味していることは、「見える範囲」の拡大だけではありません。
「観自在」
「観えてくる」想像力を豊にすることを意味していると考えて構わないでしょう。
般若心経の冒頭には、「観自在」という言葉があります。
つまり、私たちの認知力・認識力のいうのは、
確かに英語でも「分かった=I see」という相づちになるのですが、
それは、見て=視覚的だけではなくて、もっと他の感覚=聴覚・臭覚・触覚・味覚だけではなくて、
第六感といわれる「直感」の豊富さこそ、知覚情報の受容器だということです。
したがって、デザインは「見てくれや外観づくり」を意味しているのではありません。
そういう意味では、「視覚情報デザイン学科」という枠組みは、
大きな死角=観えなくしている情報を残存させているということになります。
すでにデザイン領域での「視覚情報デザイン」は「情報空間」を対象化するには限界があります。


目次を見る

10月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 22nd, 2010  Posted 12:01 AM

10月21日 友引(丙申)

勢力
美しさのエネルギー

『デザインの極道論』勢力


目次を見る

10月21日Staff Blog


   


     10月 21st, 2010  Posted 11:59 PM

10月21日

あるメディアの掲載用に
スタッフによる写真撮影をこなす
BOSS(川崎和男, KazuoKAWASAKI)。

先日名古屋にある
MASUNAGA1905の新作フレームを
持ちながら笑顔です。

近日中にこのメディア掲載についても
アナウンスいたしますのでお楽しみに。

ちなみに、
こちらの画像は不採用のものです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「 視覚空間は存在しないことを認識する必要がある」


   


     10月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

感覚空間

空間を形容すれば、何々空間という言い方は可能です。
そして、何々空間に対しての空間認識があるでしょう。
その空間認識に対して、形態認識が付随、
あるいは認識の対象性=情報認識があるということが理解可能です。
人間の五感に対応することでは、五感・感覚空間が存在しているということは認識可能です。
しかし、視覚=実際に見えるという空間は、
実は不在であり非在であることを明確にしておく必要があります。
喩えるなら、「かたちというかたちは存在していない」ということに等しいわけです。
つまり、「視覚空間」という言葉を与える空間があるのだろうか、ということです。
「視覚空間」は無いと断言していいでしょう。
次元空間
というよりは、視覚能力は無限という次元空間ですから、
この空間には「視界」という言葉が与えられます。
人間の視覚能力は、他の聴覚・触覚・臭覚・味覚にはそれぞれに対応する空間、
その設定や仮説化は、感覚空間と呼ぶことで仮設化可能です。
しかし、視覚は実際は何万光年という次元空間=宇宙を「見る」ことが出来ます。
そこで私は、「視覚空間」という言葉ではなく「視界」という
次元的な言葉があてがわれていると考えてきました。
「視界」に存在する物・モノ・ものを認識するためには次元空間の認識が必要です。
万一、「視覚空間」という表現をするとするなら、
レトリック・メタファー・アナロジーとして運用することは許容されるでしょう。
視覚の要点・要素・要因
けれども、「視界」という言葉の存在を認識することは、
空間認識とさらに形態認識を区分したり分別するために、まず、次の手続きが必要です。
視覚は、視点・視線・視座・視野・視界という空間認識の要点や要素で成立しています。
視覚構造と呼んでおきます。
視点は、必ず二つ存在します。
どこから(eye-point)=視座であり、どこを(view-point)があります。
その二つの点によって視線=まなざしができます。
そのまなざしが要因となって変動する=dolly(CGでのカメラ視線術語)軌跡や対象空間が、
視野であり視界という空間です。
この空間に形態の存在・非在・不在が具体的な形態認識です。
仮想空間
情報空間には、視覚空間はありえず「視界」となる情報空間の設定によって、
初めて空間認識、さらに形態認識ができるということです。
そこで、抽象的なあたかも視覚認識できうる形態認識は、
あくまでも仮想空間=Virtualityであって視覚空間では無いということです。


目次を見る

10月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 20th, 2010  Posted 10:00 AM

10月20日 先負(癸卯)

若い世代は、
罵倒する対象を、
絶対に自分よりも
弱い存在に向けている。

罵倒した途端に、
自分が罵倒される対象になっても
対応できる能力の開発が
必要である。
それを鍛えよ。

『デザインは言語道断』罵倒


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「『情報』は記号と信号でまず大別」


   


     10月 20th, 2010  Posted 12:29 AM

号する
情報という訳語が、現代を決定しています。
物質・情報・エネルギーが世界構造を構成しています。
これを、世界構造の大きな大別・種別とするとき、
さらに、ディレクトリーを情報の大別・種別にまで入り込んでみます。
私は、情報はまず「号する」という基本的動作から、号が包含してきた意味があります。
そしてその包含意味をそのままの仕組みが、
情報の形式・内容・質・意味・意義になっているのではないだろうかと推測してきました。
「号する」というのは次の三つから始まっているとまとめておきます。
  ■ 大声で叫ぶ、号泣すること・泣血号天
  ■ 次に、評判をたてて言いふらすこと・号為賢相
  ■ 名をつけることや表向きに呼ぶこと・号日皇帝
では、「号する」こととは何かということが「情報」に繋がっているという私の種別です。
情報=「信号」・「記号」
結果、情報を大別すれば、「信号」・「記号」になるというわけです。
そして、この二つには、人間=人と己、そして言です。
その言が前後関係になっている漢字にすべての意味が情報にまで象徴されることになると思います。
情報は信号化されることと、記号化されることで、
情報の実質的中身を種別することができるのです。
信号的な情報と記号的な情報という種別から、
「情報空間」も同様に、次のように呼ぶ・号することができると考えます。
「信号的な空間」と「記号的な空間」、
それぞれをさらに検証していく方向があるものと考えています。


目次を見る

10月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 19th, 2010  Posted 10:00 AM

10月19日 友引(壬寅)

罵倒とは、
ため込んだものを
一挙に吐き出す。

吐き出すものは
汚いに決まっている。
だから、
ののしられたという
汚さが残るわけだ。

だから、どうするべきかまで
その姿勢を鍛えよ。

『デザインは言語道断』罵倒


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「もう一度、『情報』意味の徹底検証」


   


     10月 19th, 2010  Posted 12:29 AM

情報は訳語
これまで蔓延してきた「情報」の意味、
その原意をしっかりとまとめ直しておきます。
   1■ 「情報」は森鴎外の訳語だったという事実
   2■ 「情に報いる」という誤った意味解釈の影響
   3■  日本語「情報」の原意が歪んだことの功罪
森鴎外・「大戦学理」
1. 森鴎外は軍医であり、文学、小説家であったからこそ、
訳語を与えることができたという事実は、もっと明らかにされるべきでしょう。
クラウゼヴィッツ「戦争論」の邦訳を森鴎外が行っています。
彼は「大戦学理」という中で「情勢報告」=「情報」としていたという事実から、
もう一度、言行される「情報」という言葉周辺をみなさなければ、「情報革命・情報化・情報社会」
そして、「情報空間」そのものが大きく歪曲してきたのではないだろうか、
という危惧感はぬぐえません。
あくまでも、情報という言葉は戦略用語であり、
これはとりもなおさず、対外的にはコミュニケーションを断絶し、
対内的にはコミュニケーションの了解と共有が起こるという、
何が対外であり、対内でのコミュニケーション、
この相反軸を常に変動させる要因を示唆している言葉だということです。
情に報いることは情報ではありえない
2. これまで情報は、「情に報いる」という、
あたかも情、心、気持ちの共有性という意味に、
大きくて多くの共感性あふれる意味性で解釈されてきました。
しかし、もし、情に報いるという意味なら、漢文的な統語形式ならば、
「報情」でなければなりません。これなら、レ点が入ら無ければなりません。
「報レ情」ならば、情に報いるという解釈が可能です。
また、「情」というのはきわめて感情、や情緒性などの意味が包含されていますが、
この解釈には、基本があります。
忄(りっしんべん=心)+青(あお=中国古典解釈はくろであり、どろどろとした汚れ)
=こころの中に汚れたものが流れこんでくるという状況、という意味です。
となれば、情に報いるという、あたかも清廉で清心な気持ちのやりとりという意味は、
真逆の解釈意味を与えたことになります。
再度、「情勢報告」=「情報」にもどれば、情勢=対外での事変を報告するという、
「報(報告)する情(情勢・情況)の正確さを確認することができます。
情報と意識のバランス
3.しかし、これまで情報を情に報いると、
いわばパロール的=会話的な解釈論にもメリットがありました。
それは、わが国のコミュニケーション、たとえば以心伝心的な、
相対する間での分配に「情」を配置した功は、
「情報革命」を「意識革命」=ドイツ的な解釈性に重なっていることです。
けれども、情報=意識への要因注入は、あきらかに性善的解釈だけを大きくし、
情報が伝達されていく怖さ、すなわち性悪説的な、
情報操作される危険性を度外視することを見逃してしまったことも事実=罪でした。
「情報」の形式と内容、
その均衡性=バランス感覚や情報の処置性と処理性が破綻していることに気づくべきでしょう。


目次を見る