kazuo kawasaki's official blog

Archive for 1月, 2011


「資本主義からの逃走」
   「Visualization情報の多次元化という新コンテンツ産業」


   


     1月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

voir・ avoir・ savoir
情報のネットワーク化基本は「視覚化」。
視覚化とは、「見て分かる」ということです。
英語でそのまま、「I see」に他なりません。
仏語の「voir=見る・avoir=知る・savoir=持つ」も、
「見て知って所有する」という具合です。
情報リテラシーとは、
情報のアイテムである、言葉・文章・図解・絵図・音楽などをコンテンツと呼んでいます。
日本での「コンテンツ産業」の定義は、時代的な即応性や将来性を語りきることなく、
漫画とか映画、アニメーションなどの産業に限定されている感があります。
これはすでに時代的な即応性を欠落してしまっています。
これからのコンテンツ産業というのは、
情報の多次元化とそのネットワーク化へと進化しつつあります。
映画の多次元化=新コンテンツの派生
具体的に言うと、
「映画」がまずコンテンツ産業アイテムとしてありますが、
これが多次元化とネットワーク化していくわけです。
映画の多次元化というのは、
映画スターのファッションや、その撮影場所など、
「視覚化」されたことがまさに仏語のように、映画・主人公やその配役を見ます。
そして、演出道具やファッションや撮影場を知ります。
映画を見て、知って、さらに、そうしたファッションを所有したり、
その場に旅行するという多次元化が起こるわけです。
こうした多次元化全体が「コンテンツ産業」ということです。
多次元化コンテンツのネットワーク
そして、この多次元化されたコンテンツがネットワーク化、
これもこれまでのようなwebsite・HomePageやmail配信の段階から進歩することになります。
twitterやFacebookというSocial Networkになります。
したがって、Social Network上では、twitterやFacebookは、
メタメディア性、ホログラメディア性と私は名付けています。
そしてSocial Networkをも凌駕するContext Dynamics、
あるいは、Syntax Dynamismへと展開していくことになるでしょう。


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1月26日Staff Blog


   


     1月 26th, 2011  Posted 8:09 PM

1月26日

2011年、身につけるブルーの
モノたちも一新した
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)


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1月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 26th, 2011  Posted 10:00 AM

1月26日 仏滅(辛巳)

辺幅修飾という言葉がある。
布地のへりだけを繕い飾って、
肝心な部分がしっかりしていないこと、
すなわち見かけ倒しという意味である。

今や日本全体に辺幅修飾現象が
はびこっているが、
デザインに修飾は禁忌である。

『デザイナーは喧嘩師であれ』蓄積開花


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「資本主義からの逃走」
     「PCレンダリングの3D表現誤謬」


   


     1月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

透視図アルゴリズム
PCでのレンダリングが一般化しました。
レンダリング=完成予想図ソフトは、
最初はとても高額でした。
シリコングラフィック社のIRIS3030を2台購入して、
私の3Dレンダリング修行の経験があります。
しかし、私は現在、PCでも安価なレンダリングソフトは信用していません。
確かに、質感まで写真のようなデザインの完成予想図になりますが、
Bスプラインでの描画や、空間設定での透視図アルゴリズムが、光軸とのズレ補正が無いなどで、
まともなソフトは無いとさえ評価しています。
そして、PCでの3Dレンダリングによりかかった造形創出は、
自分の脳内イメージ透視図とは違っている印象があります。
しかも、そのレンダリングから製品造形されるから、
本来のプロダクトデザイン造形は、PCソフト機能に縛られた造形処理となりがちです。
プロダクトデザイン業務の発想段階においては、
PC上での3Dレンダリングは、使わないことにしています。
3Dレンダリングは発想には使わないこと
発想段階でいきなり、3Dレンダリングはデザイン造形では
大きな誤謬を与えるというのが私の結論です。
ただ、最終表現のプレゼンテーション資料としては、
3Dレンダリングを動画として利用することはあります。
基本的には、PCでの3Dレンダリングソフトの透視画法そのものが、
視覚補正機能を装備すべきだと判断しています。
これはいわゆる、写真撮影での、
アオリ補正(シフトレンズ)のようなオプションが必要だと思っています。
レンダリングでの3D描画は、特に発想段階では、
やはり「手」による表現が的を得ていると考えています。


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1月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 25th, 2011  Posted 10:00 AM

1月24日 先負(庚辰)

日本はもう「負けはじめている」のだ。

貿易立国でなければ
生き延びれないという現状を
すっかり忘れている。

本当の、本当の、本当の豊かさを
ちゃんと蓄積していくために、
経済的に
「勝たなければならなくなってしまった」。

『デザイナーは喧嘩師であれ』蓄積開花


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「資本主義からの逃走」
     「3D情報の錯視化によるメタメディアの起動」


   


     1月 25th, 2011  Posted 1:10 AM

3D情報の錯視
透視図法による現実描写。
この描写は、2次元平面に立体が存在。
そして、この描写は視覚的な錯覚を起こします。
代表的な図・絵画としてはエッシャー作品があります。
あたかも、立体ながら実際には有りようの無い世界観です。
もう一つは鏡像現象が立体的である時にも錯視が発生します。
私は、2006年・金沢21世紀現代美術館の個展で、
この鏡像現象を展示手法にしました。
床・天井・壁を鏡面とした空間にモノを展示すれば、
錯視によって、あたかも三階建ての吹き抜け空間が生まれます。
これは、設計段階では、単なる鏡像現象を狙っていましたが、
現実空間では、想像以上の錯視空間が生まれて、
鑑賞者に大きな驚愕をあたえることができました。
したがって、3D情報にはある意味では情報処理での、
錯視的な印象が起因するのではないだろうかという予感があります。
このやや危惧的な予感の反極には、
情報が3D化からnD化すれば、その情報質と高密度な感覚受容も期待できることも予想できます。
私は、錯視の運用によって、情報確認の直視=情報理解の深度化を最も期待するわけです。
そして、この期待感の中で、
情報の媒介となるこれまでのメディアそのものが変質するということです。
メタメディア・ホログラメディア
このメディアを、メタメディア、あるいはホログラメディアという名辞を考えています。
たとえば、6D-CADというのは、
3Dでの立体映像が、物質次元・時間次元・人員次元の設計変位によって変化します。
つまり、nD情報化のデザインは、
メタメディアもしくはホログラメディアそのものを発見し発明することだと考えます。
新たなメタメディア・デザイナーという職能が要請される時代、
そんな時代が眼前になってきているとさえ思っています。
電子出版という現状の流れのメディア変化というのは、
実は、メタメディアへ変貌しかかっているのでしょう。


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1月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 24th, 2011  Posted 10:00 AM

1月24日 友引(己卯)

目の前に未来など
広がってはいないのだ。

背中を見ることはできない。
だからこそ、
背後をのぞき込む知恵を
培わなければならない。

その知恵を、かたち、
「見て分かる=I see」にする
デザインは重要なのだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』背後未来


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「資本主義からの逃走」
     「3D映像画像による情報質の変化」


   


     1月 24th, 2011  Posted 1:33 AM

透視図画法から3Dへ
3次元情報は、絵画画法に顕著です。
絵画は2次元に立体的な表現を蓄積。
透視図法はピエラ・デラ・フランチェスカに始まりました。
ピエラ・デラ・フランチェスカを知った、
いや教わったのは美大での西洋美術史でした。
正直、西洋美術史は大学時代には日本で最高権威の先生方に教わっていました。
が、そのことを知ったのは社会人になってからでした。
大学時代の講義内容への興味ってきっとその程度だと思っています。
けれども、私自身大学教員としてはその程度でも「必死であるべき」と自分に言い聞かせています。
もう一度学び直したいと本当に思います。
日本での立体視、その絵画技法とは異なります。
日本の古代絵画は、いわばアイソメトリック的な図法に近接していると私は思っています。
三次元立体視、透視図、そして3D画像・映像というのは、
「情報の質」を変化させていると私は認識しています。
3Dから6D、メディア定義を変えるだろう
3D-CADからに光造形・ラピッドプロトタイプを最初にトライし、
トポロジー的画像表現の疑似立体化をしてきました。
そして、4D-CAD開発をデザイン手法に加えたいと考えてきましたが、
すでに、5D,6D-CADが実現されてしましました。
6D-CADを見たのは昨年(2010年東芝のある研究所)でした。
直感したのは、「メディア」の定義を変えないといけないと思ったことでした。
海外の3D-CADベンダーからは、
日本の設計手法が遅れ始めているという指摘もここ数年受けてきました。
3D-TVを日常化してから、私は「メディア」の定義を一新し、
その新たな定義によって、「情報の質」は確実に変わっていくと予知しています。


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1月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 23rd, 2011  Posted 10:00 AM

1月23日 先勝(戊寅)

「Back to the Future」。
日本では古くから、
「人は背負い水」
という民俗話があります。
「一生の水を背中に担いで
一生を生きる」
といわれてきた。

まさしく、
人は背中に未来があることを
忘れているわけだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』背後未来


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「資本主義からの逃走」
   「地デジ化を基本にしたデジタルインフラ化は急務」


   


     1月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

「国家的なデジタル情報化戦略」皆無
この7月には、TV放送は地デジになります。
地デジ化は明らかに政治的戦略のはずです。
政治的といっても、これは貧困な政策にすぎません。
産業的には家電産業の活性化であり、
大衆的に国民購買を強制しているにすぎません。
エコポイント制度も私には、
なんとなく戦後の配給制度(実体験はしていませんが)にしか思えません。
地デジに象徴された、「国家的なデジタル情報化戦略」が皆無だと観ています。
わが国は、TV放映も免許制度ですが、デジタル技術が電子出版によって出版界も、
放送免許制度も、レンタルビデオ商売もすべからく崩壊させていくことは明らかです。
インターネットですら、大きな変革が急激に起動する時代です。
たとえば、私は自分の大学講義はUST公開しています。
TwitterやFacebookというソーシャルメディアへの批判もありますが、
「情報」への欲望は、それこそマルクス的な所有感・使用感を超えています。
デジタル技術はすべからく一新
情報に対する、実名主義=Facebookや掲示板での匿名主義、
いづれも民主主義のある種の開放感や自由性は根本的基盤として人類が確立してきたことです。
この実名主義と匿名主義のバランスが
最も健全な情報化を構築することを文化化と知性化すべきでしょう。
発信された匿名性はほとんど崩壊が始まっていることを実体験しています。
少なからず、その具体例としてのWiFi化はインフラ整備しなければならなくなるはずです。
ケータイもスマートフォンをさらに超越した、
メタ・ケータイ=無料がデジタル国家情報戦略になるべきだと考えます。
その最も手短な地デジの具体例として、私は3D映像を認めています。
韓国では3D放送が開始されようとされている意味では、
日本の政治に「地デジ」の次戦略がありません。
私は、すべからく日常生活での「生活情報のデジタル化」は、
TVと車に集約させる技術開発支援・デジタルインフラ整備・エネルギー供給システム、
これらの政策的制度化は急務だと私は考えています。


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