kazuo kawasaki's official blog

Archive for 1月, 2011


1月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 4th, 2011  Posted 8:49 PM

1月4日 赤口(己未)

「品格」
日本人なればこそ

『デザインの極道論』品格


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1月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 4th, 2011  Posted 12:13 AM

1月3日 先負(戊午)

私は、
「物品」というよりは、
むしろ「機器」と
呼ぶのがふさわしいモノの
デザインにかかわっている。

しかし「機器」も
「物品であることに
変わりはない。

『デザインの極道論』物品


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「資本主義からの逃走」 
    「人それぞれの新年は世代間差異性を見る」


   


     1月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

私の視座から
人生にとっての新年。
それぞれに新たな年を迎えること。
私はこの年、「兎」への思い出と知識の整理でスタート。
新年とは、人間それぞれにとっての期待と希望です。
私は新年を迎えるにあたって、いつも新年は信念の確認と思ってきました。
その癖がついたのは、交通被災・車椅子生活となってふるさとに帰省=Uターンをしてからでした。
それは「歩けなくなった川崎和男という生」が引き込んだものだったと思います。
「歩けない私」の視座は、私の眼差しを全く変えたと考えます。
この眼差しがひょっとすれば私である「歩けていたかっての川崎和男」という人間の質、
それは人格まで変えたのかもしれません。
多様性など無し
私の現在の眼差しは、「多様性を持ち得ない日本人」を見つめています。
これは私がデザイナーという職能性からの想いと経験だと判断します。
歳末、例年のごとくTVでは、「くる年への期待感」を押し殺すように、
去る年に失ってしまった無念さへの怒りや失望を整理しています。
これらはすべからく、多様性はなく単純明快な共同謀議を共有していました。
そして、「くる年」への期待感や希望には、
「多様性を尊重し合う」という知性が共有されていました。
世代間の差異性
しかし、私にはこの共有している謀議は幻想の確認に過ぎないものと思えました。
もし、多様性があったとするなら、それは世代間での思考差異性だったと見ています。
世代間での差異性の根本は、「情報」であり、「メディア」との経験の質でした。
そしてこれを「多様性」と呼ぶことは間違っています。
私が世代間の差異性を批評するなら、
メリットは、経験質が若い世代ほど高密度であり時代革新の先導力になるでしょう。
ところが、デメリットは、世代間の価値観の断絶です。
こうしたことが世代間のギャップとして、対立することなく新たな秩序づくりこそ、
新年への希望であってほしいことです。
私は新年の信念を、車椅子ゆえの視座からの姿勢を遵守します。


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「資本主義からの逃走」・『謹賀新年』」               「兎と月と思い出と」
    


   


     1月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

兎猟
兎にはいくつかの思い出があります。
母方の祖父は宮大工の大棟梁でした。
そして、小さな村を持っていました。
今も、Google-Mapではその場は「商店名」になっています。
私は最初の外孫で男の子でしたから、
祖父はじめ周囲の用人の人が、兎猟での仕掛けなどを見て育ちました。
だからどのような刃物、というより鎌に近い刀での解体などの場面と味も思い出すことがあります。
福井市から最も近い1053mの浄法寺山では、春には斑模様の山兎と出会うことがあります。
その出逢いの緊張感には、兎の生と死があり、
それがそのまま月という陰暦性の生と死が私の中では結びついている気がしてなりません。
とりわけ兎の糞についても独特の消化機能が働いた結果があり、
その臭いや固さなどが記憶には明確にあります。
そして、何よりも「うさぎ」の語源説では、
「月」と「うさぎ」のつながりがサンスクリット語にもあったはずです。
ひょっとすれば、私にとって今年が最終の卯年かもしれませんが、
もう一回12年後の卯年程度は迎えたいものだと願っています。

元旦


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1月1日Staff Blog


   


     1月 2nd, 2011  Posted 11:48 PM

1月1日

2011年
明けましておめでとうございます。
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
愛用スピーカー上に鏡もち。


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1月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 2nd, 2011  Posted 9:30 AM

1月2日 友引(丁巳)

「物品」である
「作品」「製品」「商品」
さらには
「品質」「品格」と
いった熟語には、

何かがモノを
格別なものにしていく、
という意味関係が
内在していると言える。

『デザインの極道論』物品


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「資本主義からの逃走」・『謹賀新年』」
    「『月』に兎ありという想像力に」


   


     1月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

楚辞
屈原という詩人のことを思い出します。
中国がわが国にもたらした文化、
それは日本の東洋的知性を相当に育みました。
ところが、今の中国にその知性は認められません。
これほど、一党独裁には、権力と集中的な富の偏在があり、
中国文化の知性はおかしな富奪取にまみれてしまいました。
おそらく中国には二つの大きな詩集があったことなどは破壊されていることでしょう。
その詩集は、詩経と楚辞であり、その楚辞の作者が屈原でした。

楚辞・天問篇に、月と兎が詠われています。
  
  夜光何徳
  死則又育
  厥利維何
  而顧菟在腹

「月は何の得があって、月は満ちたり欠けたりしているのに、ウサギを住まわせているのだろう」
という意味です。
月とウサギは、なぜ世界的にも象徴的な関係性があるのかは正直疑問です。
この年明けにいくつか探ってみたいと思います。
そして私にとっても、ウサギにはいろんな思い出があります。
幸いにして私は雪国生まれの雪国育ちでした。
ウサギの捕獲から解体、食仕方も知っています。
しかし、幼いときには、月にウサギが餅をついている話を信じていました。
あらためて、楚辞を読み直すとそこには屈原が森羅万象の自然を彷徨って、
大きな想像力が記録されています。
昨年から、わが国は中国に翻弄され続けています。
私は中国の多大な文化思想をもっと学びたいと思いますが、
現体制の中国を信用することは全く不可能だと告白しておきます。
いづれ中国の巨大な人口は、水不足という大変な事態になるでしょう。
そして確実にあの国の崩壊は起こるはずです。でなければ、帝国主義として破壊側になるでしょう。
その時、隣人として「大きく彼らを支える」そんな気概ある政治外交姿勢が欲しいものですが、
日本の現政権ではこれも全く不可能でしょう。
楚辞、屈原の想像力が森羅万象に向けられていたことを再読し,
あくまでも知性的な自分でありたいと思っています。

元旦


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1月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 1st, 2011  Posted 9:30 AM

1月1日 先勝(丙辰)

私は「物」という漢字を
ほとんど使わない。

漢字を用いるのは
自然物に対してだけで、
人工的に設計された対象は
「モノ」と
カタカナで表現する。

『デザインの極道論』物品


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「資本主義からの逃走」・『謹賀新年』
    「新年はあらためて『月』に信念あり、良き年を」


   


     1月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

卯年
あけましておめでとうございます。
卯年ゆえ、ウサギをひとまず象徴。
世界的に「月」との関連性があります。
なぜこれほど見事な世界的にも民俗的なシンボルが「ウサギと月」なのでしょうか。
「月」を見つめる一年にしたいと思います。
ひとまず、この21世紀も11年目になりました。
果たして、この一年もこのブログを連日書き続けられるかどうかは不安です。
しかし、まっすぐに時代を見つめて本音をたとえ批判されようが編年体的な記述をめざします。
ともかく、体調大事に昨年同様に「行学」の精進と修練は果たしていく覚悟です。
なんとしてもやり遂げたい「かたち」に向かっていきたいと思います。
それが、私の「きもち」と「いのち」をつないでいるという信念があるからです。
おそらく、このブログでは変わらずの独り言を、
まずは「自分のため」を書かさせてください。
そして、読者諸兄の皆さんにも何らかの「日常的思考のヒント」と「かたちからデザイン」を
読み取っていただく動機になるよう心がけるつもりです。
なんとしても「幸運」な年にしたいと願っています。
きっと、「月」を見つめて信念の確認ができるのではと思う年にしたいと考えています。
合掌

元旦


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