kazuo kawasaki's official blog

Archive for 2月, 2011


2月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 28th, 2011  Posted 8:25 PM

2月28日友引(甲寅)

大衆性と脱大衆性、あるいは非大衆性、
それぞれの趣致を人は知るべきであ。

『デザインの極道論』趣致


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「資本主義からの逃走」
 「喜怒哀楽すべてに『痛み』あり、母の形見」
  


   


     2月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽の痛み
私はある日突然、障がい者になりました。
交通被災直後、手術麻酔覚醒直後はじめ、
ともかく病院で、命を限界で支えているときの
身体的・生体的な痛み=苦痛は耐え難きものです。
痛い経験なんて生まれてから数え切れないほど体験するはずです。
にもかかわらず、損傷した部位の痛みは天候季節、
さらに精神的に自分を確認しなければならないとき、
その『痛み』は激痛を超えるほどのものです。
しかし、生体的な痛み以上のものが、
喜怒哀楽すべてに潜んでいます。
どんなに考え込んでも、最も哀しいことは死別です。
痛みを識るという母の形見
私は、被災後、自分が激痛のときになんとしても置き換えてイメージしていたのは、
癌で苦しんでいた母のことでした。
47歳で逝ってしまった母は、
当時、腸捻転で腹膜炎の疑い程度ということで手術を受けました。
そして開腹したらすでに消化器系すべてに癌はひろがっていました。
手術室に呼ばれた父が卒倒し、今度はすぐに私が呼ばれて、
ドクターは胃から小腸までを両腕で抱き上げて、
「手遅れだから、このままで縫合する」と告げられました。
この時の場面を思い出せば、
『痛み』は二重になりつつもかき消されたかのようになります。
喜怒哀楽の痛みから確認すること
人は、喜怒哀楽が生涯に連山のごとく高低ある振幅に乗せられ揺すぶられ、
時には、喜びにも楽しみにも『痛み』は潜んでいます。
当然、怒りと哀しみの『痛み』は、自死を決意しようというほどのことも起こります。
そして、この喜怒哀楽は、各自だけの同一性、その確認に密着しています。
つまり、『痛み』は自己の存在性、その確認に直結しているということです。
障がい者になって、たった47 年間の生涯、
その21年間を私に与えてくれた『痛み』から学んだ「母からの形見」です。
私は、同一性の確認とは、
喜怒哀楽すべてにある痛みを識ることに尽きると確信しています。


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2月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 27th, 2011  Posted 9:34 AM

2月27日先勝(癸丑)

致知
より吟味された知の世界

『デザインの極道論』致知


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「資本主義からの逃走」
 「全体価値を創る、自己確認するための痛み。」
  


   


     2月 27th, 2011  Posted 2:13 AM

あらためて、私の夢の形見
デザイナーになってちょうど40年です。
すでに残された時間ということを考えます。
しかし、28歳で最初の死に際を実感しながら
40歳までの時間を意識していたにも関わらず、
心臓病、敗血症、と3度も「あの世」の入り口まで行ってきました。
そのおかげで、何を残しておくべきかはすっかりわかっています。
デザイナーであるがゆえに、無論、「造形」から「思考結果」、
さらに、私の持ち時間では完成できないコトは、
次世代、次・次世代に期待と希望を託すだけになりました。
その大きなテーマが、
「デザインは付加価値ではなくて全体価値を創る」ことだというコトゴトです。
それを、今、私に要請されているモノづくりと、
自分が果たしたいコトを懸命さと賢明さでということを言い聞かせています。
具体的に、「私はここまでやったから、あとはよろしく」ということでしょう。
そういう意味では、大学環境と企業環境を往来できることは、とても幸運なことです。
「全体価値」が観えるというのは、
私にはとてつもない「欠損・欠陥・欠落」部を身体的に毎日自己確認できるからでしょう。
自己確認となる身体的痛み
その自己確認とは今なおひきずっている交通被災での損傷部位の「身体的な痛み」にあります。
喫煙すれば、この痛みは一定になります。だから喫煙は麻薬に等しいのです。
酒を飲めば、この痛みはまったく感じなくなることも充分に知ってしまいました。
しかも、この痛みという自己確認のマーカー値が暴れ出すとき、
私の心臓病は、頻拍から細動に至る危険性がありますが、
ICD(除細動器)を植え込んでいるのでパルス衝撃で食い止めることになるでしょう。
私の身体的痛みが毎日毎日明確であるがゆえに、
私だけが伝えることのできる人間であるという同一性を「かたち表現」にしています。
耐えきらないほどの痛みに立ち向かえることの体力と精神力を鍛えるためには、
「自分に喧嘩」を仕掛けるわけです。
62歳、スタッフや教え子たちが祝ってくれました。深謝です。
まだあと少し私定義の「全体価値」、みんなに伝えたいことがあります。
私の「夢の形見」でもあるのです。


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2月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 26th, 2011  Posted 9:31 AM

2月26日赤口(壬子)

私は、熱が三十八度でも、
相当に集中して本を読めるという
特技と自信(?)は自負である。

『デザインの極道論』趣致


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2月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 26th, 2011  Posted 1:28 AM

2月25日大安(辛亥)

どうせベッドで過ごさなければならないから、
もうがむしゃらに本を読めばいいだけだ。
相当の読書ができた。

苦しくてねむれないなら、
本を読む。

『デザインの極道論』趣致


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「資本主義からの逃走」
   「ブランドは付加価値ではないということ」
  


   


     2月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

ブランド化が創出する価値性
なぜブランドブームなのでしょうか。
理由は前述していますが、
私はブランド=焼き印的な目印では決して語れない、
さらに伝えきれないことがあることを指摘しておくことが大切だと考えています。
企業・商品という経営資源から富を獲得して、
その企業体の帰属者から、企業が存在している社会に、
何をもたらすのかということが全く不明になってきているから、
ブランド戦略なるものが横行しているにすぎません。
すぎないどころから、こうしたブームで抹消されていく事、
そのことを見極めることの重大さがあるということです。
このブームは、いわゆるファッション系の歴史ある欧州ブランドの真似事が源です。
欧州ブランドの商品価値感、これを付加価値と呼ぶ錯覚があります。
そして、デザインをも付加価値の創出職能だという、
私に言わせれば、大誤解が蔓延していることにつながっていることです。
デザインは、「全体価値」だということです。
ブランド化という「全体価値」
ブランドがもてはやされているのは、いわゆる欧州系のファッションブランドです。
しかし、こうしたブランドはある種の「カルテル」的に統制された老舗表示です。
その老舗ゆえに、歴史的に蓄積されてきた全体価値があることを見習うべきでしょう。
こうしたブランドの基盤が、アイデンティフィケーションにあることを確認するべきです。
当然、企業体として経営商材である「商品性」と「サービス性」を確認する必要があります。
そして、企業創立以来、時代とともにその時流との応答には、
必ず、時代認識での問題解決が、商材から企業存在性を常に確認してきたことがあります。
つまり、商材に向けて培ってきたことがブランドとして認知され、
今度はブランドになっているがゆえの新たな価値感の創出、
それは全体価値になっているというサイクルで語りきろうとしていることが重大だと思っています。


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2月26日Staff Blog


   


     2月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

2月26日

新オーディオ機材導入のため、
手持ちCDのiTunes取り組みを進める
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

最初はもちろん
「ザ・ビートルズ・ボックス」から


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2月25日Staff Blog


   


     2月 25th, 2011  Posted 9:35 AM

2月25日

お土産でいただいたチョコが、
こんなにもこだわりのお品でした。
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
も、ボルトとナットを外してみたり。


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2月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 25th, 2011  Posted 12:47 AM

2月24日仏滅(庚戌)

趣致
品位あるおもむき

『デザインの極道論』趣致


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