kazuo kawasaki's official blog

Archive for 4月, 2011


「『安全神話』も『脱原発』も同義語である」


   


     4月 26th, 2011  Posted 12:21 AM

フクシマ原発は未来を剥奪。
震災以来の現実です。
原発被災立地の地域は日常性も無くしました。
そして、原発推進派は徹底的な非難対象者です。
これまで推進に賛同してきたことは誤りだったと、
まるで懺悔まで始まっています。
「脱原発」にのみ正義あり、
この世論性が、原発立地での被害判断性から生まれ、
この大きな世論が圧倒化しつつあります。
これは、明白にまだまだパニック状況が連続していること、
「予断を許さない」という連日報道で、
蓄積してしまった疲労からの判断だと思います。
だから「反原発」が「脱原発」という思考進化に至っています。
しかし、ソーラー発電、風力発電、地熱発電などという方向が、
果たして本当に正しいという保障も確実ではありません。
今、最も正当な判断をするには、
このパニックから一度離脱した見方が必要だと私は考えます。
突然のように、これまで原子力推進で「安全神話」側が、
ソーラー発電の有効性が、
20%から75%は可能と言い出し始めました。
これもまだまだ机上の論理に過ぎません。
発電技術だけの問題ではなくて、
発電・変電・送電・蓄電までこの四つの統合的判断が、
「脱原発」には欠落しています。
当然ながらこれまで、「安全神話」で取り囲んでしまっていた
原子力推進派と肯定派も大間違いをしていたのです。
「反原発」はドイツの緑の党首・ユリゲン・トリッテンです。
彼には「反原発」から「脱原発」は当初から皆無だったことを、
日本ではまったく報道も著作もありません。
ユリゲン・トリッテンの言動は国際的にも、
荒唐無稽なアジテーションだったことは明白な事実です。
「原子力」をきわめて深く知性的に判断評価しなければ、
「安全神話」も「脱原発」も、いづれ同義語だったということを
私は想定しています。
「想定外」などありえない新たな発想とその技術開発を望みます。
発電・変電・送電・蓄電までの統合的なデザイン、さらには、
節電、省電までを「想定内」とするデザインが必要です。

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4月25日Staff Blog


   


     4月 25th, 2011  Posted 10:56 PM

4月25日

長い間、芸工生の胃袋と
心の支えになってくれていた
名市大芸術工学部食堂の
おばちゃん和田静子さんの
おつかれさま!Party
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
も参加しました。


このおつかれさま!Partyの主人公
和田おばちゃん


また、今の芸工生への愛情とともに
和田おばちゃんの要望によって
開催の運びとなった特別講演会


講演の後、
おばちゃんを囲む謝恩会に参加した
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
おばちゃんのために集まっていただいた
歴代の先生方、たくさんの卒業生、在学生
とのおばちゃんへの感謝の時間でした。


おばちゃん
本当におつかれさまでした。
また、ありがとうございました。


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4月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 25th, 2011  Posted 3:33 PM

4月25日 先勝(庚戌)

このような、
「制度化された情報交換方式の蔓延」と、
超限界という
「狂った情報社会」を
見過ごすわけにはいかないと考えている。

『デザインの極道論』限界


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「市民運動のパトロンは決定的資本主義」


   


     4月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

まず、市民運動に疑念があります。
昨今は誰もが政治の主役。
だから政治は素人で充分という認識。
そうでしょうか。それは無理でしょう。
政治家と言うほどですから専門的職能だと私は考えます。
当然、どのような職能も素人から始まりますが、
やはり政治家になっていくには基礎知識とそれを支える教養、
そして、立法・行政・司法という法律立案運営を支える哲学。
さらには経営能力など政治家素養は拡大しています。
自身の能力で叶わないならばそれなりの専門家アドバイス。
しかし、アドバイスとの対話が出来うるだけの自己啓発力です。
したがって、市民運動が対象としている「ある問題」設定と、
その問題意識だけではいわゆる「情報処理認識」は不可能です。
ひとまず、ここまでのことがらを政治家資質に求めます。
そして、市民運動もさることながら選挙ともなれば、
その活動資金は不可欠です。
ボランティアが全てを支えられる訳ではないでしょう。
すでに明らかになっていることは、「反なんとか・・」には、
必ずパトロンがいるということです。
いわば、そのパトロンは資本主義的な自己利益のために、
世論、たとえば安全神話を操作するだけのために、
当初は純粋な人を市民運動家にしているだけです。
これはほとんどイデオロギーや思想哲学というより宗教です。
したがって、新興宗教団体がパトロンということになれば、
あの「オウム真理教」を思い出します。
宗教法人格を持ち、この法人格=集金装置に出来ます。
明らかに、これは資本主義を変調させています。
哲学と錯覚する新興宗教観での洗脳です。
今、国際的にも、捕鯨禁止だという市民運動、
反核運動、自然回帰運動、CO2問題運動、反原子力運動にも
パトロンが存在していることは明らかです。
私の疑念はここに止まりません。
市民運動・住民運動・学生運動など、
すべからく「人気度と認知度」、
そうした運動の中心人物のカリスマ性まで加わってくれば、
これは民主主義と言うより、
大衆主義が派生しているということです。
だから民主主義と大衆主義での共通項には、
まず、賛同者数ということ=多数決が民主主義という盲進錯覚を
強引なカリスマ性が引導する必要があるということになります。
これは常套手段であり資本主義利得が必ず張り付いているのです。
地方分権(資本主義の矮小的象徴)が声高になってきていますが、
これが市民運動とどれほど接近しているのかは、
さらに「国難」に覆い被さっています。
あらためて、政治へのパトロン性には厳密な監視が必要です。
このパトロン性から、「政治家存在」と「政治家同一性」を
徹底的に確立していくことが国難への前提です。
復旧・復興を語る前段、「救援」はまだまったく終わっていません。
市民運動がまだ立ち入ることができないのは、
パトロン欠落があるからでしょう。
国難と市民運動は充分に対照化できることになっています。
そして無念極まりないのは市民運動家が首相リーダーという悲劇です。

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4月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 24th, 2011  Posted 9:30 AM

4月24日 赤口(己酉)

どんな時代であっても、
自分の肉体や頭脳だけが
メディアであり、ツールである。

自分の未来は独力だけで
自作していくものなのだ。

『デザインの極道論』限界


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「民主主義の破壊者は市民運動家である」


   


     4月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

自由・平等は市民生活の基本です。
そして、平和で健康を実現するという理想主義。
17、18世紀、英・仏・米ではこの理想主義を
連帯して、政治への抵抗と擁護を図ろうとし、
それが市民革命という経験となり、
市民運動の原型だったと考えます。
現代になると、この経験は巨大に拡大します。
「市民的自由」という概念的武器は,
言論とデモ行進とハンガーストライキ、マスコミ支援など、
暴力性の否定が世論を味方にすることができました。
私はこうした歴史から市民運動家という職能が生まれたとき、
市民運動は自由権と生存権の訴求が、
国際的から地域的へと展開するとともに、
その連帯性をさらに資本主義体制の背後支援によって、
その「市民運動家」を変質させたものと考えています。
特に、日本での市民運動の展開は、
大正デモクラシーなど文化性がありながら、
資本主義否定があったことから弾圧され、
以後、市民運動展開は大幅に立ち遅れたと思っています。
日本での市民運動は、その指導者のイデオロギーによって、
そのすべてが「反体制運動」となり、
時には、住民運動や学生運動と重なりその利得配分での連帯性を隠避し
すべからくが「反体制的」よりも「反権力的」な性向を有してきました。
したがって、この市民運動家からの代議員職能は、
あたかも市民の代表者であって、
市民の声を代弁しているという幻想が張り付きました。
しかし、この幻想こそ、
その市民運動が暴力的イデオロギーを臭わせていても、
偏重した資本主義に擁護されているものがほとんどです。
結果、市民運動家という存在が、
民主主義をその根本で破壊しているものと考えています。
したがって、市民運動家からの国家的リーダーには、
国家的な政治実務能力があるわけがありません。
そして、市民運動や住民運動で語られる「反権力性」は、
こうした人たちが体制側になったとき、
決まってより強固な「権力武装」をなしとげてきたことは、
人類の歴史に明らかだと判断しています。
これまで、市民運動が主張の核心としてきた、
「反戦・反核・差別・情報公開・自然保全」には、
スローガン性やアジテーション性はありますが、
それ以上の実務的な理想主義実現企望は欠落しています。
これまで私が市民運動家で、首相や首長となった人物に、
思想的共鳴をしたことは全くありません。
正直なところ、政治家としては、
嫌悪と軽蔑感を持っていることを述べておきます。
市民運動家こそ、民主主義を破壊していると考えています。

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4月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 23rd, 2011  Posted 9:30 AM

4月23日 大安(戊申)

ホームページで
企業や大学院を選別し、
その画面に自分を映し出しても、
それは虚像の自分に過ぎないことを
知ってほしい。

『デザインの極道論』限界


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「民主主義が護ること、破壊することを分別」


   


     4月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

国会は、議員制民主主義の「場」です。
しかし、天災と原電事故の政治の場が、
なぜ首相官邸なのだろう。
どうしてあの場の議論で決定したことが、
被災地運営で可能になるのでしょうか。
代議士からさらに選別されたリーダーの実務能力、
これがこれほど無能であることに私たちはNOを告げるべきです。
官邸で閉じこもっている指導者に
何が見えているのでしょうか。
明らかに、国会の場からも被災地という場は見えません。
もっと見えないのが放射能。
かと思っていたら、ますます見えないのはリーダーの方針。
民主主義を標榜し、共有と共時感覚を有しているのは民間であり、
そして行政それぞれ「地方」であることが露呈しました。
「中央集権国家体制」は破滅したと考えるべきです。
無論、これは民主党に限らず自民党も同罪だと思います。
民主主義だから私たちが護られてきたことがありました。
たとえば、水道の水が飲める国家、
しかも「うまさ」まで追求できた日本でした。
私たちは、そのことに慣れ切ってしまったのでしょう。
私たちも反省と自省が求められています。
世界140ヶ国で水道完備は13ヶ国と言われています。
ところが、民主主義を建前に「隠匿」してきた「原子力」は、
企業利益=資本主義の我田引水への固守により、
本来は「理想主義対象であるべき原子力」を破壊したのです。
文明の利器ゆえに、その危険性を「安全・安心・信頼」を
台無しにしたのは、誤った資本主義とその下意識主義の民主主義。
あらためて、民主主義の罪と罰を明確に分別する大きな機会を
わが国は手に入れたことを確認しておきましょう。

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4月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 22nd, 2011  Posted 9:30 AM

4月22日 仏滅(丁未)

学生たちは
画面のホームページと対面しながら、
その画面上に
自分の未来を見つけだそうと
必死になっている。

限界があることを知ってほしい。
画面の中に、
君たちの未来などあるわけがない。

『デザインの極道論』限界


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「代議員には教養と財産があるべきだった」


   


     4月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

議員制民主主義は近代憲法の賜物。
真っ直ぐな理想主義だと思います。
そして、この制度は英国から始まりました。
政治という支配構造の根底には、
「声なき声を」代理で議論する人が代議員です。
この英国式議員制もすでに限界がきていると想像します。
そういう意味では「民主主義も終焉」しています。
かって、英国での代議員には二つの条件がありました。
「教養と財産」がある人物によって議員制民主主義が出発しました。
わが国の議員制民主主義を司る代議員には、
教養は学歴となり、財産は代議員という商売での蓄え財産贈与。
このようなことが明確になってきたのが、
日本の議員制民主主義を「声ある声が」取り囲んでいます。
だとするなら、代議員が為すべき責務は放棄されていることです。
明確なことは代議員にあるべき「教養」と「財産」を
再度検分し直すことでしょう。
すでにこの事などは幾たびも日本の「声なき声」の中にあります。
教養が学歴ではありません。日本人全ての了解事項です。
今回露呈したことは御用学者の卑しさだったと言えるでしょう。
建設族、原子力族、電力族とよばれていた代議員たちが、
多数決=票集めに、学歴を教養と読み間違えていた無能さです。
大学人としてこのような学者たちをどれだけ見てきたでしょうか。

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