kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2011


「秩序ある群衆=価値感は多様化しない」


   


     5月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

少衆・分衆・個衆という呼称がありました。
大衆の価値感が分化していくという意味でした。
「価値感の多様性」というのは、
1980年代から、日本市場の読み方が始まったのです。
この当時私はフリーになったので、
時代的な特性の読み方をプロとして覚え始めました。
それはフリーランスデザイナーとして、
デザインを商品化していく上での市場分析でしたから、
記憶は今も連続しつつさらに時代を凝視してきました。
この読み間違えをしたデザイナーは消えました。
私がほぼ40年間、日本の市場には、
「価値感の多様性」は起こってこなかったと見ています。
「価値感の多様性」というのは、
マスコミの怠慢的な説明に過ぎなかったのです。
それを大手広告代理店が商品の「差別化」を、
アジテーション・プロパガンダする手段でした。
わが国日本は一言語一民族ということでは、
価値感がいつでもある方向に収束していく、
きわめて秩序ある群衆という大衆だと評価しています。
決して価値感は多様化などしていません。
むしろ、少衆化と分衆化は起こっていますが、
この分化も群衆化という無秩序性にならないという、
ある種の担保的な価値感枠組みに過ぎません。
結果、政治への不信感が高まれば、
決して群衆的な無秩序さで「革新」などには到りません。
「革新」というより、
今なお「維新」という呼び方が好まれる次第です。
秩序ある群衆には全く「価値感に多様性」は無いのです。
秩序ある群衆としての力は、
必ず、一方向へ収束するでしょう。
それでもこの力こそ、
国難を乗り越える底力になるのかも知れません。

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5月23日Staff Blog


   


     5月 23rd, 2011  Posted 3:09 PM

5月23日

4月9日の発売以来、
好評をいただいている、
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
監修したスポーツ・アイウェア
Zoff Athlete」。
zoff athlete

日経トレンディネットでも、
取り上げていただきました。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20110511/1035602/?ST=life&P=3

全国のZoffの店舗にて、
是非一度実物をご覧下さい。


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5月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 23rd, 2011  Posted 1:07 PM

5月23日 戊寅(赤口)

「自分を表現すること」……
それは、
何かをつくることだ。
絵を描いてみればいい。
音楽を創ればいい。

ただし、
文章で自己を表現しないほうが
いいだろう。

『デザインの極道論』面罵


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「専門家の表現は手で美しく表現するべき」


   


     5月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

絵図という言葉があります。
安土桃山時代からの戦略用語。
デザインの昔からの邦訳語と言えます。
「絵図を描く」というのは、
企みを巡らすことを意味しています。
絵図とは見事な会話用語(パロール)でした。
デザイナーは、スケッチでアイディアを出し、
レンダリング(完成予想図)と図面仕様図で表現します。
まさに、絵図=企画と計画をする職能です。
だから、design=企みという意味と全く通底しています。
さて専門家には、それぞれの思考経過やその結果、
そうした企画・計画の図解形式を持っています。
楽譜・数式・方程式・化学式(亀の子=ベンゼン環)や、
システムチャート・回路図・金型図面など、
すべからくこうした図解の背景には専門知識が必要です。
遺伝子チャートなどもある種のアルゴリズム的図解です。
最近は、こうした専門的図解形式はPC画面や、
iPad上でも出来るようになってきました。
しかし私はこれが問題になりつつあると考えています。
楽譜も現代音楽では変貌しています。
薬学も、PC上での亀の子から脱出を狙っています。
iOS4なども、思考とプログラムが一致し始めています。
つまり、いかにも専門的図解が進化しているようですが、
「手で描く」という手続きでの発想は小さくなっています。
手が考えるということには重大な意味があるはずです。
最も、メーカー依頼できる図面が描けない教育が、
日本の大学教育では増加しています。
結局、モノづくりのための図面・図解化が出来なければ、
製造生産仕様にする創造性の開発は無理です。
結局、図解の意味、特に美しい図解は、
発想・表現・伝達での大きな効能性があります。
ということでは、図学を超えた図解教育が必要であり、
しかもそれは「手で描く」技能が必要だということです。
そこで連日目にしている原発炉心図解や、
放射能汚染地帯の地図などは、この美しさがありません。
そのことを指摘しておきます。
未来の絵図を描くには、
手で発想し表現する能力がPC操作以上に必要だと
私は考えています。

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5月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 22nd, 2011  Posted 9:30 AM

5月22日 丁丑(大安)

我々が面罵しなければならない
対象は何であるのか、
ということになる。

そのためには、
日常的で生活密着した場面で、
「面罵するのは、今だ!」
という感覚を鋭敏にしておくこと。

これは実は人間の野生である。

『デザインの極道論』面罵


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「タブーにしたのは原子力技術の無知能さ」


   


     5月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力テーマはタブーです。
私は、自然エネルギーを代替エネルギーにするために、
原子力技術はその根本にするべきだと考えています。
ただし、この根本は現在までの原子力系譜そのものを、
断絶させた発想へ転換するべきだと断言しておきます。
したがって、以下の思考を引用し比喩し、
そして言い換えてデザイン思考の下敷きにしてきました。
私はロボット評論をヒントにしています。
それを引用し比喩し言い換えます。
その評論は、J.ボードリアール著作、
「物の体系」です。
次のように引用します。

 ■「もしも原子力が、
その原材であるウランあるいはプルトニウムが、
全く密閉され放射能発生を制御自在なシステムであり、
どのような攻撃からも防御でき、
被曝不能状態であるなら、
そのシステムのエネルギー供給は完全に確約される」。

これは形態論=実装構造論的な言い換えです。
さらに、身体論=機能効用論的には、

 ■「もしも原子力が、
その人工的なシステムとして自然との関係を、
何世代にわたっても安心できる実働システムなら、
私たちは無自覚に信頼をすることになるだろう」。

おそらく、原子力学者はもちろんのこと、
ロボット学者もこの著作は知らないのでしょう。
だからロボット開発にも、原子力開発においても、
まったく無知、強調すれば無知能だったのです。
ナガサキ・ヒロシマを原子力へのトラウマだった私たち、
だから虚偽をつくして「安全神話」化し、
フクシマで決定的に信頼感を失わせた原子力関係者に、
ロボットと人間の共生を熟慮した思考無知さが、
原子力と人間との共生をも打ち壊すような
原子力をタブー化させたものと私は結論づけています。


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5月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 21st, 2011  Posted 9:30 AM

5月21日 仏滅(丙子)

面罵すれば、
結局それは、
ブーメランのごとく自分に戻ってくる。

そのとき、
そのブーメランは刃物になって
襲いかかってくることだって
十分に知り、体験している。

『デザインの極道論』面罵


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5月21日Staff Blog


   


     5月 21st, 2011  Posted 3:19 AM

5月21日

教え子が仕事に邁進している活動報告
そして結婚報告も、やはり嬉しい
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

・たんぽぽの家
・アートセンターHANA
・FLOWER STATION


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「新日本システムとは「生命と生きがい」」


   


     5月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

ともかく連日認識しておくこと。
東日本大震災・原発事故は国難です。
そして被災地は、津波と原発地域の救済。
戦後確実にしてきた日本システムがありました。
当然、問題は国内外、相変わらず問題山積でした。
そしてこの国難が決定的に日本システムを壊滅したと認識します。
震災前には、日本システムに対する私たちは、
すでに「政治」・「経済」から「福祉」・「教育」、
そして「国防」などに全国民が大きな不安感にあったことは事実。
この事実への問題解決を議員制民主主義を司る政治家・政治屋へ、
まったく信頼感を失ってきたことも大変な事実でした。
したがって、日本システムはすでに壊れていたのです。
それが、震災・津波・原発事故で歴然として明確になったのです。
結局、私たちも日本システムが崩壊していることへの自覚を、
「政権交代」に向けて期待したことも幻想だったということです。
日本システムと私が言っているのは、
私たちの「生命」に最も直結した私たちの存在性維持体系です。
私は身体障害者で車椅子生活を余儀なくし、
心臓障害で、常に、心臓発作への恐怖感を日常化しています。
しかし、大学=教育・研究とデザイン=モノづくり=商品化で、
私なりの「生きがい」で生命と自己存在性を保持しています。
すでに老年期にある私は、
この「生きがい」を次世代に大きな希望と期待を持っています。
けれども、この国難を現前とすれば、
次世代に、大急ぎでこれまでの経験と、
今なおモノづくりデザインでの具体的活動を示すだけです。
そして可能であるなら、
現政権に関わる代議員職能を完全に破壊することで、
東日本被災地だけではなく日本全体を、
まったく新しい日本システム構築にむけて、
次世代が主役でやり遂げる環境と知恵を
私たち世代が準備する役割になっているというのが本音です。
日本システムとは日本人の「生命」と「生きがい」体系です。

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5月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 20th, 2011  Posted 10:23 AM

5月20日 先負(乙亥)

私は「面罵」という行為には、
もちろん
「する側」と「される側」との間柄に、
いわゆるインターラクティブな
相関関係があるから、

その相互性で、
あらためて現代での人間関係を
見つめなおせる可能性が
あると判断している。

『デザインの極道論』面罵


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