kazuo kawasaki's official blog

Archive for 6月, 2011


「みる・きく=正確さと曖昧さが同居」


   


     6月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

「みる」という行為。
視覚的に見る・視るという感覚、
さらに、観る・診る・看るまで
それは感覚から行為にまで及びます。
「みる」ことが行為から行動というのは、
感覚的な行為が確信的な認識行動だということです。
それは、その感覚を支援する帰納性から演繹性までを
「きく」ということでの認識性と対照化することが可能。
私はそのように思い、考えてきました。
抽象的な表現かもしれませんが、
「音をみる」ということを代替するには、
音質とか音色とか音場をまさに診ることと看ることです。
オーディオファイルと呼ばれているマニアックな人、
私もその一人ですが、常に、音を診るのです。
やや高音が高すぎるとか、低音の響きが不足気味だとか、
このようなことに耳を澄まして聴いているわけです。
結果、アンプとかの機器だけではなく、
コードだとか、その機器の設置方法にまで、
いわば診断して音響システムを看護するようなものです。
だから、一旦信じ込めば、ある音響ブランドなら、
絶対に確実というイメージが音感を支配します。
私が東芝でオーディオブランド「Aurex」に関わった時、
家電を造っているメーカーなど信頼できないという
まさに風評に取り囲まれていました。
いわゆる「目隠しテスト」をすると、
ブランドや外観の印象が不明なために、
オーディオ評論家でも、「Aurex」の新製品を合格とし、
伝統的な有名ブランドを不合格にすることが増えました。
ということは、
聴覚というのは、正確であったり曖昧でもあるわけです。
したがって、オーディオには信仰心が重なっています。
私などはどっぷりその信仰心で、
自分の音響システムを崇めていると自覚しています。
しかし、この信仰心は常に揺らいでいますから、
「みる」ことも「きく」ことも、
正確・曖昧が感覚と認識には常駐しているのでしょう。
常に意識しておく感覚の前提だと判断しています。

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6月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 25th, 2011  Posted 10:00 AM

6月25日 仏滅(辛亥)

デザイナーや建築家は概して、
自分の作品で、自分のデザイン手法や
デザインに対する考え方を
伝えることになる。

が、私は、この方法では、
デザインの専門性や
デザイナーの主観性に偏ると思う。

『デザインという先手』手解き 伝道しながら


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「私的宗教感としてのダンディズム原点」


   


     6月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

見るより視ること。
聞くより聴くこと。
この二つが私のいわゆる視聴覚の感覚。
美大で、見ることから視るということ、
オーディオ機器で聞くから聴くこと、
これらが私個人の視聴覚への感覚検証です。
しかもオーディオ機器に携わって社会人デザイナー、
無論卒業制作は3Dオーディオシステム実働機器でした。
絵や彫刻を見るというより視るという感覚が、
自然と身についてきた感覚があります。
オーディオはすっかり趣味ですから、
自宅の音響システムは、
ワイフを懸命説得で日常的な満足を目指しています。
なにしろ、「これがなぜこんなに!」って言われます。
視る、という感覚は、メガネとモニター設計に直結。
だから、デザインと技術の関係を突き詰める、
そんな幸運で幸福を味わい続けてきた気がします。
そして、私の生涯で大きな変革がありました。
いわゆる視聴覚機器の技術革新、でした。
したがって、デザイン設計もその結果の自分確認も、
有意義な経験を持つことができたと思っています。
それは、「アナログ」と「デジタル」という技術変遷です。
だから、「アナログからデジタルの狭間で」という論考を、
そのままオーディオ専門誌で連載したこともあります。
しかし編集部との考え方違いでこれは数回で喧嘩終了。
それでもいまなお、この「狭間」に私の感覚があります。
幸運なことは、
視覚対象のハードウエアも、聴覚対象のハードウエアも、
私なりには、「男の子」としては、まあ満足幸運してます。
よく、学生やスタッフには、
「男の子」としてだったら、
要はダンディズム対象があるという話をすぐにします。
ファッションからはじまって、
カー・カメラ・オートバイ・自転車などなど玩物嗜好、
これこそダンディズムであり、男の子感覚の極致とすら、
私は思って信じているいわば私の視聴覚宗教感でしょう。
ついつい話がはずれましたが、
この話が一番、自分も元気で希望・企望の原点です。

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6月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 24th, 2011  Posted 2:28 PM

6月24日 先負(庚戌)

「デザイン」という言葉の原意から、
その言葉が歴史的に、
どのようにデザインの対象を
展開してきたかということを
徹底して話すことにしている。

『デザインという先手』手解き 伝道しながら


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「百聞と一見、百見と一聞」


   


     6月 24th, 2011  Posted 1:04 AM

「百聞は一見にしかず」。
古来、日本の警句です。
それなら、この真逆はどうでしょう。
色々聞き回るよりも、
一瞥で分かってしまうこと。
色んな所を駆け回るより、
一言聞けばそれで十分に理解可能になることの有無です。
無論、理解対象の区別は先立ちますが、
私は、これは双方とも同じ事だと結論づけています。
しかしむしろ、盲目の人は、聞くだけで十分であり、
全てを見つめて知り尽くしているはずのことが、
健常者の人が見えていない=認識不可能に陥っている方が多いです。
かって、「まちづくりのための歩いて観察」など、
そんなイベントでは、
白杖の人が、あそこの細道は救急車が入れないとか、
あの道路の側溝には落ち葉が溜まるとかを発見。
だから、私はこんなイベントには必ず、
盲目の人が絶対に不可欠という発言をしてきました。
私は、車椅子ですから、
視界が「座った位置で視線高」が一定です。
むしろ、地面や床の方がよく見えてしまいます。
だから常に空を仰ぎ見ることを習慣にしています。
おそらく、座っている位置と立っている位置では、
空気の流れすら感じ取る大きな違いがあるはずです。
今やTVで見聞することで情報要素は膨大です。
しかし、TVよりもラジオを聴くことの方が
かえって情報要素に対して、
詳細な認識感覚が研鑽されることが多い、
と私は確信しています。
結局人間の感性の振幅巾は個性差や経験差はありますが、
「見る」こと・「聞く」こと=see・hear
「観る」こと・「聴く」こと=watch・listen
この同価値性にする感覚は鍛錬が必要だと思います。
座禅とか瞑想とかメディテーションは、
その手法の一つであることは確かです。
私は、適うことなら、五感を超越し、
決して迷信でもなく占いや予知能力でもない、
いわゆる第六感の世界にすぐにワープしたい限りです。
今、私の方法にはラジオに対して、聞くというより、
聴くということの大切さを強く感じている次第です。
早い話が、TVやwebsiteで「視る」ことを、
「聴く・聞く」という翻訳によって精査している最中です。

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6月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 23rd, 2011  Posted 11:50 PM

6月23日 友引(己酉)

私の最も典型的な伝道手法は、
いくつかのパターンや形式におさまる。

まずは、
現在の社会状況や時代環境の問題点を整理し、
そうした状況と
デザインの関連性を必ず入口にする。

『デザインという先手』手解き 伝道しながら


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「見ること聴くこと・支えてくれる物質」


   


     6月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ロドプシン。
専門的な呼称は色々あります。
大学時代に「葉緑素のような物」、
それが最も印象に残っています。
視覚物質と一応呼ぶことにしています。
一般的には、自動車免許の試験問題に、
暗所視反応とか明所視反応とかで、必ず問題になっています。
トンネルに入る、明るいところから暗いところに入る、
そうすると目がその明暗に反応するという、
明暗を視覚細胞がコントロールされている物質です。
これは視覚細胞にどう働いているかということですが、
このロドプシンは、視覚だけではなくて、
聴覚にも影響を及ぼしているのかもしれないと思います。
あくまでも私流の推測ですが、
たとえば、目を閉じてオーディオで音楽を聴くのと、
目を開けたまま、
音を聴くのとでは違いが絶対にあると思っています。
それは、音をさらに精微に聴くというのは、
まさに「音色」という言葉を日本人は持っています。
音が見える、という感覚は、
闇という文字にも表象されているように、
暗いところで、視覚物質の働きは、
音が闇の中で、色付いて「見える」という感覚です。
音が見えるというのは、
ロドプシンが視覚から聴覚にも認識性を与えている、
そんな気がしてなりません。
したがって、明暗のコントロールが、
音色を感じ取る感覚に通底しているのでしょう。
音が「見える」ということには、
視覚物質であるロドプシンが、
聴覚細胞にも繋がっているという私なりの想像力です。

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6月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 22nd, 2011  Posted 10:08 AM

6月22日 戊申(先勝)

私の場合は、やっぱり
苦しんでデザインを成し遂げたい。
デザインだからこそ、
他からの評価が集中し、
褒め称えられれば、
デザイナーの花容が整うことになる。

『デザインの極道論』花容


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「見ること・見えることで分かること」


   


     6月 22nd, 2011  Posted 2:00 AM

見るためのモノ。
私のデザイン対象アイテムです。
これまで様々なモノを製品化、
そして商品として市場に出し、
消費生活の一端を担う仕事・職能を選んできました。
メガネはずばり視覚補正支援機器であり、
モニターやTVは、視覚での情報収集機器です。
また、デザイナー次世代には、
デザイン教育として、色彩論を教えてきました。
さらに色彩論から色彩学には、
「実習・演習」で、身体的に、自分の視覚的な認識と、
色彩表現となる知識の獲得と研鑽を教示してきました。
だから、「見る」ということ、
さらに「見えること」には差異があることなど、
自分自身、ほとんど日常的な経験の中で醸成されている、
そんな自負心とともに、反照としては、
「見えているのだろう」と自問自答の毎日です。
したがって、メガネは必ず自分のデザイン設計したモノ、
メガネフレームはほとんど持っているというより、
これは良いデザインというモノも収集しています。
モニター・TVは、どこがポイントなのかは、
結構知り尽くしていると思います。
そして「見る」ことを支えている生理的な視覚物質には、
その物質の科学性が専門家によって、
どこまで現代知られるようになっているかについては、
とても興味があります。
おそらく、視覚物質については未知のことがありますが、
多分、「見る=see・voir」から、
「分かる=see・savoir」には、この物質が、
とんでもなく関与しているのだろうと予測しています。
認識することへ視覚が及ぼすことを、
デザイナーという立場で知り尽くしたいと思います。

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6月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 21st, 2011  Posted 9:15 PM

6月21日 丁未(赤口)

メガネフレームのブランドは、
ほとんどがファッション系の
デザイナーブランドである。

悪口をいわせていただければ、
ファッションデザイナーのフレームは
デザインではなくて
デコレーションであり、
メディカルな思考など皆無である。

『デザインの極道論』花容


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