kazuo kawasaki's official blog

Archive for 6月, 2011


6月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 21st, 2011  Posted 12:59 AM

6月20日 丙午(大安)

花容
おおらかさと華やかさのある美

『デザインの極道論』花容


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「見えないということの連鎖」


   


     6月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

最近、放射能の見える眼鏡があれば、
こんなことが冗談、真剣な会話になります。
「コンピューターが消える日」、
MicrosoftのWinsows7発表時に、
このタイトルで基調講演をしました。
タイトルが過激と言われ一波乱ありました。
しかし、今や「クラウド」などが一般化してきて、
コンピューター、つまりサーバーが見えません。
見えないこと、インタンジブル=触れないこと、
これが幾重にも重なった時代になってきたのでしょう。
現実、原発も日常生活からは見えない場所にありました。
核廃棄物は地中深く埋めてしまいます。
そして、情報社会のあらゆる面を「見えなく」する文明、
この大きなパラダイムシフトが生活を包囲しています。
どうやら、情報社会は「見えなくする」こと、
インタンジブル文明へと技術方向を変えてきたのです。
「死」も見えません。見せない方向にあります。
ところが「生」の確実性は見えることと触れることです。
結局、今、私たちが直面しているパラダイムシフトは、
 見えること:見えないこと
 触ること :触れないこと
このコンフリクトの連鎖環に佇まされていると考えます。
電子出版は、まだゆったりとしていますが、
書店が街から消えていくのも、このコンフリクトです。
おそらく、東日本の復旧は「見えていてほしい」のです。
しかし、復興した街と町には「見えない」システムが、
必ず包囲することになるでしょう。
ただし、人間は、人類は、見えて触れることが肝要。
タンジブル性に最も信頼感があるということです。

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「レントゲン検診から放射能を・・・」


   


     6月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

私は定期検診では、
常に、X線検査を受けます。
28歳、交通被災後からです。
したがって、レントゲン検査では、
必ず徐々に被曝してきているのでしょう。
30年以上もこうした検査をしてきたので、
やがては・・・という思いがありました。
今年に入って、まだ明確ではありませんが、
「甲状腺に異変があるやも」という診断がありました。
ちょうど震災とフクシマ原発問題の前でした。
X線は、キューリー夫人物語という偉人伝で知ります。
おそらく小学校時代に知るでしょう。
しかし、名前は知っていても、
その詳細からレントゲンがX線での医療画像情報を撮る、
ここまでの歴史は、もう一度確かめてみると、
ベクレルなど単位になっている人物が、
放射能の周りの科学者としていっぱい出てきます。
放射能と対峙してきた科学者たちの研究という闘争、
これこそ、原爆から原発そして医療技術まで、
フクシマ原発の解決を人智的にしなければ、
そうした科学者の恩恵が台無しになるかも知れません。
もっとも、もう私の年代になれば、
「甲状腺異常」もやむなしですが、
次世代に放射能影響を考えると、
甲状腺からDNAへの影響などはすでに想定内です。
放射能のメリットと放射能のデメリットは、
あらためて原子力技術が人類にとっては大きな課題です。
原子力技術による発電があれば、
一方では、健康診断としてのレントゲン検診があります。
さらに、今、最も期待されている、
「重粒子治療」は癌疾病での治療方法として、
大きな期待がある分野です。
国内にこの「重粒子治療」病院がいくつかできれば、
保健料内治療が可能になります。
フクシマ原発の収束の中で私たちが熟考する問題です。

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6月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 19th, 2011  Posted 9:30 AM

6月19日 甲辰(先負)

学校が崩壊していくのは、
もうまさしく
落花狼籍なのかもしれない。

『デザインの極道論』落花


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「器械から機械そして機器へ」


   


     6月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

器械は活力を増大させる。
これはダ・ヴィンチの発想。
そして彼の発想器械には、
「計算機」と誤解釈されてきたモノ、
それは「速度を増幅させる研究」という
デッサンがあります。
すでに使われなくなった言葉である「輪軸」から、
12個ペアになった歯車がならんでいます。
そして、ダ・ヴィンチはこれを使えば、
速度は10の23乗になるという予測値があります。
現在の研究では、彼の計算間違いが指摘されています。
しかし、私はこの発想に目を向けると、
現代に到る、科学から技術の歴史変遷から
重大なことが見えてくると判断しています。
器械という言葉が機械となり、
今では機器という名辞になっているにも関わらず、
機械と機器を技術領域が曖昧にしてきたことです。
器械は力をつくらないはずが、
発電機器なるモノが可能なのかどうかということです。
電子機器、情報機器、音響機器という表現は正当です。
ということは、エネルギーを発生させる機械、
そのようなモノは成立するのだろうかということです。
私は、音響機器のデザインからデザイナーになりました。
機器が稼働するのは、
すべからく「エネルギーあってのこと」です。
文明はエネルギーの発展史でした。
そして、機器となって文明は文化創出になります。
私の関心はエネルギーと機器に焦点が集中しています。

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6月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 18th, 2011  Posted 9:30 AM

6月18日 甲辰(先負)

デザインが、
いかに理想主義をもって、
それを社会的に表現していく
唯一の知恵の表現であるか、
ということをグットデザイン賞の
制度ではもう
語れなくなってきたのかもしれない。

『デザインの極道論』落花


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「エネルギーはレトリックにならず」


   


     6月 18th, 2011  Posted 3:43 AM

エネルギーという概念は、
すでに、ヘロンの時代から。
ダ・ヴィンチもすでに、
器械は小さな力で大きな仕事量、
この考え方をベースにしていたのでしょう。
結果、彼は、
器械はまず力を使うことがあっても、
器械から力は絶対に発生しないと語っていました。
当時は「活力」ということばであり、
T.ヤングが1807年にギリシア語から、
エネルギーということばを創ったのです。
したがって、
「あの人はエネルギッシュだ」という表現は、
まさに当初の力=活力そのままを表しています。
energeia→en(内部)+ergon(仕事)という原意は、
「活力」という表現をさらに強化したことばであって、
修辞学的=レトリックにはならない直喩的なことばです。
今、私たちは「節電」という社会環境構造を、
絶対に受け入れなければなりません。
私は、原子力でまかなってきた電力は、
社会全体の「活力」そのままであって、
その本当は叡智であってほしかったはずの原子力技術を
蔑ろにしてしまったことに苛立ちと哀しみを感じます。
なぜなら、
「活力」=エネルギーは、
人々の活性化であり、社会の活性度であり、
「生きていく・生きながらえる」源泉を、
原子力技術を取り囲んでいた人達自らが破壊したのです。
「節電」とは「活力」を奪うことを直喩しています。
エネルギーということばが直喩にはなっても、
決してレトリック用語にはならない、
そのことをを噛みしめるべきです。

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6月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 17th, 2011  Posted 10:05 PM

6月17日 癸卯(友引)

落花
時代の流れのままに美しく

『デザインの極道論』落花


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     6月 17th, 2011  Posted 7:13 PM


倉俣史朗のデザイン「夢の形見に」出版記念講演
■ 日 時 : 2011年7月15日(金)16:00 – 18:00
■ 場 所 : 京都国際交流会館 イベントホール
        地下鉄東西線蹴上駅 徒歩6分
■ 入場料 : 学生1,000円、 一般人2,000円
■ 申込み : スペシャルページフォームより
出版記念講演の開催が決定いたしました。
上記サイトより、事前申込を受け付けております。

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「ダ・ヴィンチというエネルギー」


   


     6月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

レオナルド・ダ・ヴィンチ、
最も会ってみたい人です。
学生たちには、友人をつくること、
この大切さを自分の経験から話します。
そして、今は亡き友人は自分で決めることができます。
そういう意味では、
ダ・ヴィンチは私の友人の一人です。
頭を空っぽにして、彼のスケッチを読みます。
彼の手稿は、正直、不分明なことが多いですが、
「ことば」を仕入れることが可能です。
彼の寓話論は一つの大きな視点です。
また、アトランティコ手稿というのがあります。
これは、ダ・ヴィンチのスケッチである紙のサイズ、
アトラスサイズに描かれたいわばデザインです。
いわば、「五大器械」その組み合わせの発想は膨大です。
そして、思うのは、
ダ・ヴィンチだったらエネルギーを、
どのように考えついていただろうということです。
ダ・ヴィンチ「エネルギーコード」という考え方です。
水・火・人力、そして器械的な構造で発生するような
仕事量=エネルギーは読み取ることができます。
「マッツォッキオ」という形態のスケッチがあります。
これはまぎれない「トーラス」形態です。
これは、私にとって最も刺激を受けた形態です。
この形態を作成する部品点数などを描き込む、
ダ・ヴィンチという「人物のエネルギー」に、
まず心惹かれます。
つまり、人力の詳細さに宿るエネルギーも、
大きなエネルギー問題です。
そして、それを補強してくれたり増強する友人は、
大きなエネルギー源だと思います。
「エネルギー」、
このことばの意味には深度があり過ぎます。

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