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Archive for 7月, 2011


7月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 18th, 2011  Posted 9:30 AM

7月18日 甲戌(大安)

形態を取り囲んでいる
ボキャブラリーが、そのかたちをきわめて
「存在の効能性」を物語るはずだと
確信しているからだ。

『デザインの極道論』あとがき


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「国難は商機でありえず・政商たちの妨害」


   


     7月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

「政商」という言葉。
ラング=辞書的用語に至らず、
未だにパロール=会話用語定義のみ。
山路愛山の定義があります。中略しますが、
次のような記述が残っています。
「民業に干渉し、人民の進まぬ前に国家先ず進み、
世話焼と鞭撻と、奨励と保護とを以て・・・・
日本国政府が自ら干渉して民業の発達を計るに連れて
おのずからできたる人民の一階級あり。
仮りにこれを名づけて政商という」。
こうした連中が登場したのは、明治維新の頃であって、
しかし政商と呼ばれるも以後財閥形成の中心人物も存在。
彼らは政治的権力によって私財を保有しつつも、
その私財は「文化」形成に私財全額を投機しました。
江戸時代の豪商ともやや異なっています。
さて、現在国難状況にあって、
特にエネルギー問題に対して現政権維持を賞賛しつつ、
士気無き都道府県首長から首相までを、
自社商機として巻き込もうとしている者を国難政商とし、
私は軽蔑せざるをえません。
彼の自然エネルギー論を支援する集団も私益確保であり、
明らかなハゲタカ集団でしょう。
太陽光パネルでもって、国土を自由勝手にすること。
田園風景の破壊、田園の開発反故に日本の伝統無視、
ところが、本業たるインフラも自社で開発進化怠慢、
ユーザー負担は大きく、そのインフラ整備も出来ず、
しかも私はそのユーザーという忸怩たる思いありです。
他国原発は絶賛しその電力と結束する厚顔さに呆れます。
この二枚舌なる論理を使い分けています。
大震災と原発事故後に、多大な窃盗事件が大頻発。
これは福井大震災時に「条例」という法律制度が生まれ、
取り締まりが強化されましたが、かような政商こそ、
大窃盗団だと思わざるをえません。
このように政治にすり寄り、
自分企業の利益確保の前提に世論形成を謀る経営者、
この登場を阻止するべきでしょう。
被災県知事の毅然たる支援断り態度には全面感動します。
にもかかわらず、マスコミと現政権は、
まさに政商にまで寄りついていきます。
国難を商機とする現政権の倫理性の欠落こそ、
この国難脱出をも破壊しようとしているものと断言しておきます。

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7月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 17th, 2011  Posted 9:30 AM

7月17日 癸酉(仏滅)

少なからず、
膨大な語録を発するほどの
言語性が無いかたちは、
デザインとは言えないとすら
断言し続けてきた。

なぜなら、デザインは形態言語、
あるいは造形言語を
保持していなければならない。

『デザインの極道論』あとがき


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「モノづくり・作家と作品」


   


     7月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

モノづくり。
私は人工的な物をモノと呼び、
このモノづくりをする人を作家、
モノづくりされたモノを作品としておきます。
ともかく作家・作品ともに広義な意味で使用します。
したがってモノづくりへのデザイン作家がデザイナーです。
作品は当然、デザインされたモノという狭義な範疇に封鎖。
そこでデザイナーという作家=人、
その人となりは、作品の個性をその人となりの個性として、
自ずと作品に反映されているというと、それには、
そのまま反映されることもあればまったく反照されていること、
それは人間だからまったく千差万別であるだろうと思います。
これは、音楽と照らし合わせると、
作曲家・作品・演奏者が「音楽作品」に対する表現とその効果、
この三者三様が表れるかどうかということと同様でしょう。
たとえば、私が倉俣史朗という作家とは、
私は一度の面識と一回の電話応対しかありませんでした。
したがって、倉俣論ではその人となりは、
彼の元スタッフの人たちの感想を聞きかじっただけにすぎません。
よって、20周忌ということもあってか、
すぐに時代は形骸化納得のイベントを希求します。
彼の人となりを彼との関係のあった人たちが語り合うのは、
彼への畏敬の思い出と憧憬に過ぎず、
作品評価そのものにはなりえず、
必ずしも彼の作品を語ることとは大変な隔たりがあります。
この隔たりに気づかない作品評論は、
「作品の周辺的な雑音的な世間話」であって、
歴史的な美学的評論成果には決してならないでしょう。
むしろ、音楽と比較するのは美学的な検証手法と同等であり、
特に、作曲家・作品・指揮者、そして聴衆への影響として、
デザインも、デザインされたモノ=作品とデザイン効果=影響、
この図式に当てはまるものと考えます。
作家=デザイナー、作品=デザイン、効果=デザイン本質、
この三者的な立体構造の中では、決してすべてが連動しつつも、
「必ず時代的な破綻が起こっている」ということです。
少し、一般的な認識困難な例証をすれば、
キューリー夫妻が放射線は原子を遷移させしかも崩壊する現象、
この発見は放射線を人工物に適用可能としたことに重なります。
作家の個性を無個性としてとらえ、
作品の存在性に個性を見つけず、
さらに、作家と作品の隔たりを近傍性から切断してこそ、
初めてデザインの本質が浮かびあがること、
これが科学的デザイン手法だと私は確信しています。
つまり、デザインは応用芸術から離脱して、
科学性を纏った学際的デザインをやっと手に入れうるデザイン、
そのデザイン時代の先鞭者として倉俣史朗という存在を認め、
しかもデザイナー存在のテキスト=形見にできるのだと考えています。

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7月16日Staff Blog


   


     7月 16th, 2011  Posted 11:41 PM

7月16日

京都にて
「倉俣史朗のデザイン 夢の形見に」の
出版記念講演を行った、
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

講演は大盛況に終了いたしました。

著書のサインイベントは、
スタッフが知る限り初めての試みです!

ご来場のみなさま、会館のみなさま、
ご協力いただきました全てのみなさま、
ありがとうございました。

Facebookでも画像を公開しています


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7月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 16th, 2011  Posted 1:09 PM

7月16日 壬申(先負)

またデザイナーが、
かたち以上にことばにこだわれば、
かたちが軽視されてしると言われる。
かたちで語れば、
ことばはいらないはずだ、
という意見も圧倒的である。

『デザインの極道論』あとがき


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「出版記念講演のアンビエント・プレゼン」


   


     7月 16th, 2011  Posted 12:58 AM

京都国際交流会館は二度目。
以前、舞踊家。西川千麗さんと対談。
今回は、スタッフと研究室がバックアップ。
卒業生たちも駆けつけてくれました。
昨夜までMacBook-Pro15で制作してたのを
MacBook Air11に約480MBを移行したところ、
トラブルでやや不安。
もはや、講演ではなるべくMacBook Air11が、
テーブル上もシンプルになり、
これをiPod Touchでコントロールできればというのが、
私が最も話しやすい環境ということにしています。
Picture in Pictureで正面16:9の二重画面構成と、
ステージの全面天井2面に動画白黒画像を流しました。
この構成については質問をいただき、
会場構成をそれなりに見せることができたと思っています。
この会館230席もほぼ満席になって、
倉俣作品を語るためにJAZZ「How High the Moon」も、
会場のPAでかなりいいHi-Fiで流すことができました。
彼がモチーフにしていたStan Kentonの演奏から、
「How High the Moon」なら、Randy Westonと
私が好きなBud Powellをほんの少し聴き比べてもらいました。
ワイフは、「音楽の聴き比べが新鮮だった」という評価。
東芝・Aurexでまだ駆け出しデザイナーだったころは、
新製品と当時の新譜から選び抜いた音楽を再生して、
デザイナーでありながら、音楽解説もしながら、
そうしたプレゼンを全国駆け巡ってやっていました。
そんな感覚を思い出しました。
私は自分の講義でも音楽をBGMで使うこともあります。
まさに「アンビエントなプレゼン」には、
それなりの建築空間が必要だというのが私の主張です。
会場でも新刊を買っていただき、
丁寧に矢立毛筆でサインをしました。
連載7年からやっと書籍化ができて、本年倉俣史朗20周忌に、
私自身で語ることができました。
彼の作品を語ることで、一つの役割を終えた感慨があります。

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7月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 15th, 2011  Posted 1:06 PM

7月15日 辛未(友引)

「これ、使いにくそうね」なんて、
一言で切り捨てられる。
使わずに、
見た印象だけで断罪する批評もあるわけだ。
これは決まって、
これまで見たこともない形態を
提示したときの反応である。

『デザインの極道論』あとがき


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「デザインを読むという解釈」


   


     7月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

デザインされたモノを知ること。
それはデザインを読み取るということ。
デザインの背景、動機、手法、意味などを
読む=解釈するということになります。
ユーザーにとっては、
デザインされたモノと対峙したとき、
その直感で自分との関係を知るだけのことです。
しかし、職能家としてのデザイナーならば、
デザインテーマ、すなわちデザインが問題解決したこと、
そのプロセスを読み取る=解釈することになります。
したがって自分のデザインではない他のデザイナーのモノ=作品ならば、
「解釈」への手続きは次の三つの段階を経ているでしょう。
まずテーマ・問題あるいは課題を解体したり解剖したり溶解します。
これは問題解決の最初の段階です。
ところが、他のデザイナーの問題解決ならば、
読み取り過ぎることが多々あることです。なければなりません。
その問題解決をしたデザイナー以上に深く、
あるいは大げさなほど知り尽くそうとするかも知れません。
それは解釈し過ぎになるでしょう。
けれども、デザインの本質にとっては、
デザインそのものの社会的職能意義を明確にする手続きです。
デザイン手法をさらに明確化する重大性があると私は考えています。
言い直せばデザインの解釈とはまさしくデザイン評論であり,
デザイン評価の根幹はこの解釈段階にあると思います。
問題自体の解体・解剖・溶解・分解を経て、
そのデザイン要素や要因を解釈・解説し直すという作業の重大さこそ、
デザインの本質を突き止める二段階目だということです。
ややもすれば読み取る「解釈」は、本来デザインをしたデザイナー、
その問題把握力を上回っているかもしれません。
しかし、デザイン評論やデザイン評価が必要だというのは、
この深読み解釈が次のデザイン手法をそのものを
拡大・進化させる大きな手かがりだと考えるべきでしょう。
無論、一つの方法論です。
私は、今や「天才」と言われる倉俣史朗の問題解決、
その手法から動機、結果、意味を深読み解釈しました。
私の深読みが彼を天才にならしめているとさえ思っています。
歴史は、後世その解釈によって、
歴史事実を小さな物語から大きな物語にします。
その中心人物こそヒーローでありリーダーであり天才となるのです。
そしてこの歴史記述こそ、
人間が綿々と連鎖させてきた「知恵」の集積という伝統だと考えます。
解釈をし尽くした時、人は「解放」されることになります。
それが問題解決した効果・結果ということでしょう。
今日、私は「「倉俣史朗のデザイン」」を、
デザイン界の形見として私の解釈を語るつもりです。

夢の形見に」講演会


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7月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 14th, 2011  Posted 1:03 PM

7月14日 庚午(先勝)

私の信念は、
「かたちは、ことばに必ず敗北する」
とさえ、
自己嫌悪することもしばしばである。

『デザインの極道論』あとがき


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