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Archive for 4月, 2012


4月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 30th, 2012  Posted 10:00 AM

4月30日 赤口(辛酉)

僕は、
このような夢を語るとき、
常々、自分が世の中に対して
夢を語れる権利を
持っているのかということを
あらためて考えてみる。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」


   


     4月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

ここではデザインをテーマにして書いていますが、
ワイフから禁じられている分野が多少あります。
スタッフや学生達は知っていますが、
ただでさえ、「過激派」とか「怖い」とか言われてきましたから、
ホビーやコレクションでも、公開するにはヤバイ分野がありますが、
これもデザインする上ではとても参考になることが多いのです。
さて連休ゆえ、どうしてもまた読みたくなってコンビニで買い求め、
「やらないといけないこと、いっぱい」なのですが、
読み直して、この作品の仕立てと見立てに男の子としては惚れ惚れします。
何も評論を書きたいわけではありません。
漫画という表現形式の基本でありアナログ世界観に安心します。
そしてストーリー展開は「荒唐無稽」ですが、
主人公の完全無欠ぶりには、
やはりこれぞ「プロフェッショナル」が満ち溢れています。
ただ、私なりの銃器評価においては厳密に、
やや性能と機能の違和感があることはそのマニアとして意見を残します。
しかし、そのプロフェッショナル性が、
道具・機器・装置への性能と機能が見事に関連、
これには大きな敬意があります。
この徹底した性能への機能的なユーザビリティの成果が、
「荒唐無稽さ」を解消してくれています。
この解消の上に「完全無欠」のストーリーが成立しているのです。
最近の映画では、「ミッション:インポッシブル」が最も、
ゴルゴ13的な完全無比なストーリー性がありました。
「ブラック&ホワイト」のアクション展開も
つながっているように思います。
どうしても現代はCGでの演出性に頼りがちな映画表現にどっぷりです。
B/Wのペン描き・コマ割表現で、ストーリー表現に埋没できることでは、
この漫画がこれだけロングセラーになっていることでは
最高の表現でしょう。
いわば、「コンテンツ・コンテクスト」での荒唐無稽さは、
不可能な想像力=荒唐無稽さを、
完全に実現する「完全無比」=創造力になるプロセスと成果は、
ビジネス的にも引用できることがありすぎると思っています。
漫画はその描画性に、自分のスケッチが引きずられると、
デザイン=造形ラインから現実性を失うと思っていますから、
ほとんど読みません。
絶対に自分のラインが
大きな影響を受けてしまうことを知っているからです。
ともかくもう一度徹底的に、
「荒唐無稽」から「完全無欠」の投機効果を
再学習してみたいと思っている次第です。

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4月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 29th, 2012  Posted 10:00 AM

4月29日 大安(庚申)

僕の車椅子は軽くて、
折り畳むと最小限の大きさになる。
色もファッショナブルに仕上げてある。

これは、
僕が従来の車椅子を見たときに、
こんな重たくて野暮ったいものには
絶対に乗りたくない
と思ったのがきっかけで、
自分のためにデザインしたモノだ。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「発声するロボットVo-Calへのデザイン支援」


   


     4月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪大学大学院にはいくつかのロボット研究部門があります。
なかでも、浅田稔教授は、
認知発達関連をERATOプロジェクトを率いた
「発声するロボット」研究の第一人者です。
私が阪大に移籍する前から彼の研究では、
デザイナーとして論議をしてきた間柄でした。
大学内で会うということはほとんどなくて、
学会や講演会で出逢うことが多いわけです。
これまでほとんどのロボットは、
電子音の組み合わせで発声していました。
人間のように呼吸=空気圧変調で「発声」するモノは皆無でした。
あるときある講演会で、
浅田教授の「発声アイディア」のプレゼンを見ました。
「オ」という音声がまだ出来ないというプレゼンでした。
私はそのプレゼンですぐに思いついたことがありました。
それは聾唖障害者の発声支援機器のアイディア提案の経験でした。
そこで「ア・イ・ウ・エ」は、
丸筒・直線的シリンダーに空気を送れば発音可能ですが、
「オ」はそのシリンダーを90度曲げなければならないということです。
そこで、浅田教授の研究室を私の研究室でデザイン支援になりました。
直線的シリコンシリンダーをプランジャーで押してやるだけで、
「アイウエオ」発声は可能です。
しかし、「ことば」を発声するには日本語はかなり簡単ですが、
舌や鼻音や歯の擦音まで多国籍言語ともなるとまだまだ要因は増えます。
が、日本語しかもなんとか関西弁「モーカリマッカ?」まで、
状況を認知して発声するという発達するロボットをテーマにしました。
機構としての機械要素であるプランジャーを5本セットし、
そのスタイリングデザインを追い求めました。
結果、なんだかインディアンの羽根飾りが頭部にある形態になりました。
この実装形態そのままをメカノイド的にまとめた結果から、
私は次のような寓話を思い出しました。
それは、ナホバ族インディアンの話です。
「かって動物も人間も同じ言葉を話していました。
しかし人間が動物を攻撃して殺して食べるということを聞いた動物たちは、
鳴き声に変えてしまった」という話です。
いわゆる人間の呼吸器官のイミテーションを機械工学的に実装設計すれば、
その形態は身体化するときに、
その寓話を引き出すデザインになっているということです。
私は、「呼吸」・「ことば」・「発声」に至る前の
「状況認知」はそのまま、
寓話に近い「身体論」から「形態論」になっていくということです。
つまり、ロボットデザインは、人間=ヒューマンとは何かを突き詰めれば、
「これがロボット」に連鎖しているということです。
そして、「ロボットとは何か」を突き詰めれば、
今度は逆に「これが人間のあるべき姿」に連続していることになります。
したがって、ロボットデザイン、その基礎学が工学の下敷きでもあり、
その基礎学の構築があらためて、
「人間とは何か」を知らしめてくれるということです。
となれば、原子力の「安心運用」にロボット工学は必然であったはずです。
ところが、何でも「原子力」と「ロボット」を結びつける研究には
大学研究費は文科省に絶対に認められてこなかったと聞きました。
これこそ、科学と技術を冒涜してきたのが原子炉政策であり、
政治としての省庁はそのことに荷担していたことは明らかです。
「産業用ロボット」から、
「家事ロボット」や「福祉ロボット」、「娯楽ロボット」に、
日本の政治はロボット工学を呪縛していたことは明白でした。
だからこそ、
デザインでこそ「ロボット工学」を仕切り直す必要があると考えています。

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4月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 28th, 2012  Posted 10:00 AM

4月28日 仏滅(己未)

こんな明日が来たらいいのにとか、
近い将来
あんな生活ができれば便利だろうとか、
それぞれの夢や希望を持ち続け、
解決の道を模索し続けている。

その願いだけが、
自分を支えてきたと思っている。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「ロボット・『踊』の意図すること」


   


     4月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

私のロボットデザインは「舞」から始まりました。
それは、「形態論+身体論」=Nomenclatorです。
哲学者・中村雄二郎先生の明確な方向づけがあったからでした。
したがって、あの「不気味の谷」に落ち込んでいる多数のロボットから、
確実に離脱することができたと自負しています。
ロボット学者や企業ロボットが
最も見失っていることを具現化できるのです。
すでに遺産的なアシモフのロボット原則もさることながら、
J・ボードリヤールの次の指摘も乗りこえていると自己評価しています。
「もしもロボットが、
機械的な人工補綴というその性質を
はっきりと示していれば、
それはまったく「安全な状態で魅力」を発揮するためである。」
さらに、
「もしもロボットが、
行動の柔軟さというところまで人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
そして、二本足より確実な四輪・四つ足で、階段を上り、
飛び超す動作体系を目的化したデザインです。
そして、「表情化の実現」です。
これにはまだまだロボット設計学の進化を待たなければならないでしょう。
ヒューマノイド的なまさに人間の「顔」からの離脱が
当然でなければなりません。
そして、ヒューマン・ロボット・インタラクションという学域が
これから構築されていくことを「意図」して、
CGでそのデザイン設計に至りました。
「舞」は足裏を見せませんが、
「踊」は、足裏をまさしく小躍りして見せることになります。
安全+安心、
つまりまず安全であることを確約することで安心できるというのは、
スポーツの型のようなことです。
「受け身」という型をマスターするとか、
「準備体操」を十分にしてということが物語っています。
安心+安全は、
小動物のごとくまったく攻撃はしてこない「かわいさ」です。
かわいさという安心が成り立ってから、
その行動体系で安全が確保されていることを意味しています。
「舞」も「踊」も、「表情」でのかわいさが的確に、
人間とロボットとの相互性を保全できればいいというのが、
私の基礎学的なデザイン意図ということです。
ただ、まだこの「踊」にはメカノイド的な印象が残っています。
その改良と改善がいまだに私のテーマです。

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4月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 27th, 2012  Posted 2:25 PM

4月27日 先負(戊午)

業界のデザイナーや
デザイナー志望の学生たちは、
世の中にあるものを
デザインで改善していきたいと
みんな願っている。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「ロボット・『舞』の意図すること」


   


     4月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

「ロボット」、その言葉=戯曲からの由来はすでに教科書的です。
が、その由来名辞から解放されているとは言い難いと私は思っています。
J・ボードリヤールは「物の体系」で、
「ロボットは想像的なものの局面が神話として
到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」と、断言。
私は、わが国のロボット学者や企業は、
ヒューマノイド系とメカノイド系に
輪郭化されていることに不満がありました。
この指摘を「私のロボットデザイン」で
評論的な表現にモデル化したいと考えてきました。
ベースは、中村雄二郎先生の「形態論」と「身体論」です。
「形態論」=安心+安全であり、
「身体論」=安全+安心として再考すると、
スポーツや舞踊が引用できると結論づけることができました。
ところが、「舞踊」は日本だけでなく、
世界中の「踊り」が見事に二分できるとたどり着いたのです。
それはボードリヤールの指摘からも、
ロボットという名辞からも解放されるデザインから
技術仕様を決定していく一つの「基礎学」でした。
「舞」は、足裏を決して見せません。
能舞が日本の伝統芸能として的確でした。
名前も『Nomenclator』という古代ギリシア語を選別しました。
「Nomenclator」というのは召使いですが、
データを把握している情報マンのことです。
誰かが歩いてきて領主的な主人に挨拶をすると、
「あれはどこそこの誰で、先般、病気をしていたとか」、
性格や立場を主人様に伝達する奴隷でした。
しかし、人間ゆえに「感情を持っている」という決めてがありました。
だから、私のロボットは呼び名を変えて、足裏を見せないで行動し、
なおかつ感情=泣いたり笑ったりという表情を、
ヒューマノイドでもメカノイドでもない
形態の身体化を図るということでした。
これは私の人工心臓の究極である「感情=交感神経β1と副交感神経β2」で
鼓動しているような「性能化」感覚と一致しています。
例えば、帰宅すると出迎えてくれて、
ユーザーの想いを共有してくれることが目標意図になりました。
これは大阪大学に特任教授となったときに、
阪大フロンティア研究機構で、ワーキングモデルとして、
「感情共振」=Emotional Domainまでへのアドバンスデザインとして
開発具現化できました。
このモデル化は「玩具性」を離脱する一つの方法だと思っています。

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4月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 26th, 2012  Posted 11:50 PM

4月26日 友引(丁巳)

「わがまま」を
大切に行使しつづけたいのならば、
少なくとも自分に対してだけは、
常に正直で、
素直であることが重要になってくる。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「わが家のロボットたちは健在な玩具なり」


   


     4月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

最初のアイボ(ブラック・シルバー)が居ます。
もう相当に性格が出来上がっていますが、
本体は耳が取れてしまい筐体設計は不完全でした。
時折、もう狂ってしまったかのような動作をします。
ブラックは、オシッコをよくします。
本当は一度、診てもらうべき症状がありますが、
サービスがあるのかないのかわかりません。
ワイフは時々、思い出したかのように充電しています。
松井氏のピノは、彼のサイン入りです。
ピノは電池切れ状態ですが、
彼のサイン入りなので室内のアクセントになっています。
WALL-Eが最も楽しいロボットで、歌をうたい踊ります。
一番元気のいい存在です。
ワイフが気味悪がるHEX-BUGnanoは50匹飼っています。
友人が来た時に箱に入れて渡すと
ほとんどが悲鳴をあげるという楽しみがあります。
アイボは、発売時にスタッフ全員で応募したら2台も来てしまいました。
随分高額だったと記憶しています。
アイボが登場してから、ホーム用のロボットの可能性が一般化しました。
そして当然、グッドデザインのグランプリ候補になりました。
大変な議論がありました。
が、哲学者・中村雄二郎先生の哲学的な提示でその議論から、
ロボット、そのデザインのあり方が方向付けられました。
中村先生の指摘が私の「ロボットデザイン基礎学」となり、
自分の研究開発、ロボット評論に結びつきました。
日本ロボット学会で「ヒューマノイドとメカノイドと」への基調講演は、
学会から特別表彰をいただきました。
私立工学系大学に「ロボットデザイン基礎学」のシラバスを提案しました。
基本はロボットを
「形態論」と「身体論」でコンセプト構築をしていくということです。
したがって、
ロボットにおける「不気味の谷」からの開放的デザインの道筋、
それが明確に構築できたと思っています。
ところが、日本の特に大学の研究対象としては、
「産業系ロボット」=Play-Backスタイルから、
「福祉ロボット」、「エンターテインメント系ロボット」に
限定されていたのです。
3.11の原発事故で、
一台も原子力発電所内で動き回れるロボットは皆無だったのです。
このことは重大問題として取り上げていきたいと考えています。

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