kazuo kawasaki's official blog

Archive for 4月, 2012


4月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:25 PM

4月12日 赤口(癸卯)

表面的な
技巧を凝らしたプレゼンテーションは
誰にでもできる。

しかし、
プレゼンテーターの持つ
アイデンティティやオリジナリティは
誰も真似できない。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「相当困難だと思う」


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

先般、被災地の石巻市海岸線にあった瓦礫です。
本来は大きな広告塔だった缶詰のオブジェですが、
看板としては田舎っぽい存在感があったと思います。
デザイナーの私としては美しい看板どころか認めがたいオブジェです。
しかし、
瓦礫と化したこのオブジェは今では石巻のオマージュになっています。
大津波の巨大さ、自然の猛威を表示しています。
私自身被災地に復興計画を提案後、体調を崩してしまいました。
それには現実を凝視すればするほど、
デザインでの復興デザインのあり方を再考させられるばかりです。
が、「なんとしても復興への想い」は決して諦めてはいません。
その復興にデザインは不可欠だと確信しています。
ところが、最近、被災地それぞれの人口流失から、
現政権の無策性、日本の大企業が及ぼす景気感などから判断すると、
「相当に困難」だと思います。
理由を整理してみました。
まず、「地方行政力の実行力が基本的に欠落」しています。
とりわけ人口10万人程度での行政人材に、
その計画性から実行力などを期待することはほとんど困難です。
1000年に一度などは経験値で活動できることを凌駕しています。
しかも、行政機能の範疇に、復興実現などあるべきことでもなく、
ノウハウから創っていかなければいけません。
大震災以前に、日本の各地方すべてが「シャッター街」であり、
その再活性化すらほとんど全滅状態でした。
そこに、大手広告代理店などの「再活性化プラン」や、
いい加減な企画プランナーと自称する連中のプランなども最低でした。
そうしたプランに地方行政はほとんど振り回されてきたと思います。
今回もそうした売り込みが多いようですが、
本物の計画を見極めてほしいと願っています。
私自身のデザインアイディアでも、
16mラインまでの対応デザインをしましたが、
南海トラフでの想定では、20mから36mまでの安泰ラインとなると、
そのデザイン設計でのアイディアを超えています。
今、石巻の瓦礫と化したオマージュを何度も見つめ再熟考しています。

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4月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 11th, 2012  Posted 9:30 AM

4月11日 壬寅(大安)

その「奇をてらう」という
「奇抜き」に、
「裏切り」、
そして正常だと勘違いしている
常識への再質問と問題提起は
極めて大切だと考えている。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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「あくまでも青を聴くということ」


   


     4月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

「音」については、美大時代からこだわってきました。
そして、iPodという進化を私たちは手に入れています。
それゆえ、私は「青色を聴く」ということに焦点を当てています。
当然ながら、Hi-FiとしてのiPodのためには、
それなりのヘッドホン、
特に、インナータイプも随分と購入もし聴き比べてきました。
ヘッドホンアンプが絶対にあるべきだという考え方にも拘っています。
しかし、簡便に「音を聴く」というのは、
私は「音楽で脳内から体を包む」こと
という具合に考えています。
しかもそれはiPodはじめインナーヘッドホンも「青色」に限定しています。
ところがApple社の青は統一されていませんから、
もちろんサードパーティーが造る、
ヘッドホンやアクセサリーも様々な青になります。
私は持ち物をともかく青色にしておくことに決めていますから、
時に、iPodのタイプ別と色違い、
それにヘッドホンで「音」が変わって聴こえているという錯覚があります。
しかし、これはどうも錯覚とは言えないのかもしれないと最近思います。
それは、「痛みを和らげる色彩効果」として
「青色」があるという仮説がどうも正しいらしいからです。
「青色効果」を熟考してしまいます。

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4月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 10th, 2012  Posted 10:01 PM

4月10日 辛丑(仏滅)

誤解を恐れずに発言すれば、
「奇をてらう」ことこそ
重大でもあるのだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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4月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 10th, 2012  Posted 12:58 AM

4月9日 庚子(先負)

ノスタルジーに回帰するかたちの提示を、
私は決してデザインとは呼びたくない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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「私のマサカのデジジャラ」


   


     4月 10th, 2012  Posted 12:00 AM

ケータイのデジジャラ。
すでにデジジャラという言葉は死語です。
デジジャラというのは、
ケータイ電話に様々なアクセサリーを付けることでした。
おそらくデジタルなモノに対する、
 「自分用」の明示性への願望なのでしょう。
かつて私は面白がって、ドラえもんのケータイに、
これほどキティちゃんグッズがあるという見本をつくったことがあります。
どれほどケータイアクセサリーになりうるかを見極めておく、
資料になりました。
本来、iPhoneにはカバーもつけるべきではないデザイン、
それがApple Designのデザイン意図として明快です。
しかしやはり、ケータイもスマホも、
「自分用=MyType」にすること、
それが人それぞれ、
自分用表現を望んでいることは一般的なことなのでしょう。
3.11後、「ふだん」と「まさか」というwebsiteを研究室でつくっています。
それは「まさか」の非常時に何を持ち出すべきか、
「ふだん」身に付けておくべき最小限のモノを情報化しています。
なんといっても、スマホは必要です。
スマホに健康保険証や運転免許証まで取り込んでおけばいいわけです。
それに最低限はホイッスルと印鑑です。
そこで、私は様々なホイッスルからLEDライト付きを選びました。
そして、印鑑も最も小さいモノとさらにedyカードを付けています。
日本人にとって印鑑は必要不可欠なモノになっています。
印鑑の歴史は日本人のルーツに関わる文明文化的な歴史性があります。
3.11のあの非常時に、
一番無くて困ったモノが、行政的な手続きで印鑑だったということです。
というわけで、現在私のiPhoneはこのスタイルになっています。
私は、自分なりの「ふだん」と「まさか」のデジジャラを
デザイナーとしてそれなりに考えると、
そこに次世代スマホの形式があるものと判断しています。

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「青色・好きな色選んだら出逢った音色」


   


     4月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

どういうわけか、「青色」を選びます。
デザイナーになって以来好きな色は持たないという決心を守ってきました。
デザイナーはすべての色に公平であるべきであり、
すべての色が素晴らしいことを伝えるのがデザイナーの役割だからです。
したがって、自分の持ち物もこれまでは様々でしたが、
50代になってからは持ち物はなるべくすべからく「青」に拘ってきました。
だから、青色のモノを見ると、よく衝動買いをしてしまいます。
しかし、決して衝動買いしないモノがあります。
それはオーディオ関連のモノです。
それは自分がオーディオに関してはプロだと思っていますから、
特にオーディオは決して衝動買いはしません。
ところが先般、
ライフスタイル提案のショップでヘッドホンを見つけました。
単に「青色」の発色が美しいと直感したからでした。
まして、オーディオにはその性能に関しては「絶対」を求めます。
オーディオの「絶対」というのは、
私のデザインに対する「絶対」に近い私なりの評価軸の正当性です。
だから、オーディオ性能で求めたわけではありませんでしたし、
ブランド「URBANEARS」も知りませんでした。
ほとんど期待無く、iPodにつないでみて、私はびっくりしました。
私の聴覚では、ほとんど合格の音色でした。
シュアやゼンハイザー、JBL、BOSSをもしのぐ、
素晴らしい音色を持っていました。
あらためて、商品性としてのパッケ?ジや取説を読み直し、
このようなブランドが北欧から生まれてきていたことを知りました。
このブログに私が記述するというのはそれなりに自信を持って紹介したいと思ったからです。
いわゆるオーディオ専門誌ですら、
この製品性能から機能性を評価はしていません。
ならば、私のそれもプロとして、
オーディオとデザインから評価を記述しておきます。
私の「青色追求」にはこれから衝動買いが始まる予感があります。

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4月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 8th, 2012  Posted 9:30 AM

4月8日 己亥(友引)

時代を先んじる提案、
これこそ創造であるが、
一般性からの遊離はまぬがれない。
しかし、
デザインには常にこの姿勢を保持する堅固さが
不可欠である。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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「書くための万年筆の真の意味」


   


     4月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

「衣・食・住」は日常生活の基本です。
私はこれに、「医・職・趣」を付加します。
衣食住は文明です。
着て食べて住まうことで人はまず生きることができます。
そして医療・職業・趣味は、まず健康でありたい、
職業を持って社会での役割を自己確認します。
その上で、自分なりの楽しみとしての趣味を持つことで、
生活は文化性を帯びるというのが簡単な私なりの解説です。
私はすでに40年デザイナーという職業を持ってきました。
しかし、医療に関しては車椅子であり心臓障害を持っているために、
いつも不安感を持っています。
私の文化観は常に揺らいでいるのでしょう。
それだけに「趣味」の世界に没頭しているのかもしれません。
とりわけ、文房具、それも「万年筆」には中学時代から憧れがありました。
小説家になりたいと思い出したのが中学時代、
それも万年筆と原稿用紙への単純な憧れがあったからです。
最も、万年筆を収集し出したのは、40代に入ってからでした。
おそらく万年筆のコレクションは相当になりました。
だから、もうこの程度で辞めておこうと思いつつも、
最近、アウロラの新製品(写真)をやっぱり手に入れました。
だからその類いの雑誌も精読するほどです。
ただ最近は、万年筆=「書く」ということには二つの意味を求めています。
一つは、「書く」ことと「描く」こと、
結局スケッチを描くのに最適な万年筆を求めています。
そしてもう一つは「書く」というのは「欠く」ということが原意ですから、
何がまだまだ自分に「欠けているのか」、
それは
「欠落していること」に十分に気づいておきたいと真剣に考えています。
だから、新しい万年筆を手に入れると、ともかく「文字を書いてみます」。
おそらく、「文字を書く」という行為が、
自分の中にある「ことば」を紡ぎ出すことで、自分には無い「ことば」、
欠落していることを見つけ出そうとしている、
本能なのかもしれないと思うのです。
そして、スケッチを描く=スケッチを書くと言うこと自体が、
できる限りの発想を吐き出そうという行為、
すなわち、欠落=「欠いているアイディア」をともかく紡ぎ出す行為だと
自己解釈しています。
そういう意味こそ、「趣味」の核心だと思っています。
「欠落している自分」を探し出す行為なのでしょう。
それが不安な健康・医の世界への
大きな抵抗力にもなっていると判断しています。


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