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Archive for 3月, 2014


『日本人である「三種の神器」の意味再確認』


   


     3月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は日本人で在ることをとても誇りに思っています。
その根本として「三種の神器」という日本国家のモノの存在です。
「三種の神器」というのは、簡単に言えば、剣・勾玉・鑑です。
当然ながら、この三つの国家としてのシンボルには、
それぞれの意味が配置されていますが、
私は、私なりの解釈をしています。
鑑は「太陽」をシンボルにしていますが、私は鑑=鏡として、
人間の通信=コミュニケーションの象徴であり、現代はそのまま、
光通信に直結していると思っているのです。
「勾玉」は政(まつりごと)の基本=呪術のモノですが、
私は、自然界からのモノを磨き上げてきた技術の表れと思います。
そして、刀=片刃ではない剣(両刃)は、まさに刃物であり、
これは武器=自分の身を守り文明の源のシンボルです。
しかし、日本人にとっての武器とは、もっと深度がある思想、
すなわちそれは、剣をシンボルとした思想の象徴と考えます。
世界のいわゆる王室=政は剣でそれぞれの王室国家は、
その武力性を剣そのもので表しているわけではありません。
むしろ、その剣を持って国の安全保障を誓約する象徴なのです。
国家の安全の象徴は、そのまま国家理念・国家思想です。
こうして考えてみると、「三種の神器」である三つのモノは、
その国家に属することの人間の生を護る三つのモノであり、
それを国家の基本としている日本の成り立ちを、
私は見事に信頼することが出来ると思うのです。
そして、私は、日本の未来、日本人の未来を支えるモノの体系は、
必ず、これらの象徴された剣=思想、勾玉=技術、鑑=伝達に、
すべてのモノの体系に治められる、
まさに隠喩として納得理由があると思うのです。
だから私たち日本人は「三種の神器」在ることを誇れるわけです。

「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
「この技術はデザインによって大変革の時期がきた」


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3月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 26th, 2014  Posted 9:30 AM

3月26日 丙申(先負)

観念の世界に入り込んだ、
そのとき、
デザイナーにはイメージのなかに、
かたちが観えてくる。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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『医療で日本の未来をみることは出来るだろうか』


   


     3月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

私はプロのデザイナーですが、医療とデザインを考えてきました。
したがって、今年早々の課題も、医療とデザインの関係を
またあらためて熟考することでした。
しかし、今年に入って重要な人を二人も失い、
私自身、医療以前に「老病死」の前に突きつけられた思いです。
失った二人とも、「病」に倒れて逝きました。
その「病」への対抗策がデザインではありません。
デザインはその対抗策・手法の医療、背景の医学を支援します。
すでに私も「老」の時代の中で生をつないでいるだけであり、
老は必ず、病死への過程そのものと言っていいでしょう。
少なからず、私の生も最大20年も無いことと推定しています。
同世代が、延命治療を願ったことを知りました。
自分の延命治療のためには病院建設まで考えていたらしいのです。
それほど彼は現代医療そのものを組織変更まで願ったのでしょう。
もう一人は、一緒に食事をしてぴったり3ヶ月目に逝きました。
年下であり有能な人間として社会的な立場と発言力がありました。
それだけに年上の私に真剣に師事することを申し出る人物でした。
私にとって2050年は、存在しない年月ですが、
私なりの理念と思考をデザインから医療に配置し直したいのです。
なぜなら、「日本の未来を医療がひらく」ことは無いでしょう。
医療にそれほどの力があるはずがありません。
もし、現代の医療にその力、すなわち制度があったならば、
私は少なからず重大な人物を失うことはなかったと愚痴ります。
デザインから医療と日本とその未来をみるとき、
「日本の未来が医療を進化させる」具合であってほしいのです。
日本の未来を支援するすべての領域が「医療」の基盤を、
創出して進化させてくれることを祈るばかりです。

『行政サービスの力量は救急システムでわかる!』
『Saint-Étienne・ユネスコ認定デザイン都市で』


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3月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 25th, 2014  Posted 7:21 PM

3月25日 乙未(友引)

デザインとは、
「モノづくりとコトづくりである」
という安易な言い訳程度の
定義を補強するには、
「モノづくりという
『かたち』のコトづくり」
とまで言い切っておく必要がある。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』6変形という観念としての裏切り


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『選挙の再検討・民主主義の限界が来ているのだろうか?』


   


     3月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

大阪市の市民になって8年目になります。
大阪市への期待は裏切られていると明言しなければなりません。
大阪市のイメージは、全国的にも悪評がすべて第一位なのです。
ひったくり事件や、振込詐欺被害など悪評が一杯の街です。
選挙には真面目に、たった一票の重みを真剣に考える私でした。
しかし、大阪市長選挙には参画を敢えてしませんでした。
4人にひとりが投票したから、「正当な民主主義」?
そうでしょうか?
大きな大疑問です!
選挙で選び直された市長の政治理念=民主主義だというなら、
大阪市の市政は崩壊してしまったと私は私的公的にそう思います。
一人の市長の「大阪都市構想」には、
しみじみと了解できることも相当に多いのですが、
施政者の人格性を大きく疑いたくなります。
報道番組の評判をすべて理解することも私は絶対にしませんが、
市長という施政者の理念表現を、「選挙」でしか決められない、
だとするなら、「選挙」そのものがもはや大間違いでしょう。
少なからず、今回の大阪市長選には「傲慢さ」しか見えません。
4人のうちの3人は、すべてがどうでもいいか、
あるいはNO!だというのがこの選挙の結果だと私は思います。
現実今は「都市構想の前に」、南海トラフ=天災への準備が優先。
民主主義の基本だから「選挙」でいい、って事が正解でしょうか?
もう一度、私の意見は「都市構想」はあるべきでしょう。
しかしその施政者の能力判定が今回の「選挙」手法だったのです。
私にとって、私の一票を主張することを辞めました。
「選挙」という手法はこの一人の横暴さで壊れたと思っています。
そういう意味では民主主義と選挙を再考させてくれた市長です。

「投票後、御堂筋の光の中へそして選挙過程から」
「公私の形象概念・再認識するための手法が選挙」
「大阪は革新都市になりうるだろうか」
「『多様性』と決定原則=多数決の剥離」


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3月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 24th, 2014  Posted 9:30 AM

3月24日 甲午(先勝)

今、
デザイナーは、
素材の選択に環境との適合性を
エグザクトサイエンスとして
とらえ直さなければならない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』5アクリルの生涯連鎖


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『写真・カメラの進化とともに個人情報の増大』


   


     3月 24th, 2014  Posted 12:00 AM

    銀塩フィルムが消滅するという1970年の予告から、
    フィルムからメモリーカード、そして、ポラロイド瞬間焼き増し、
    これは写真とカメラを相当に進化させてきました。
    私の側に、カメラが本格的にやってきたのは、
    美大時代に相当に自学しました。
    そのこともあってカメラ収集には自分なりの境界も設定しました。
    おそらく、自分のカメラへの物欲はどこかで抑えないと、
    モノの収集と、写真撮影の技能アップは遊離してしまうだろう、
    真剣に考え抜いたことがあります。
    特に、デジタルカメラになってからは新製品が発表される毎に、
    その性能を追い求めてしまうのは癖になっていました。
    今、私にとって、最高に難しいのはライカM8です。
    正直このM8は発表とともに入手しバージョンアップしてきました。
    しかし、これでの撮影は本当に困難です。
    M8周辺のレンズもそれなりに具えていますが、撮影困難です。
    そして、国産のチェキも進化してきました。
    メモづくりには至極簡単です。
    私はデジタルカメラの進化で、みんなが写真撮影には慣れました。
    これは21世紀個人情報の視覚化では大変な事態が進行しています。
    しかもケータイでの撮影までが日常化して、
    格段に個人情報撮影と蓄積を増加しています。
    今、私たちが明らかにすべきことは、写真という情報形式、
    この個人的、社会的、公共的なあり方を整理すべきでしょう。
    私はあえて、デジタルカメラやチェキのTipsを学び直しています。
    なんとしても、難しいカメラを使いこなしたい。
    簡単な撮影だけに、その奥深さを知り尽くしたい。
    私は、このブログも単純に撮影しています。
    それは、シャッターを押す、という行為で自分の視覚を、
    しっかりと確認することも大事な生きがいだと思うからです。

    「トイカメラってかなりスゴイことになってます」
    「カメラ修行は今なお・・・」


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3月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 23rd, 2014  Posted 9:30 AM

3月23日 癸巳(赤口)

アクリルという素材の
持つ力をとらえたとき、
「内密性」という
引き出しを宙に浮遊させて、
重力という理性から引き出しを
解放させたい、
というある種の必要性がクラマタの
なかに生じたのだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』5アクリルの生涯連鎖


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『携帯する「スケッチ帖」とボールペン』


   


     3月 23rd, 2014  Posted 12:00 AM

私は「手帳」と「手帖」を明確に区分してきました。
単純にテチョウとは呼んでほしくないのです。
なぜなら書くこと描くことに日本の伝統は詳細に決めてきました。
私にとって描くことは、ほとんど息をしているに等しい行為です。
私がこの手帖を見つけたのは、
たまたま、このブランドメーカーから、
そのメーカーの商品にスケッチを描いて展覧会参加をうけました。
まさか、このテチョウメーカーに、「ジャパニーズシリーズ」と、
名付けられたテチョウがあるとは思ってもいませんでした。
それから使い始めて、この便利さがすっかり気に入ってしまい、
とうとうこのシリーズを探しましたが、
輸入して、しかも名入りにするところを一社見つけました。
「ジャパニーズシリーズ」と名付けている知識に、
日本には、「手帳」と「手帖」があると知っていたのでしょうか。
いわば、蛇腹タイプと呼ばれていますが、
これこそまさに、和紙文化から生まれた巻紙そのままに、
「手帖」と成し遂げた、素晴らしい文化を表しています。
「手帳」には一頁毎の「書き付けること」に限界があります。
しかし、「手帖」となれば、相当に大きさには自由度があります。
私は勧めたいと思っています。
スケッチを描くなら「手帖」であるべきだということです。
とりあえず、ボールペンスケッチを主としている私は、
「ダ・ヴィンチ」というボールペンがふさわしく思いました。
私の先祖・江戸時代に描かれた図面は発想がふくらめばそのまま、
図面用紙は貼り付けられて大きくなっていました。
発想の限界は、「手帳」であってはならないのです。
「手帖」には発想を制限する紙幅に大きな自由度があることです。
私は、日本文化が生み出した「手帖」は
「手帳」を超えた性能性・効能性が機能性を明確にしています。

「手帳・これらのリフィールとペンには進化がありました」
「ボールペンスケッチのためのモレスキン」

http://www.moleskine.com/documents/10192/11200/detour_tokyo.pdf


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3月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 22nd, 2014  Posted 9:30 AM

3月22日 壬辰(大安)

構造とは本来は、
多種な素材あるいは一種の素材でも、
寄せ集めてプラス化させる。
とすれば、
集中した造形に至ることは
当然である。
が、
この構造を消滅させることに、
アクリルを使用した。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』5アクリルの生涯連鎖


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