kazuo kawasaki's official blog

Archive for 11月, 2016


11月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

11月15日 先勝(辛丑)

想うことと思うこと、
想うとは、対象を定めて
思いを決定するこよ。
思うとは、
対象を定めずの
感性と感情が働くことか。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』


   


     11月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

「やさしい」という日本語には観自在性があります。
それは「優しい」と「易しい」であり、
この峻別が曖昧にされていた時代がありました。
これは道元的な「四句分別」が必要と行き着いたことがありました。
観自在=思考闊達な想いと思いに、ある意味ではYesかNoかについて、
日本人にはどちらか明確にという世界的な風潮がのりかかりました。
しかし、私はこれを日本の仏教、特に禅宗的な道元思想の中で、
観自在に潜む曖昧性への積極化を「的」という表現に込めたことがありました。
その当時には、思想界においてもこの論理を中村雄二郎先生に
徹底的教えていただいたという幸運がありました。
安全だけども安心はできないことと安心だけど安全だとはいえないこと。
信頼はできるけど信用はできないことと信用はできるけど信頼はできないこと。
主観的だけど客観性があること、客観的だけど主観性が入り込むこと。
私は日本の、YesだけどNoでもあることは、NoではあるがYesということ。
おそらく、日本独自の哲学だから、白か黒かと迫られても、
グレーが存在すること。
こうしたことから、「やさしい」ということにおいては、
優美という決して目立ってはならない優しさある美と、
容易だから易しいだけで美も無視されていることにおいても、
日本人にはこの思考思潮、この重要性を見つけました。
自分の生涯での思考だと、未だに迷っていると言わざるをえません。
けれども「四句分別」で乾坤の生と死を見詰めていると判断しています。

* 『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『思考の「考」は思うことを経験が判断する』
* 『コンセプトから逃走してほしい・・・』


目次を見る

『アートの主観性とデザインの客観性、明確な分別』


   


     11月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

私は金沢美術工芸大学でデザインを学びました。
そしてすでにデザイナーとしてのデザイン活動は40数年になります。
よく質問されるのは、デザインと芸術、アートとデザインの違いです。
この質問:課題=Question、回答=Answerとなれば、
明確に答えることが出来ます。
この図の左はマルセル・デュシャン:アートであり、
右は自分の「デジタルアッサンブラージュ」というデザインです。
アートは「主観的」であり、
デザインは「客観的」なモノと簡潔に断言することができます。
正直、アート、デザイン、工芸、建築、美術、音楽において、
主観性と客観性が分別出来るかとなれば、
この質問への応答、あるいは回答は難しいことは当然です。
しかし、アートとは、アーティストの主観が表現に向かうことであり、
デザインはデザイナーの客観、つまり、作り手や使い手の立場を熟考した、
その結論的な答の表現だと言い切ることが可能です。
これは、たとえばアート作品への評価も、
アーティストという作家の主観性が徹底的な客観的な判断に委ねられます。
デザイン評価は、最初はデザイナーや評論家の主観性を持ち寄りますが、
最終的にはそれらの主観性それぞれが作り手・使い手の立場という客観にて
評価は限定されるわけです。
アートは主観的な想いを客観性に判断を任せ、
デザインは客観的な想いを作り手・使い手の主観性に委ねている、
これがアートとデザインのはっきりした分別です。

* 『「金の美」展の出展説明表示プレート』
* 『診る・看る・観る・視るを取り囲む安全と安心の環境』
* 『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


目次を見る

11月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

11月14日 赤口(庚子)

「想育」の基本は
主観的
主観性
この「強化」が出来るか、
強化が不可能な人には
想像力が育たない。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『「KK適塾」は日本からのデザイン思想と実務の発信』


   


     11月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

日本のデザイン界は、無念ながら見過ごせない盗作問題、
その根底にはジェネリクデザイン?なるデザイン教育はあきれ果てました。
そしてデザインイベントでの人災事故にまで至りました。
このイベント以前の「Design Saturday」には自分も参加しましたが、
米国デザイン界から、若手デザイナーには物真似が多いと言われました。
その後「Tokyo Design Week」には、G マーク審査委員長として
次期審査委員長とそのイベントに出講したこともあります。
しかし、その時の(喧嘩?)以来、傍観者に徹することにしました。
後輩達が参画して事務局とトラブった話も随分ありました。
そしてこの極めて過剰な商業主義は人災大事故になりました。
オリジナルデザイン無視があり、デザインへの誤解は、
「たかがデザイン」なんてという風潮にまで及んでいます。
これはデザイン対価を怪しくしてしまい、
一般的なデザイン認識不足が起こってしまっています。
 その大きな理由は、未だに日本独自の思考理念を失っていることです。
「デザイン思考」=Design Thinkingはブームとなり、
デザイナーの発想への大きな勘違いになりました。
キーワードとして「イノベーション」もその結果となって、
「IoT」・「Big Data」・「AI」・「ロボット」・「3Dプリンター」など、
全てが輸入されたものの引用どころか、
私の判断では独自性を置き忘れた盗用にかき回されているとさえ考えます。
自分には、3.11で破壊されたわが国あって、
大阪大学は「懐徳堂」から「適塾」という身分制度にたちむかった寺子屋、
それは安政の大獄にまで繋がっている歴史をもっています。
大阪大学は「コンシリエンス・デザイン」を日本からの発想として、
問題解決・価値創出・未来創成の実務手法に至りました。
その講座として今年度からは「KK適塾」という名称で、
次世代に向かって、「学術+芸術・理系+文系の統合化」から、
「コンシリエンスデザイン」・「レジリエンスデザイン」を
国外のデザイン界に向けて発信していきます。

* 『コンシリエンスデザインをともかく訴求!』
* 『美しさの判定は言語判定での倫理に宿っている。』
* 『ジェネリックデザインは模倣=犯罪である!』
* 『日沈む景観であっても景気はデザインが主導する』
* 『1800年代安政の頃・「適塾」を最も語り継ぎたい』


目次を見る

11月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

11月13日 大安(己亥)

デザインとアートの違い、
デザインは客観性
アートは主観性

さらに、
アートの時間は無限だが、
デザインには決定的な時間。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

11月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

11月12日 仏滅(戊戌)

ポストインターネットを
デザイン対象とするなら、
性善説と性悪説の
レベルバランスを
考えたデザイン発想が
必要だ。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『TCP/IPからの離脱がポストコンピュータ産業を創成?』


   


     11月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

ふるさと福井に戻ってデザイン活動ともう一方で、
自分のほぼ直感で向き合っていたのが、
コンピューターとの関わり合い方でした。
1984年に登場したMacintosh 128kとの出会いは、
その直前にApple社のApple?やLISAの存在がありました。
30代になってすぐには、国内では「シグマ・プロジェクト」、
この登場はすでにこの国家プロジェクトは絶対に失敗すると思っていました。
福井の電設資材企業は、いち早くこの国家プロジェクトと同時に、
MacintoshとUNIXとの連動性を追いかけていました。
その核心はTCP/IP
=Transmission Control Protocol・Internet Protocolでした。
今ではインターネットとの連結などは無視できるほど簡単ですが、
その当時にMacとUNIXが繋がるというノウハウは、
このベンチャーから始まったと言ってもいいでしょう。
大メーカーである自動車企業内のUNIXとMacが繋がることが技術でした。
そのTCP/IPは、決してシグマプロジェクトとは切り離してこのプロトコルを
それぞれの企業向けとしてスタートさせていました。
なぜ、この1985年=バブル直前に戻るということは、
重厚長大が軽薄短小になって、
日本の経済は20年間が失われたいったと考えていいのかもしれません。
つまり、TCP/IP はその頃は実際も性善説の社会観でしたが、
今はこの企業の主力商品がネットワークの安全性確保になっていることです。
結局、ポスト・インターネットでの次世代、その根幹を求める、
その時代に私たちは追い立てられているということです。
デザイン界は、ポスト・コンピュータでの基幹産業を
なんとしても発見する時代になっているのです。

* 『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』
* 「シリコングラフィックスを使っていた頃」
* 「ブリューゲルが描いた盲目の人たち」
* 「哀悼・スティーブ・ジョブズ氏」
* 『SNSを創造的破壊させるデザインが必要だ』


目次を見る

『ゲームコールセットの信用と信頼にある価値』


   


     11月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

水鳥や小動物を呼び出すための呼び笛です。
10種類の「音」をドイツでセットにした「ゲームコールセット」。
多分、米国のアウトドアショップで手に入れたモノです。
果たして、それぞれの呼び笛の音がそれぞれの動物に適応しているとは、
正直には試したことはありませんが、「価値」が備わっていると考えます。
あらためて「価値とは売り手が隠しもっている値段のことが原意」です。
自分は価値とは次の三つで成立していると定義しています。
 ● 好ましいコトやモノ
 ● 望ましいコトやモノ
 ● 信頼と信用されているコトやモノ
以上のように考えることが出来ます。
問題は、信頼は出来るけれど信用はされていないこと、
信用は出来るが信頼はさせられないこと、
このいずれにも価値という効能性は存在しないということです。
ゲームコールセットと名付けられているそれぞれの呼び笛は、
カラス、ウサギ、鳩、カッコーなどの鳴き声を笛で呼び出して、
観察をしたり写真撮影をするのです。
このゲームコールセット(フーベルタス)は、
信頼された鳴き声が信用されているという価値があるということです。
万一、その鳴き声が実際の動物と一致しなけれは、
信頼と信用が無いから、好ましくも望ましくも無いということです。
自分のデザイン価値観には、このゲームコール、それぞれの音が
いつも耳鳴りしていることを想い出します。

* 『「場のちから」の「ば」と「ち」にあるデザイン』
* 『セシウム除染もデザインが深く関与すべきだ』
* 『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』
* 『サスティナブルであるための原意と欠落点』
* 『最高級品=最高価格であるべき万年筆の登場の意義』


目次を見る

11月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

11月11日 先負(丁酉)

発想には、
まず、信用性を求めます。
そしてそれが
信頼感にならない限り、
発想には
「価値」が生まれません。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る