kazuo kawasaki's official blog

Archive for 9月, 2017


09月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

09月14日 赤口(甲辰)

自動車ディーラー、ガソリンスタンド、
コンビニ、ファミリーレストラン、
どれもこれもマニュアルどおりに設計
されていて、
この「画一性」は本当に美しくない。

『デザインの極道論』量感


目次を見る

『福井時代は運転手付きのボルボで移動しつつも』


   


     9月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

マジソンアベニューにあるモーガンズの裏にキタノホテルがあります。
30代の頃は、NewYorkにはよく行っていました。
キタノホテルには日本料理店がありました。今は知りません。
丁度、夕焼けの時にシルバーのステーションワゴンが止まって、
まさに映画のように、北欧の人達がその車から7人降りて来ました。
夕焼けに照らされたその車は、とても美しくてくっきりと記憶に残し、
帰日すると、カーデザイナーだった後輩に、記憶の車を告げると、
それはボルボのステーションワゴンだということにが分かりました。
この車はその当時、日本のGマークグランプリにもなったほどです。
周囲が私に運転させないようにと運転手を募集してくれていたので、
車はこの車ということに決めました。
運転手募集から選ばれた一人と会うと
ズーッとタクシーの運転手だったのです。
その車で輪島に行ったら
帰りには大変な雪で道路が凍っていたのですが、
とても安全運転であり、彼は間に合わないという時も一定の高速で、
絶対に間に合い、眠りたいというと眠れる運転でした。
5年間彼にはお世話になったのです。
カマロはズーッとありましたが、
一度BMWのiシリーズも改造して乗りましたが、
全く自分の運転には合いませんでした。
そして、よく金沢美大の後輩たちが、アウトビアンキに乗りたいということで、
この車を手に入れてもいましたが、これほど故障する車はありませんでした。
それで、ベンツS320が一番良さそうということになり、
カマロとS320は個人的に福井時代に乗っていた車です。
結局、名古屋市大にいくことになり、S320は名古屋に持っていったのです。
このS320が一番長く乗った車だと思います。
名古屋市大時代には、またまた色んな車に乗ることになるのです。
運転手付きでのボルボ時代に、
彼はダッシュボードにガラスの水入りコップで、走っていたこともあり、
おそらく彼の運転が最高でした。ハイヤーの運転手も彼より下手で、
よく、下手くそな運転だと私は面と向かってよく言ったのです。
名古屋に着いて来ないかとも言いましたが、
家も建て小学生の子どものことも考えて福井に残りました。
名古屋時代にはまたとんでもない車遍歴をしたのです。

* 『New Yorkでのホテルから海外のホテルを決めてきた』
* 「10年使用すると、そうだったのかということ」
* 「モンテカルロ、そして車載携帯電話もあったカマロ」
* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』
* 『ヘルメットとヘッドライト、デザインの見直し』


目次を見る

「モンテカルロ、そして車載携帯電話もあったカマロ」


   


     9月 13th, 2017  Posted 12:00 AM

モンザで私の行動範囲はとても広がりました。
ともかく、もうマンションも入院と共に引き払っていた私は、
懸命に退院を誰よりも早くとだけ考えてリハビリテーションに励みました。
基本になったのは、チーフが東芝の玉川工場(医療機器専門)図書館で、
見つけ出してくれた分厚い本でした。
米国でベトナム戦争傷病兵、
その中で車椅子になってしまった人のための訓練でした。
その、日本のリハ訓練の半分で退院出来るというプログラムに、
この病院のリハ訓練日程を半分にして取り組んだことです。
素早くステップを踏んでいる私は車椅子障害者から苛めを受けました。
これはいずれ書き残したいと思っています。
ともかく赤坂にデザインスタジオを持ち、車もモンザよりもっとというので、
シボレー・モンテカルロにしましたが、
余りのロングノーズで、赤坂の小路の坂では上りでは先が見えないこと。
3ヶ月ですでに車椅子対応に改善したにも関わらず、
シボレー・カマロ・ベルリネッタにしました。
これには、車載用の携帯電話をほとんど最初に取り付けたぐらいです。
これも最初は国会議員だけというのを言いがかりの論理で取り付け。
時には交番前歩道に乗り上げてここに電話してとかやらなくなるのですから、
こんな理由を一杯並べて担当者は私が三日通ったらOKでした。
この車載携帯電話だと、上手いラーメン屋に出かけて、電話で店の前とか、
最初は仰天されますが、電話をして食べ回ったこともあります。
当時はどうせ40になったら、寿命はなくなるのだからという荒技行動でした。
しかし、結局、このカマロで 56豪雪前夜に福井にUターンしました。
福井から東京には、このカマロをかなりの速度で乗り回していたのですが、
私には運転することをやめさせようという周囲の声で、
私はこれまた、New Yorkで見かけた美しいボルボのステーションワゴンには
専門の運転手付きで乗ることになるのです。
ともかく、北陸自動車道はとても運転が楽しい高速道路であり、
福井県内の伝統工芸の産地から若狭地方の原電も見て回り、
これは危険な建物と直感したぐらいです。
いつもこのカマロは、とても力強い車だったと思います。
カマロは11年間、マイナーチェンジが無い車でした。

* 「私の小さなふるさと・福井県」
* 『思い出の38豪雪と56豪雪、雪と対決してきた我が人生』
* 「車イスは器械だから、『自力』の身体化は必然訓練」
* 「慈愛は慈善には決してつながらず」
* 『モノに無頓着であってはならない!』


目次を見る

09月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 13th, 2017  Posted 12:00 AM

09月13日 大安(癸卯)

かっては五大器械と言っていたのに、
なぜ、今では機械かを再考すべきだ。
機械では無い。
機器である。
機械学科はあっても、
機器学科が無い。
ロボットは機器である。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

09月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

09月12日 仏滅(壬寅)

これまでの「機能主義」には、
時代的な変革の時が来た。
機能には機能より器能があると主張する。
それは機械には器械もあり、
すでに機器の時代だからである。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『フリーランスになって最初の車』


   


     9月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

リハビリテーションのために、
私はK労災病院での苦しい毎日を
実は半年しか受けていません。
それほどリハ訓練は真面目に受けていました。
たとえば、朝の検温で37度Cを越えるとリハ訓練は休まざるをえません。
38度Cでも、私はコップの水で体温計の体温目安を下げることを覚えて、
それでよく訓練をその病院の体育館に行きました。が、
結局、何度もその場で倒れたことがあります。
ともかく早く退院したかったのです。
あるとき、車の運転をしてみないかということで、
患者さんの車を借りて運転しましたが、右ハンドルはとても乗降不可能です。
中原街道で大渋滞を引き起こしたこともあります。
車椅子使用者は左ハンドルに限ると思い、なぜ左ハンドルなのに、でした。
退院間際に車を選んで注文をしました。
それはシボレー・モンザのハードトップでした。
この写真とやや似ています。
改造されたモンザが病院に来たときには大注目されました。
私自身もこんなに屋根が低い車は初めて見ました。
ともかくこの病院ではいい思い出は全くありません。
だから、毎月の診察も完全に無視していたので、
東京時代は相当に体調を何度もこわしていました。
ともかく、あるメーカーの指示で赤坂の新築マンションで独立しました。
しかし、それは東芝社員のまま、特例で独立したのです。
あるメーカーとは「レコード針のナガオカ」でした。
入院から徐々に外出の時に、ナガオカの試聴室に行き、
「川崎さん、独立しなさい」と薦められたのです。
「音を聴いたら、川崎さんはこの世界に帰ってくるべきだから、
独立準備はこちらでやるから」でした。
だから、赤坂から豊島区までや、明け方には国会議事堂から銀座を抜け、
晴海埠頭までメチャクチャに飛ばしていたことがあります。
その内にいずれ暴走族と言われる連中に絡まれましたが、
私が車椅子だと知ると皆が守ってくれていました。
だから赤坂のマンション前には暴走族がタムロしていました。
車椅子になって最初の車がモンザであり、
横浜ナンバーで走り回っていたのです。
ところが、140km/hを越えると車にかすかな振動を感じたので、
この車を買い換えることになるのです。

* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』
* 『ワインはセンスを決めるひとつのアイテムだ』
* 「フリーランススタートの頃」
* 『素材=ボロンとダイヤモンドですでに開発していた』
* 『わが人生最期の車は美しいデザインを』


目次を見る

『高校時代はホンダカブ・バージンセピアに乗っていた』


   


     9月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

最近、カーデザイナーを目指しながら運転免許証を持たない、という
そのようなデザイン学科生が出てきていて呆れます。
おそらく、オートバイや車、それぞれのオートレース、カーレースでの
新しい技術提案では何が一番進化してきているから優勝しているかなど
分からない若者が増えて、車が彼らの物欲には全くなっていないようです。
私は当然ながら自転車に乗ることから始まり、
中学時代には、それなりに誰も乗っていない自転車だったので上級生に
ものの見事に苛め殴られていたので
父の強力な進めをいいことに少林寺拳法を始めたと言っていいでしょう。
高校に入ると、父は警察大学校を出て、警視となって、
まず小さな警察署の次席(副署長)になりました。
原付バイクのたった半日での筆記試験が満点なら、免許取得OKでした。
ともかく最初に回答提出をして、満点で原付バイク免許を持ちました。
そうしたら、父からホンダカブを突然買ってもらったのです。
これで丸岡からバス通学がバイクで福井市内高校に通学していました。
バイクに乗ると、当時は高校では125ccのオートバイまでOKであり、
まだヘルメット無しの時代でしたから、
125ccから250ccのオートバイに憧れていました。
ペダルとグリップアクセルの関係が納得できずにいたら、
先般、ホンダカブでのその指摘をしていた番組を見ました。
だから雪が降る寸前まで、高校はバイク通学でした。
ただ、当時はセーレン・キルケゴール伝を懸命に読んでいたので、
とてもこのバイクがバージンセピアという商品カラー名は言えませんでした。
また、何度かスピード出しすぎの交通違反を繰り返してしまい、
違反はその頃は父が取り消してくれましたが(今は絶対無理)、
その度に福井県警機動隊の道場拭き掃除を3度ほど。
この方がとても大変なことでした。
まさか、美大に進学とは思ってもいなかったので、
カーデザインなど当時は全く知りませんでしたが、
大学入学と同時に夏休みは自動車学校で免許取得に通って
28日で仮免試験でしたが、教官の態度に呆れて、
ちょっと暴力事件を起こしてしまって免許取得は禁止されました。
母も父が警官の間は辞めなさいと言っていました。
そして、東芝で体調を壊して福井での療養中に、
訓練も受けずに仮免試験を4度目、筆記試験は横浜で取得しました。
その免許取得は車椅子で車運転が必要になることの暗示だったようです。

* 「カーオーディオはもっと進展するはず」
* 「希望を企望に」
* 『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
* 「10年使用すると、そうだったのかということ」
* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


目次を見る

09月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

09月11日 先負(辛丑)

器能と機能、
おそらく器能というのは身体との密接感、
機能というのは近接感という 
これまでの「機能論」を
変更を余儀なくさせるだろう。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

09月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 10th, 2017  Posted 12:00 AM

09月10日 友引(庚子)

機能主義を改める時だ。
それは機能から器能があるだろうか?
機械主義ではなく、
機器主義ゆえ
機能と器能があるかである。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『鼻濁音は日本語から消えるが同時翻訳「器」となる』


   


     9月 10th, 2017  Posted 12:00 AM

日本語は世界的にも難しい言語だと言われています。
確かに、私世代は9年間も英語を学んでも、それは受験用にすぎず、
私自身、今なお苦労する言語です。
日本語でさえ、いくつかの困難さが明白に私が身体的にも認めています。
しかし、母音はたった五つですから韓国語の文法とは等しいにも関わらず、
母音は韓国語が日本語に勝って多く複雑です。
日本語の発音で単純な母音数に対して、やや難しいならば、
それは鼻濁音という発音系だと思います。
それはこの鼻濁音は「が」が「ガア」か「ンガァ」がありますが、
これは地域性と世代で、すでに現代の歌詞では、ほとんどが「ガア」です。
おそらく鼻濁音は無くなる気配が偲びよってきています。
私は美大での英語の授業はあまりに酷くて、仏語を4年受けました。
しかし、これも会話などとても駄目ですっかりと諦めました。
60手習いで、やり直しを周囲にも宣言して自分を追い込みましたが駄目です。
ともかく、仏語の発音体系は唇・舌・歯・鼻濁音のきめ細かさが圧倒的です。
ところが甥と姪は、小学時代にフランス語・英語を自らが望んで学んだから、
姪は大学入試では仏語で受験したとか。
とりわけ、発語するロボットデザインの時には、基本は日本語でしたから、
鼻濁音ははずし、ともかく母音にその形態を求めたことがあります。
ところが母音ながら、ア・イ・ウ・エは工学で可能でしたが、
オで技術困難になりました。しかし、幸い私には
発生訓練での息の流れにオのみ、真っ直ぐではなくて曲がる空気道でした。
それがVo-cal=Voice Calculatorとなり、それは人工発声器=人工声帯です。
ともかく、私の世代は英語だけですみましたが、
大学人になってからは英語ともう一カ国語、二カ国語を最初は指示しました。
しかし、これほどグローバル化とローカル化さえ同時進行の時代ですから、
欧米語圏とアジア圏の言語習得もと、
次世代にはできるだけ多くの言語習得をアドバイスしています。
ただ一流ホテルマンは5ヶ国語では駄目で6ヶ国語必要と聞きました。
ところが、もう一つは翻訳機は翻訳器になるスピードが上がってきています。
それは機が器になるというのは、
機は3次元:言語の母音+鼻濁音+文法に対して4次元、
つまり時間軸が同時通訳になるのはもはや本当に「間も無く」なのでしょう。
日本人の言語空間は閉空間に閉じ込められていましたが、
次世代には教育手法での多言語習得と
同時通訳「器」の進歩で支えられるでしょう。
しかし、結局は心あるコミュニケーションでの表現力は、
自分開発だけでしょう。

* 『デジタル表現の基礎は、烏口や用紙感覚も必要』
* 「手習いまだまだ諦めずに・・・」
* 「オノマトペ=感性評価軸が学術検証された」
* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 「ハングル=表音文字・その根幹にある意味性」


目次を見る