kazuo kawasaki's official blog

「母と死別して45年も過ぎてしまいました」





母と死別して驚愕の45年目、母の命日でした。
これほど私が母と別れて45年も生きるとは思ってもいませんでした。
私が21歳母が47歳でした。だから私は47歳で大学人にもなりました。
私は当時は一人っ子でおそらくわがまま放題に育ってきたと思います。
食べ物の好き嫌い、すぐに喧嘩早くって、殴り合いばかりしてました。
医学部を目指して浪人していましたが、
母は、
「ドクターには向いていない。赤い血を見るより赤い絵の具が楽しいよ」。
美大時代も大学を卒業したら、ふるさと福井の短大で教職にというのも
母の側に居たかったからだけでした。
大腸癌で彼女は逝きました。
父は「大学を辞めて全財産を母の医療に使っていいか?」と言われて、
私は「いつでも大学は辞めて、母を生き延ばしたい」と答えていました。
手術後1ヶ月というのを、父は当時、彼のルートで6ヶ月母を看病しました。
ドクターが「今夜が最期でしょう」というのを覚えています。
母の隣で添い寝をしました。
母が透き通ったまなざしで私を見て、
ちょっと笑って、一筋の涙を流して逝きました。
私は嗚咽を堪えて、しっかりとしがみついていました。
その声が聞こえて、隣室に居る父やおばたちが、起き出して叱られました。
「どうして起こさないの?」と。
私は彼女にしがみついて誰にも彼女を見送らせたく無かったのです。
私は彼女の一生の21年間全てが私のものでした。
母は死の10日前に私宛の遺書を残していました。
「世界でもトップのデザイナーになりなさい!」と。
美大に入学した時に、ブレスレットと指輪を買ってくれましたが、
父は男が指輪やブレスレットなどしていないのに、何も言いませんでした。
「デザイナーだったらいつでも気障な男でいいから」と言われました。
田舎で私のファッションは奇天烈なことを母は歓迎してくれていました。
今、私は赤い絵の具も赤い血も見る立場にいます。
現在の私なら、
彼女に可能な限りの医療を施すことが出来ると思っています。
母の存在は、私の年齢とともにますます大きくなっています。
報告したいことが今年もいっぱいあり
それなりに精進してきたと思っています。


tag: 21年間, 21歳, 47歳, 6ヶ月, わがまま放題, トップのデザイナー, ドクター, ファッション, ブレスレット, 一人っ子, 一筋, 全財産, 医学部, 医療, 命日, 喧嘩早, 嗚咽, 報告, 大学人, 大腸癌, 奇天烈, 好き嫌い, 手術後1ヶ月, 指輪, 教職, 最期, 死別, 殴り合い, , 気障, 浪人, , 添い寝, 精進, 美大時代, 赤い絵の具, 赤い血


目次を見る

One Response to “「母と死別して45年も過ぎてしまいました」”

  1. Kazuo KAWASAKI's official Blog | 企望を「までい」実現へ
    12:01 AM on 6月 5th, 2016

    [...] なかった」。 それを聞いて、やっと父との別れに私は号泣しました。 *『母と死別して45年も過ぎてしまいました』 *『指編みを思い出しながら』 *『63歳まで生きました・母より年上 [...]


This entry was posted on 金曜日, 6月 5th, 2015 at 12:00 AM and is filed under ConsilienceDesign, 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. Responses are currently closed, but you can trackback from your own site.