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Posts Tagged ‘「資本主義からの逃走」’


『資本主義からの逃走』
 「雷神の手からスルリと・・・『失』という意志」


   


     10月 2nd, 2009  Posted 10:07 AM

「失」とは、電光石火です。
私の「失」の概念は、
雷鳴あるいは稲妻のようなまっすぐに、
直進して迫ってくる光あるいは雷電がイメージです。
雷神のごとき自然界の不可思議な意志です。
それは、自然界から人間に指示された意志と言っていいでしょう。
まさに、「手から抜け落ちて、判断をせまってくる力」の印象です。
「失」は落ちてくるのです。

今、私たちは、
「失」ならば、
「失敗・失念・失礼・過失・損失・滅失・・・・など」を
想い浮かべるでしょう。
しかし、「失」の原意は、
自然界の意志が電光石火で、
私たちにあたえられた試練だったのです。

福沢諭吉は、
「脱亜入欧」をなぜ、明治維新を通して日本人に勧めたのでしょうか。
「文明開化」と「西洋化」に、彼は説き続けました。
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「人は人の上に人をつくらず・・・」と。

これは、米国の「独立宣言」、
トマス・ジェファーソンからの引用でしたが、
そのことまでは歴史的に言及されてこなかったのです。
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「安政の大獄」で斬首されたり、
獄死した志士を黙して見送った
自己への憤懣と自虐性を
おそらく死すまで抱いていたものと思います。

よって、
彼は、体制には決して与することは出来なかったのでしょう。
これは、徴兵されて戦地から
生還した人々が抱いた信念と同質のものなのです。
「戦後民主主義」の自虐性と憤懣は、
連続して振り落とされてきた、
「失」のごとき、
戦勝者たちがまるで雷神の振る舞いを演じました。
すなわち、その程度の「歴史」感覚だと私は思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「失」という神判を与えられし基軸へ


   


     10月 1st, 2009  Posted 9:45 AM

歴史は、
常に「戦勝者」によって
陳述されてきたエクリチュールに過ぎない、
と私は思っています。

まさしく生き残るのは、
「戦勝者」かも知れませんが、
歴史に冷徹なまなざしを投げかけられる人間こそ、
知的生涯を遂げれる「失」なる品性と品格だと思っています。

なぜなら、
この品性にのみ神判を受け入れることができます。
そして、
この品格にこそ、
歴史を読み解く才能が与えられます。
だから、
「失」というテクストから
「無」を見つめて
創造する能力を許してもらえるのです。

私には、
すでに「戦後民主主義」の呆れ果てる欺瞞さは、
無血開城して幕藩体制を滅失させ、
明治維新を打ち立てた当時の体制者たちから、
現代にまで引きずっている戦勝者。
彼らによって書き続けられている
想像力欠乏者たちの謀議としての歴史観です。

この歴史観を真正面から見つめ非難し、
私の品性としての美学に反射させれば
モノに宿すデザインの力が生まれるのです。
歴史の「失」を「無」に変換してこそ、
美学を成立させることこそ「デザインの基軸」でしょう。


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『資本主義からの逃走』
 「松柏後凋と詠んだ哀しみ」


   


     9月 30th, 2009  Posted 12:33 AM

出典は「論語」です。
「子曰く歳寒くして松柏の凋=しぼむに後=おくるることを知る」

これは、松や柏、柏も檜の一種のコノテガシワといわれています。
松も柏も常緑樹ですから、
冬になっても、葉っぱが散ることはありません。
つまり、冬という季節になってもそうした常緑樹の姿は不変です。
このように、人間も、危機受難を直視したとき
初めてその人の真価が問われるものです。

冬は、樹木が落葉しますが、
松柏の青緑濃い姿は、混乱している時代にこそ、
その人の信念を表しているというメタファーです。

「安政の大獄」(wikipeda)で、橋本左内は斬首されました。
26歳でした。
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米国から黒船でペリーが現れました。
徳川幕府は開国を迫られました。
尊皇攘夷と徳川家の世代交代での将軍跡継ぎ問題や
公家の様々な陰謀、何重にも複雑な問題の中で、
「国家体制の国際的指針」を明確にしたのは、橋本左内でした。
幕末の志士たちへ、そして適塾(wikipeda)の仲間への
このメッセージを
最も怖れていた井伊直弼(wikipeda)は大老に就任と同時に、
橋本左内こそ政治的危険人物とし、
斬首を思いついてしまったのです。
彼は、侍ですから、せめて切腹のはずが、
斬首という指令こそ独裁でした。よって、
「桜田門外の変」(wikipeda)で、井伊大老は暗殺されます。

この実情を福沢諭吉は傍観を決め込んでいました。
傍観することで、彼なりの意志決定をしていたのでしょう。
一つは、すでに蘭学ではなくて英語が必需だと分かっていました。
しかし、英語は当時、幕府の厳重な管轄下にありました。
だから、幕府を利用しなければ自らを修練はできなかったのです。
そして、1860年の「咸臨丸」(wikipeda)勝海舟(wikipeda)によって、
太平洋を横断し、通商条約締結に向かうことも知ってしまっていました。
「咸臨丸で海外へ」という思いで、
「安政の大獄」は無視せざるをえなかったようです。
しかし、適塾仲間の処刑を十分に知りつつ、
それでも渡米した気持はどうだったのでしょうか。
少なからず、「自虐感」にさいなまれていたと
私は思いたいのです。
だから、彼は勝海舟を批判し、
ワシントンには行っていないのです。

橋本左内が辞世の句で、論語を引用して、
「苦冤洗い難く、恨み禁難し・・・・誰か知らん」
と言い放った相手は
福沢諭吉のように幕府に臥していた人物たちだったはずです。


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『資本主義からの逃走』
 「日本の哀しみ、松柏後凋の心を語り継ぐ」


   


     9月 29th, 2009  Posted 9:36 AM

私は、米国内でも「資本主義の失敗論」が
最近は語られ始めていることに、多少、期待感があります。
しかし、それらは大きな間違いの論評が多いと感じています。
彼らは結局2008年に資本主義が失敗し失速状況に入っている.
と考えているのが余りにも多いことです。

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米国は、二大政党の入れ替わりによって、
自国の利得主義を第一義にし、
世界の先導国家意識に浸りきっています。
けれども私は、
日本人ゆえの、三つの争点を上げておかなければならないでしょう。

●「情報化時代の到来によるポスト工業下意識主義の終焉」は、
まず、西ドイツで予測(=意識社会化)されていたという事実を、
米国が主導したという勘違いがありました。
そのことは東西ドイツによって
「ベルリンの壁の崩壊」(*Wikipedia)=「社会主義の終了」になっていったのです。
実際的にもこの時点で、資本主義も終焉していたのです。
そのことに気づくことない金融工学という幻想学識の拡大と実践に、
資本主義のさらなる進歩というこれは妄想に米国は取り憑かれていきました。

●次に、共和党の「保守性」は、これも米国主導での中近東対策でした。
それは、天然ガスの剥奪戦=テロとの戦いとしていく9.11事件で、
さらに彼らは、その「保守性」の強固な保全、口実の明白さづくりに入っていきました。
その反省があったにもかかわらず、
今度は民主党の「保守の保全」がいかにも「革新」と言わんばかりに
アフガンのベトナム化再来に向かっています。

●そして、疑似資本主義である「市場経済主義」という社会主義を
中国全国民に隠避している中国の台頭は、
米国の予想以上であったのではないかと私は推測しています。

はてさて、この三つの誤認識を真正面から米国に指摘できなかった日本は、
アジアでの存在感を失って取り残されているという次第です。
「誰か知らん、松柏後凋の心を」と私はもう一度、
書き改める役割を感じています。
この役割は、橋本左内の辞世の句を持ち出すことです。
しかも、この重圧を生涯持ち続けなければならなかった福沢諭吉の存在です。
その代表的著作「文明論之概略」に集約し、
そこで語り残せなかったことにまで遡及しなければなりません。

bunmei


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