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Posts Tagged ‘されどデザイン’


「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM



自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」-「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」-「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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「世界・世界観変革が始まる」


   


     1月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM


3.11は世界転換の序章にすぎなかったと思います。
本年は、世界主要国家のリーダーが変わります。
それはリーダーたる資質如何によっては、
私たちの日常をも変えてしまうことになるでしょう。
もっとも私たち日本人は、自然の暴力性で、
これほど多くの同胞をいっぺんに失いました。
私は自然との調和とか共存は本来ありえないと考えています。
調和と共存というのは幻想にすぎません。
むしろ、自然と人工の対決の中で自然を取り込むこと、
自然とはある部分では断絶することも考えるべきです。
共存というのが思い上がりだとかんがえるわけです。
人間は自然の中では生き延びられないことを思い出すべきです。
その最大の理由は原子力も本来は自然環境の中の放射能を特化。
技術の最も高密度で集約されていたはずの原子力は自然からの恩恵でした。
それを人間の思い上がった制御・役務怠慢に他なりません。
その怠慢は資本主義への信頼というより運用のいい加減さでした。
その「資本主義的運用」がどれほど薄汚れていたかを思い知らされました。
これにはもう一つの大きな背景「民主主義」があります。
私は、資本主義と民主主義で包み込まれていたことには、
ここ数年大きな疑念がありましたし、その管理、
すなわち「政治的支配」への不信感は最大値になっています。
「たかがデザイナー」にすぎませんが、
「されどデザイン」の大きな力を知っています。
よって、この職能たるデザイナーとして、
歴史的・思想的な背景を再度「王座」=リーダー、
そのあるべき姿を歴史的な思想に回帰して求め直し、
その結果を自分のデザインに込めてみたいと考えます。
古代原始キリスト教では、王座の「権威と権力」は、
賞賛と喝采を受けるべきと記載されています。
そして、民主主義での賞賛と喝采は
単純に「選挙」という代替行為にすぎず、
その簡便性にひょっとすれば世界・世界観は埋没、
いや押し流されたのかもしれないとさえ考えています。
今年はそれを明確にデザインで表現するつもりです。
「王座」は、本来は「神の座」でした。
とりわけ、日本の「神の座」にすわるべきリーダーは、
その役務=サービスを十二分に果たさなければなりません。
その構造は「オイコノミア」に2世紀から記載されてきましたが、
中断された期間に、近代思想や近代科学が割り込んでいたことは事実です。
(画像は、コンスタンティノポリスの「王座の準備」・ルーヴル美術館蔵 10世紀末から11世紀初)


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