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『いつもの日本文具大賞の審査会』


   


     5月 30th, 2022  Posted 12:20 AM



毎年この時期は「日本文具大賞」の審査会が開催されます。
ズーッと考えていたことは、
この賞で設定されている「デザイン賞」と「機能賞」についてです。
毎回表彰式の壇上で話しておきましたが、
「デザイン賞」は、決して装飾ではなくて、
社会に向けた「問題解決・難問解決」の「応答・回答・解答」なのです。
また、「デザインは機能である」と言い切ることは間違いなのです。
機能性だけでなく、性能性、効能性、です。
性能は、数学的な性能のアップであり、
効能は社会参加と端的に説明しておきます。
デザインは装飾的側面もありながら、
応答・回答・解答という段階的な答を導き、
提示した「問題解決」の「解答」なのです。
デザインは、付加価値では全体価値をつくることで、
装飾的だと判断するのは大間違いです。
今回の審査では、日本の色彩論的な解釈、
色彩学からの判断が間違っていると、
気になる赤色があったのでそう感じました。
例えば、救急時、医療環境での血の「赤」は、
医師も看護師や患者にとっても
関わる色で、血の扉色への恐怖感を心理的に無くす、
あるいは残像の緑を生理的に無くすなど、空間や制服等にも
それぞれの問題を解決する色を決定していくことになります。
まだまだ日本の医療は遅れています。
一つの色の違和感は、同商品の展開の中で浮いていたのです。
時代に先手となる提案も大切ですが、
教育の原理原則も見失ってはいけません。
さて、私は75歳まで審査委員長を辞めようと、
雑誌社やデザイナー達で次の審査委員長を決定して欲しいと
そんなことを主張しました。
長老だからこそ言えることをしっかり述べておきます。
人のデザインを真似をするデザイナーや、
デザインでの知識が欠落しています。
デザイナーは職能家として、知識と良識は絶対的に守ってほしいです。
この文具大賞の優秀賞は「商品として大ヒット」します。


『「文具大賞」も甘えすぎているから6つを講評』

『日本文具大賞・機能部門グランプリが示していること』

『美しい小道具箱が登場=デザイン部門グランプリ』



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『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』


   


     11月 4th, 2015  Posted 12:00 AM



「KK塾」スタートは米国から、すでに大阪大学招聘教授である
濱口秀司氏の講演と私との対談、観客からの質問により、
予定時間を大幅に超える熱気の中で行われました。
講演内容は、林信行氏が、
会場から同時間のままSNSアップをしていただきました。
この実況があったためか次回参加者の申し込みが殺到しました。
したがって、ここでは私が彼との対談や観客への回答を
記述しておきたいと思います。
私からの対談テーマというか質問は、
IoTの今後、特に人工知能の可能性でした。
私は彼のプレゼンテーション映像や彼が認知している、
特に彼は「Bias的手法での成功例」や、
阪大親友・石黒教授との合作である2体のロボット会話、
その会話に、人間が加わるだけで、
2体ロボットには、全く人工知能化はいらないことを説明。
そこで、私の持論となりつつある「人工知能無理説」、
つまり、DNAと神経がロボットに実装されない限り無理を
人工心臓デザインの実際や、エボラ出欠熱がRNA破壊など
そうした実例での人工知能の無理説、無謀論を述べました。
人間細胞を決定している遺伝子=DNAはすでに解釈されていますが、
DNAを制御しているRNAを破壊するエボラ出血熱は
ほとんど医療治療は不可能です。
これは100億人を地球環境がとても支えられないことへの
自然淘汰なのかもしれません。
濱口氏の回答は明解でした。
ともかく仕事としての問題があれば最適解を必ず出しますという姿勢。
これこそ、私がデザインを学術性と芸術性を統合出来る能力者、
こうした次世代を大阪大学大学院の私の講座、
「コンシリエンスデザイン」で育成したいテクノロジストです。
そのお手本がまさに濱口秀司氏でした。
観客からの質問は二つに集約できました。
濱口氏は「ともかく練習・訓練が必須」でありその方法論紹介でした。
そして、私にも向けられた質問は、
自分の提案が拒否された場合は?でした。
これは私がデザイナーとしての40余年間の生き様でした。
私の提案が拒否されたなら、
「拒否する人物の社会的存在そのものを総否定する」ことです。
この意見には濱口氏も賛同をしていただきました。
理由は簡単です。
私はデザインからのイノベーション定義こそ必要と考えます。
イノベーションの提唱者であった
「社会階級論」著者・シュンペンターは、
革新ではなく、コンバイネーション(独)、
「新結合」でした。
これこそ、コンシリエンスであり、
これも18世紀の造語であり、対語であったレジリエンスを
現在の大学機構、特にデザイン系大学では
この教育が無いことです。
だからこそ、
私は「KK塾」でも一般的な認知論を開講したのです。
次回からこの講演レポートを配布します。

講演実況 by林信行氏*http://togetter.com/li/893475


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『照明の文化論としての陰翳礼讃』


   


     8月 31st, 2015  Posted 12:00 AM



日本には文化として照明には二つのことばとその結果の漢字があります。
ひかりとあかり、その結果として影があり、影には、陰と翳です。
ひかりとは、見つめられない、まぶしさがあり、
あかりは、見つめることができる炎である焚き火や蝋燭の炎でしょう。
古来、日本人には、まぶしさとあかりそれぞれのコントロールは、
障子の存在であったと私は理解しています。
そして、このひかりとあかりを制御してきた影の存在を体系化した
文化として谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」という美学論を持ちました。
この記述は、なんとも廁の美学性まで語られるのです。
私は「陰翳礼讃」こそ、今なお熟読されるべき照明論だと考えます。
「陰翳礼讃」は一言で断言すると、
太陽の光線は朝日、夕焼け、木漏れ日を障子という素材で、
光線=ひかりを見事にあかりとその陰翳効果にしていくのです。
現代技術は、ひかりのコントロールに焦点があたっていますが、
私が最も重要だと考えているのは、陰翳の技術というより手法です。
光はその光度を限りなくアップさせることは可能になってきました。
そのことで、私たちの視覚能力は狂ってきたこともあります。
たとえば、液晶LCDモニターからブルーライト光線が多くて、
ブルーライト削減かカットの眼鏡が最もらしく語られます。
しかしこれは大きな間違いであり,重要なのはドライアイ対策です。
同様に,空間の明るさは、灯りとしての照度が暗がりの制御であり、
それは暗闇に差し込んでくる一条のあかり、木漏れ日のまぶしさまで
人間の視覚能力の対応性を築くことだと私は考えています。
あかりごこちこそ、陰翳礼讃につながっている照明論です。
すなわち、暗がりのなかでの灯りを造形言語=designing languageで
照明のデザインを行い、その結果としての陰翳こそ、
形態言語=designed languageとしての結果認識だと理解します。
照明論は明白にLEDとWifiとIRと電磁波そして放射能の制御に
私はこれからの照明論の統合性=コンシリエンスデザイン現象が
あると言い切ることができます。
それは機能論としてのひかりの安全、規模論としてあかりの安心、
ネットワーク論としての無線化技術、文化論としての陰翳です。


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