kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘アナロジー’


『資本主義からの逃走』
  「生老病死・身体空間性を見失うとき」


   


     10月 15th, 2010  Posted 12:00 AM

身体空間認識で見失うこと
身体空間は空間認識だとメモをしました。
E.T. Hallのプロクセミクス=proxemicsを参考にすれば、
それはレトリカルな表現が可能です。
ただし、このレトリカル性、あるいはアナロジー的な思考をプラスさせることは可能だと思います。
だから、身体空間は空間認識では次元的な表現に寄りかかることは簡単簡易です。
ただし、肝心なことを見失うことの哀しみから焦燥感や喪失感を私は考えてきました。
「身体空間=空間認識」が全く出来ない状況を人間=万人は持っているということです。
「生老病死」
つまり「生老病死」が、空間認識での身体空間性を見失うことだと思います。
私たちは、「生」の時空間、その時の身体空間は忘却しています。
「老」=老いていくことは、本来ならば蓄積されてきた経験によって、
身体空間を知り尽くしているはずです。ところが、
これは全く真逆のことになりかねない空間認識での危険性が満ちているということです。
「老」が「考える」という象形文字のコンテクストを十分にひきずっているということが、
実際はその真逆性があることにも転換していると思うのです。
物忘れから認知症・アルツハイマーは空間認識力を0次元にしてしまう無情さがあります。
そして「病」です。
病というより病気という身体的かつ生理的な異変は、
空間認識性をすぐに見失うものだということを私自身が沢山経験しています。
重篤ともなれば、その時の本人に身体的空間は、ある錯覚をもたらします。
たとえば、幽体離脱とか臨死体験です。私もこうした経験があります。
しかし、あれが幽体離脱といわれている白日夢にすぎないとか、
臨死体験と思えるような悪夢だったのだと私は自分の経験を整理しています。
無と空、ゆえの間
少なからず「生老病死」は、
身体空間の「無」あるいは「空」という哲学性や宗教性を打ち立ててきました。
特に、日本人の伝統的な文化だったとさえ考えることができます。
すなわち、身体空間と空間認識にとって、「生老病死」と「無」・「空」は、
実は、さらに重大な「間」という伝統性を創出してくれたいたのかも知れない、
というのが私の意見です。
身体空間のトポロジー
さらに、私は、自分の「生老病死」という多元性と多様性にトポロジー感覚があります。
身体空間のトポロジーだと表現しておきます。
このトポロジーは、確かに「空」なる身体内部を構造化していると考えています。
デザイナーゆえ、その視覚化=Visualizationに囚われきましたし、その解読を試みています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・5」


   


     7月 23rd, 2010  Posted 12:45 AM

付加価値論への議論意志
私はデザイナーとして、
「デザイン価値」は「付加価値」ではないことを、
経験上から様々な角度から述べています。
そして、デザイン価値は「全体価値」という結論を今後も変えることはないでしょう。
しかし、デザインはやはり「付加価値」と断言する人を、
批判も非難もしようとは思っていません。
まして揶揄したり排撃する志はまったくありません。
ただし、議論をする意志は明快に持っています。
その理由は、
人間は様々な「価値観」・「価値感」を持ち合っていることまでを否定するようでは、
自分本来の志としての美学性を失うことになるでしょう。
そして、あらためて私の役割は、
「デザインは付加価値ではありえず、全体価値」ということを
実作・製品・商品・デザイン運動で証明していくことです。
「ことば」と「かたち」の相対性を発言していきます。
前回は、人間とモノの関係=近さという距離性と距離感について記しました。
それをさらに、深めておきたいと考えます。
近さ・隔たりは、次の言葉が距離構造の術語として上げられます。

● 近接=nearby
● 近似=approximation
● 近傍=neighborhood

こうした言葉が術語化される領域は、文学から数学までに及びます。
したがって、それぞれの学問領域で術語意味を確認しなければならないでしょう。
たとえば、「近似」=approxiationは数学術語ですが、
これが文学としては、島村抱月の戯曲術語として残っています。
演劇用語であることは意外と知られていません。
むしろ、数学での近似値・近似式・近似計算の方がなじみがあるでしょう。
私はこうした術語定義は、
レトリックやアナロジー、あるいはメタファーとして、
デザインによる造形論理への展開ができると思っています。
それが、私が「ことば」と「かたち」・対・「かたち」と「ことば」、
この相補的でかつ相対的な論理性であり、
この論理無き造形感覚には、
「全体価値」、すなわち、「問題解決」と「難問解決」、
これらの応答・回答・解答成果=デザイン価値は創出されないと確信しています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「相観論的に現代社会を見直せば、
        経済的景観がデザインできる」


   


     2月 12th, 2010  Posted 10:00 AM

physiognomy

相観=physiognomyという「学論」があります。
植物群落の外観的な検証であり、
これは群系=formationと言われる見方と、
そしてもう一つが群集=associationという見方です。
私は、現代社会、あるいは人間の集団性を、
生物・植物の生態群として、ある意味での景観論を
相観的なアナロジーをデザインに応用していこうと
考えてきました。
その根本は、エコロジーをデザインでどう解釈し、
なおかつ、
経済的なエコロジー論をデザイン背景にできるか、
ということを熟考してきました。
だから、いきなりここでも、
associationとformationについて記述してきたのです。
考えてもください。
企業名で「×××××アソシエーション」が、
資本主義企業では使われてきました。
そしてその時代の終焉の様相が進行してきたのです。
とりわけ、私は医療制度、医療環境に、
このことばづかいを援用しました。

群集と群系

つまり、
群集は、さらに細密的に、群系化することで、
それぞれの機能性が明確になると考えた結果なのです。
今、私は、「ビジネスモデル」がアソシエーション、
だとするならば、それはビジネスモデルが
「群集的」だったということです。
そこに、相観・あるいは景観、景気を再考するには、
「群系的」にビジネスモデルにデザインを付加すれば、
細分化した役割分担が明確になると判断しています。
もっと具体的に言えば、
「日本は群集=アソシエーション社会」だったのです。
日本が群系化していく方向を見いだせていない。
いつまでも単一民族だから、群集だったのです。
世代・男女・老若など、どの群系の生態国家だろうか、
という発想が必要になってきたと判断すべきです。
企業=アソシエーションが危機になっているなら、
それは群集的な活動統合体だったことなのです。
「企業をフォーメーション」とすればいいのです。
一時、企業グループではなくて、
企業内企業という分業化をしたことがありましたが、
生態系・相観に学ぶという視点は欠落していました。
私は、群系と群集という分類と概念での見直しを、
デザイン的景観手法として提案しておきます。


目次を見る