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Posts Tagged ‘アポリア’


「生きることの模範・範疇・範囲として」


   


     3月 5th, 2012  Posted 12:00 AM


マリアン・デレオ監督「チェルノブイリ・ハート」、
これは「反原発」のドキュメンタリーです。
このドキュメンタリーは重大な原発事故後の報告映像です。
どれほど原発事故が人類史上悲惨の極点を伝えています。
そして、この映画の冒頭には
「日本人のみなさんへ」という次の詩が流されます。

「生きることについて」

生きることは笑い事ではない
あなたは大まじめに生きなくてはならない

たとえば 生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない
(中略)
そのことをいま 嘆かなくてはならない
その哀しみをいま 感じなくてはいけない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはいけない

私たちが原発事故で佇むべき熟考の
動機付けになると確信します。
無論、日本は原爆被災国家であり、
さらにフクシマでは、自らの原電制度によって、
またもや「原子力発電・放射能」について、
多大な犠牲者の屍への哀しみを、まず、国家体制へ、
そして私たちの電化生活文明への猛反省を求められています。
私は「反原発・脱原発」も「原発推進」も、
結局は「放射能」へのアポリアで思考停止していると考えています。
「範原発」という目標と目的を掲げ直したいと提案します。
原子力発電所を、「建設から生産へ変更」、
「集中から分散へ、例えばタービンレスへ」、
「プルトニウムへのブレークスルーで別原子核へ」、
原子力技術の全否定=「反原発」は、
何も解決に至らないから「原子力技術自身の革新」を主張しています。
その具体例をデザイン提案していきたいと考えてきました。
私はこの原子力技術の手法の変換、革新、
その範疇・範囲・模範への智恵創出を
「範原発」と呼ぶことにしています。
チェルノブイリの立ち入り禁止地区という範囲には、
絶滅したはずの動植物のパラダイスともなり、
その範囲からの放射能汚染・ホットスポットは今なお人間の生存、
遺伝子破壊は連続しています。
放射能・放射線の諸刃の剣的な人間との関係性に「範」を与えること、
この重大さに発想を向けるべきではないでしょうか。
美しい花を愛でて日常を高度文明の中で護られ、
生き抜いた結果の死だからこそ、
美しい花に包まれた死をと私は願っています。


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「蚕は自然・遺伝子操作の繭は『反自然』か」


   


     3月 4th, 2012  Posted 12:12 AM


アーティスト・角永和夫氏の作品「SILK」は、
自然と反自然を提示しています。
ここから私たちが学び取ることは、自然と人工の問題です。
文明=飢えと寒さへの人間営為は、
自然への人工的な制御技術の獲得でした。
人間が自然、その総体である地球環境で
生き延びるためには「自然」から科学を
そしてその具現化としての技術を進化させてきました。
結果、この作品が見事に提示してみせた人工とは「反自然」であり、
蚕が遺伝子操作によって平面繭を「美しく」吐き出して死を迎えます。
しかし、その労働を終えた蚕は産業廃棄物になり、
地球環境には戻せないという現実問題と直面したのです。
「反自然」=人工とするなら、
人工の成果は廃棄物になっていくことが決定しています。
それは地球に在ってはならない存在を生み出してしまうことでした。
自然と人工に循環という理想型を人間は未だに準備できていません。
これが現代の文明を呪縛し包含し解決不可能=アポリアとして
人間界を閉じ込めています。
この作品は、蚕と繭です。
この作品が自然保護団体から「反自然」と誹謗されている構造は、
「反原発」に重なります。
「反」を唱えることはアポリアを全面肯定している正義性に見えます。
が、人間が生きることを全面肯定するには、
「反」を掲げた問題設定では解決はありえないと私は考えます。
人類にとって、原子力・放射能に対しては、
「反原発・脱原発」・対・「原発推進」の構造ほど
アポリア全てを、実は、同一次元で全肯定しているのです。
原子力・放射能への「反原発」だけでは、
自然との調和などは智恵不足に他なりません。
自然との調和などありえないからこそ、
もう祈りにも通じる智恵が絶対に必要不可欠です。
人間は、生から死までを真剣に受け入れて
「生きがい」をもって自然なる死に至らねばなりません。
「反原発」というシュプレヒコールでは問題解決不可能なのです。
私は原発推進派と誹謗されていますが、
そんな立ち位置にいるわけではありません。
人工物・自動車による交通被災で歩けなくなり、
人工物・ICD=除細動器で心臓を護り抜いています。
私は、「反原発」ではなくて「範原発」です。
この根本は、「範自然」観を
デザインで創出することだと考えているからです。


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「BOPは世界構造の隠喩的病いとなっている」


   


     5月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

1949年生まれの私。
当時の世界人口は25億人。
おそらく私は2049年を見ないでしょう。
ここ数年、私自身が世界人口を
追いかけつつ、その増大の速さは不安でした。
年内に70億人、2030年には100億人を突破しているようです。
反してわが国の少子化での人口激減は、
世界構図、世界構造を根本から変えてしまうことは明らかです。
この人口爆発で予想される世界的な問題、
その代表的な問題には、食料・水・エネルギーの構図が見えます。
BOP=Bottom of the Pyramidという人口図式。
三角形に、所得構造分けされた図解です。
私は授業・講演会などで世界構図のビジュアル表現として、
最も多用してきた図解です。
しかし、この図解である図式は、世界隠喩であることも明白です。
それは、人口分類が「所得階層」になっていることです。
スーザン・ソンタグの名著に「隠喩としての病い」があります。
この著作をベースにして、世界構図の隠喩となるのは、
人口爆発である「BOP図式」と「エネルギー」がテーマ可能です。
そして、この現実には世界構造が隠喩的な図解化ができます。
人類の大きな問題が隠喩となって私たちに覆い被さっています。
つまり、人口とエネルギーに現代世界の大問題があります。
現代世界の一つは強欲な人間欲望と、
もう一つは、さらに貪欲な人間社会の階層的な支配構造、
すなわち、国際政治の表象が支配力学になっています。
ところが、本来であれば知性的かつ知識階級である人も、
支配力学の経済的暴力構造の隠喩性からは解放されていません。
しかも厄介なことは、
この隠喩性は「情報」あるいは「情報化操作」によって、
世界構造が閉じ込められているということに他なりません。
この支配構造の中で、人々は対立し共謀し幻想に陥っています。
けれども、人間の誠実さ、「かけがえの無さ」を確信する人には、
決してアポリアにはしない生への希望があるということです。
人口とエネルギーは、まさしく世界概念の隠喩という病なのです。
この病に、デザインは必ずや企望になるはずです。


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「資本主義からの逃走」
  「日本・東日本大震災からもう一度復興と再建」


   


     3月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM


M9.0大震災は、1000年に一度ゆえ想定外。
さらに、原電事故はフェールセーフへの過信。
日本は敗戦後の大復興から復活を果たしてきましたが、
もう一度、私たち・日本は復興と再建を余儀なくされました。
私はすでに天災ということではなくて、
これほど科学と技術で人間生活を日常化してきた限り、
天災もすべからく人災が呼び込んでいるとさえ思います。
天災を想定外と言わざるを得ないとすれば、
天災と戦災で包囲されている地球上の生命体である人間は、
自らが人災を引き込んでいると断言すべきかもしれません。
特に、原子力発電に関しては、
社会的賛否を常に対立させてきました。
一方は「安全神話」に、
一方は「核アレルギーでの全否定」にと、
相反したままに電力会社と都市文明の利得が優先されてきたことは事実です。
となれば、日本は戦災で被曝し、今度は天災で被曝寸前状況になっています。
私は、人類が生み出してしまった科学成果、
このアポリア=解決不可能の思考停止にこそ、
より積極的に立ち向かっていく「生」を対称化すべきと考えてきました。
職能・デザイナーとして、デザインの本質と結論しています。
したがって、原電推進でも反原発でもありません。
人類の、たかがデザイナーに過ぎませんが、
されどデザイナーとして、真摯真剣に、
アポリア脱出を使命・義務としての
行学実務を生きがいにしたいと思っています。
敗戦後、復活をまた余儀なくされました。
私自身、健常者から身障者として、二重苦を受け入れています。
それだからこそ、多分もう残された時間では、
復旧・復興・復活まで見届けることはできないとも推測しています。
しかし、されどデザイナーとして限界まで、
デザイン職能で生き尽くしたいと祈念しています。
原電は「建設」ではなくて「生産」です。
「規模のダウンサイジング」と「社会制度の高密度情報化制御」が、
原子力への千年計画デザインであるべきでしょう。
「推進」と「反原発」を止揚しなければ、この国難解決は不可能であり、
人智の行学実務に、あらためてデザイン位置を確認しています。




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『資本主義からの逃走』
    「人権と情報はアポリアのまま」


   


     12月 16th, 2010  Posted 12:01 AM

人権と民主主義
人権は民主主義の根本です。
社会が個人尊重を第一義にしている知恵です。
ただし私自身には民主主義懸念が生じています。
だからといって代替主義を見いだしてはいません。
結局、人権と民主主義がアポリアなわけです。
人権へのハラスメント
それは、今や個人は情報によって、あるいは情報の中でのみ、
個人の存在が社会的認知をされてしまっていると考えるからです。
「人権」、その保全・保護・防御すべからく「情報」以外であれば、
身体的、または精神的な人権は、ハラスメントを超えればこれは明らかに暴力であり犯罪です。
無論、セクシャルハラスメント・パワーハラスメントは日常語になっています。
ただし、ハラスメント意識社会は民主主義が前提です。
情報セキュリティはアポリア
人権が未だに軋轢・圧迫されている社会は、
政治的には独裁政治、国際的には未熟な社会といわざるをえません。
ところが、この未熟さを強化するツールにコンピューターの利用は独裁的であるわけです。
人権の消去はコンピューター上で可能となります。
つまり、人権と情報、コンピューターの構造は、
先進国家では、人権確認のいわゆる情報セキュリティに連鎖させて制度化されていますが、
この構造化が技術化されているだけです。
結果、やはり、「人権」と「情報」の関係は、
政治性と社会性の中ではアポリアのままだと言わざるをえません。


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『資本主義からの逃走』
    「プライバシーという人権の荒唐無稽さ」


   


     12月 14th, 2010  Posted 12:00 AM

情報時代のプライバシー
英国で人権ということが生まれました。
そして人権は数世紀そして現代に連続。
しかも、今では人権と情報が連結しています。
特に、米国ではプライバシー=「right to be let alone」という考え方が、
情報に人権が包含されるようになりました。
「一人でいて、誰にも観察されない状況」というプライバシーは、
すっかり「人格性や個人存在」を情報化することが密接で社会権と同一的な関係になってきました。
しかし、情報化時代→情報時代での個人性=プライバシーは、
一方では、堅固に保護されるべきでありながら、
もう一方では、そのプライバシーそのものを商品化=情報化するという商業主義が
資本主義の重大な市場価値になっています。
商品価値となるプライバシー
特に、「顔が知られる」=タレントさんや俳優さんという職業においては、
プライバシーそのものを商品価値にすることが重大という局面を持っています。
デザイナーという職能にも、その一面は極端にあります。
私も「designed by Kazuo Kawasaki」という名前、(Kazuo Kawasaki®=商標権)で、
自分のデザイン、創作権を明示する場合の人権は、三つの側面を持っています。
一つは、「私という存在・デザイン能力の表現物であること」、
ゆえに「創作者としての責務」を表していること。
これは「表現の自由」に委ねながらもその自由性において、
専門職能家としての常識・倫理・美学を世の中に問いただすことになります。
それは、表現物への義務感を背負っていることの証左です。
プライバシー情報への誹謗中傷
ところが、一方ではその明示ゆえに、
嫌悪されたり、あるいは非難中傷をうけることも受け入れなければなりません。
その覚悟はあっても、誹謗中傷されることの理由が、嫉妬であったり、
言われ無き荒唐無稽さもしばしばあるわけです。
ところが、この批判にも「表現の自由」とかを持ち出されるとき、
この人格否定の情報を制御できる法的整備はまだまだ整え終わっていないという状況に直面します。
さらに、そうした言われ無き誹謗が風評である場合には、
プライバシー侵害を阻止する手立ては、現代、まったく不在と言っても過言ではありません。
となれば、「right to be let alone」というプライバシーなどは
本来ありえなかったという極論も実際は公知されていたのかもしれません。
人間社会観の未発達性を確認しておかなければなりません。
つまり、「情報と人権」の問題は、このこともアポリアだと私は思っています。
「人権」に対する「情報」の暴力性をみるわけです。


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『資本主義からの逃走』
    「情報のアポリア化は個人認証(人権)で直面」


   


     12月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

道が無くなる
「突然、道が無くなる」こと。
これをギリシア語の原意でアポリアです。
目の前に突然、あるいは瞬間、
難関・難問が立ちはだかることを意味しています。
現代、人はその存在を社会的に認証しているのは情報化されている社会的な存在性です。
ということは、いわんや人権と社会権の関係が
「情報」に集約されていることになっているということです。
人権情報の社会化というのは、個人認証ということです。
フリーランスデザイナーになったときに、「銀行金庫のデザイン」を手がけたことがあります。
20余年前の体験でした。バブルになる直前だったと思います。
デザイン対象となる「銀行金庫」は、かなり軽薄なモノだと思いました。
それは、貸しビルの二階でも設置できるシリーズの金庫でした。
床と天井を破壊すれば、すぐに金庫ですから、
それが銀行金庫というのはこの日本だから可能なモノであり、
当然、輸出される工業製品ではありませんでした。
しかし、この金庫の鍵については先端的な技術導入が決まっていました。
虹彩認証
それは「虹彩認証」によって、金庫内への出入りが決定されるモノでした。
この銀行金庫では、始めて識る様々なことをデザインするという経験をしました。
いづれ書きとどめることだと思っています。
さて、「虹彩」というのは、
人間すべて一人一人が異なっている指紋以上に各人の認証性を証拠づけるものです。
ところが、これもその当時にいづれはコピーされてしまうことが予想されていました。
つまり、人権を認証する基本はありえないのではないだろうかということでした。
要は、情報、特に個人情報を管理するパスワード、指紋データ、声紋データ、虹彩データ、
すべてがコピー可能だということです。
結論は、個人認証の手段はすでに行き詰まっているアポリアだということです。


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『資本主義からの逃走』
     「人権と情報のアポリア」


   


     12月 9th, 2010  Posted 12:34 AM

基本的人権
1215年、マグナカルタ。
人間にはこの権利があるという憲章です。
英国で定められました。
日本にこの憲章を基本にするためには新しい言葉が必要でした。
「基本的人権」という言葉を創らなければならなかったのです。
「基本権」・「人権」は、自然権として人間には備わっているということを
日本が受け入れたのは第二次世界大戦後でした。
英国ではすでに「人権」は基本権と言われてから、
この権利は、時代と社会に対応して変遷することで、
「権利」という共同議決の内容は充実してきたことです。
これは人類の知恵の結晶だったと思います。
しかし、わが国では「人権」という言葉すら創りださなければなりませんでした。
そして、現代、「基本的人権」の形式・内容・その質はさらに進歩していますが、
「人権情報」となってきてからはアポリアになってきていると私は考え込んでしまいます。
人権の私的公的アポリア性
私は、憲章化するために日本ではあらためてこの言葉が必要だったというより、
すでに「私」と「公」という漢字に基本権という考え方は存在していたと判断していますが、
すでに国際的議決化が困難=アポリア化しているということです。
「人権」はわかりやすく言ってしまえば、
私事ではプライバシーであり、公的にはパブリックが私事をどう扱っていくかということです。
さすがにこの人間の「基本権」が英国で気づきそれ以後発展進歩してきたことで、
プライバシーという言葉の定義も随分と複雑になりました。以前、このことについてまとめました。
それは、人権を情報としてとらえ直さなければならない時代に
私たちは生きるようになったからです。
このアポリア性に踏み込んでいきたいと考えています。


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11月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 30th, 2010  Posted 10:00 AM

11月30日 仏滅(甲申)

文学とは、
文章博学ではなく、
本来はこの恋愛という
人間関係のレトリック(修辞法)、
あるいは
メタファー(隠喩)、
アポリアの組み合わせが
基本なのかもしれない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』会者定離


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『資本主義からの逃走』
 「グローバリゼーションの基礎はグローバリズムだろうか」


   


     11月 16th, 2010  Posted 1:32 AM

世界観への一元化
グローバル化はグローバリゼーションです。
近代化の下敷きは市場経済の拡大と拡張でした。
これは地域固有の価値観や制度、規範や権威に変形を与え、
実際は、欧米型の世界観への一元化だったと回帰することができます。
詳細に観察すれば、地球上の国民国家はそれぞれの国民経済力を単位として、
それぞれ国家の文化が形成されてきたわけです。
しかし、東西冷戦や南北問題を引きづりながらも、
結局は資本主義経済と地球全体が西洋化する均一性に向かってきたのでしょう。
ところが、冷戦の終結、南北問題よりも大きな宗教・民族対立・テロリズム、
そして地球環境破壊、民族間・国家間格差は、
世界秩序という虚構よりも動揺とアポリアを引き込んでしまったようです。
この地球的転換がグローバル化と断言していいかもしれません。
グローバルビレッジ
グローバル化の方向性や地球全体を、グローバルビレッジという理想実現や、
web空間でのネットワークによるコミュニケーション保全が問題解決、
そうかもしれないという期待も破壊されています。
たとえば、難民の存在、外国人労働者という低層、賃金格差は、
すでにBottom of the Pyramidという認識に直面しています。
私は、地球市民理想やグローバルビレッジ、
それこそ世界意識の強化という主義性、
グローバリズムという理念あるいは哲学を基本とした権威性に期待したいと思っているのです。
グローバリズムに連結と連鎖
要は、この理念・哲学での権威性にリーダーシップ性を任せないかぎり、
地球全体は動揺どころか紛争・テロリズム・環境破壊の進行は、
人類の存続性を剥奪することになるでしょう。
だから、翻って、地域主義、小さな国家の物語を強固にしていくことしかありません。
ローカリズムはグローバリズムと連結と連鎖していることは間違い無いというのが私の見解です。
私は、伝統工芸産地や機器の微少な部品産業などの小さな物語が、
大きな物語としての地球一体連合国家あるいは連盟国家になっていく気がしてなりません。


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