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Posts Tagged ‘オブジェ’


『モノは実像で鏡面に、虚像にはそれが「神話学」となる』


   


     7月 20th, 2019  Posted 12:00 AM



デザインに最も近い領域には芸術があります。
さらに、現代アートが寄り添っています。
私はデザイナーですが、作品「PLATON’S ORGOAL」では
デザインからアートを近づけました。
プラトンからミッシェル・フーコーまで12人へのオマージュとしての造形を
オルゴールとしてかたちと音に込めました。
1994年ギャラリー・間で、2006年には金沢21世紀美術館で展示し、
そのままパーマネントコレクションになっています。
私のこの秋発表の新作は、モノ・オブジェです。
改めて、「芸術の陰謀」を再度読み直しました。
モノゆえにコトとのつながりがあっても、
私はモノとコトを分けたいと考えています。
モノは私独自の素材論であり、
コトもそのオブジェならばと意図しています。
しかし、私の造形言語=designingの意図は、
形態言語=designedの内容に繋がってもいるのです。
モノ・オブジェであることからは、コトの世界は何も意図していません。
ゆえに、モノとコトは完全に分離されています。
芸術が主観性であれば、デザインは客観性。
この客観性をデザインで事細かく設計しています。
この書籍を再び読み終え、新作には「Mythology from an efficiency」を
テーマとしました。実像であるモノが鏡面に浮かび、
虚像でモノの神話学まで私は持っていきたいのです。


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『絵手紙ではない、スケッチ程度で写実的な手紙の絵筆』


   


     3月 15th, 2019  Posted 12:00 AM



時間があれば、最近は手紙にスケッチを描いています。
いわゆる「絵手紙」ではないです。
手紙には、自分のスケッチを入れて、毛筆で簡単な挨拶を入れます。
これは、美大時代の故・米田先生がやっていた色紙の影響があります。
その際には、こうした絵筆を使っています。
ほとんどが、最も簡単なニュートンの絵筆だけです。
8色だけしか使っていません。
最近の絵筆は、7万円のモノもありますが、
一般的なニュートンの絵筆で、墨汁も十分に使えます。
もしくは、ほとんど携行用のパレットと絵筆でも十分です。
これまで、随分ニュートンのセットを買い集めていました。
やっと、とりあえず、自分で描けるのは、とってもいいなぁ・・なんです。
オブジェは、葉っぱや、ミカンや、紅葉などを、
これは写実的にを、ともかくこだわっています。
が、アイディアスッケッチ程度の2,3分で、と決めています。


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「招き猫の右手と左手の効能」


   


     10月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM



奈良から帰阪途中のサービスエリアで見つけました。
いわゆる「招き猫」です。
初めて知りました。
「右手は金を招き、左手は人を招く」というらしいのです。
ともかく、写真にいっぱい収めましたが、
私の物欲刺激にまではいたりませんでした。
ところが、写真をパソコンに取り込みながら、
「縮緬生地」のぬいぐるみは、
なかなか招き猫の一般性からは離れていて、
癒やされるモノだと思った次第です。
「招き猫」を室内に配置することに抵抗があったから、
きっと欲しいとは思わなかったのでしょう。
しかし、右手と左手の「効能」結果を知ったこと、
こうした俗世間的な物語り=ナレジオンを知っておくことは大事です。
ワイフから、ある有名海外ブランドにも招き猫が、
しっかりと右手と左手のペア猫が
オブジェとして存在していると知らされました。
招き猫の効能は癒やされます。
今夜は、そんな休日を過ごしました。


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「トイカメラってかなりスゴイことになってます」


   


     8月 5th, 2012  Posted 12:00 AM



トイカメラ=玩具的カメラ・・・
いや、「カメラおもちゃ」、
または「おもちゃカメラ」と言っていいかもしれません。
「おもちゃ」ということば、
この呼び方は日本では室町時代頃という説もあるようです。
手で「持ち」=持て遊ぶ物ということばから変遷したとか、
しかし、英語でのToyの語源は不明とされています。
それなりのほぼ都市伝説的なことも集めましたが、
ここでは省略しておきます。
ともかく、Toy Cameraが登場してきて使ってみたら、
これは絶対に使い物にならない頃もありました。
子どもの「写真ごっこのオブジェ」だと思っていました。
しかし、眼鏡スタイルをみかけました。
そこでメガネフレームをガジェット化したトイカメラもあり、
また、とうとう買いました。
試してみると、今ではなんとこれなら十分に使えるのです。
こうなるとトイカメラを収集しそうになる自分に出逢ってしまいます。
ともかく、そんなにそれこそ全てを「お持ち歩く」
あるいは「持て遊ぶ」玩具性に縛られそうです。
しかし、きっぱりと断念出来ました。
理由は、ガジェット性から開放する
新たな機器デザインの世界観をデザイナーとして、
拡大する決心に変えました。
現代、デジタルカメラは格段の進化を遂げてきました。
その選択巾の拡大性には目を見張ります。
スマートフォンからこうしたトイカメラ、
もちろん、プロ仕様まで、ミラーレスも、モーターレスも、
おそらくこの技術で、日本が先頭に立っていると言っていいでしょう。
「視覚」認識を支援するカメラ、その多種多様性を創出、
先導することはわが国の独自性も拡大すべきでしょう。
私は、プロ仕様よりもこの「おもちゃ」的な想像性にこそ、
「創造」を誘導する力を再確認できました。


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「相当困難だと思う」


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:00 AM


先般、被災地の石巻市海岸線にあった瓦礫です。
本来は大きな広告塔だった缶詰のオブジェですが、
看板としては田舎っぽい存在感があったと思います。
デザイナーの私としては美しい看板どころか認めがたいオブジェです。
しかし、
瓦礫と化したこのオブジェは今では石巻のオマージュになっています。
大津波の巨大さ、自然の猛威を表示しています。
私自身被災地に復興計画を提案後、体調を崩してしまいました。
それには現実を凝視すればするほど、
デザインでの復興デザインのあり方を再考させられるばかりです。
が、「なんとしても復興への想い」は決して諦めてはいません。
その復興にデザインは不可欠だと確信しています。
ところが、最近、被災地それぞれの人口流失から、
現政権の無策性、日本の大企業が及ぼす景気感などから判断すると、
「相当に困難」だと思います。
理由を整理してみました。
まず、「地方行政力の実行力が基本的に欠落」しています。
とりわけ人口10万人程度での行政人材に、
その計画性から実行力などを期待することはほとんど困難です。
1000年に一度などは経験値で活動できることを凌駕しています。
しかも、行政機能の範疇に、復興実現などあるべきことでもなく、
ノウハウから創っていかなければいけません。
大震災以前に、日本の各地方すべてが「シャッター街」であり、
その再活性化すらほとんど全滅状態でした。
そこに、大手広告代理店などの「再活性化プラン」や、
いい加減な企画プランナーと自称する連中のプランなども最低でした。
そうしたプランに地方行政はほとんど振り回されてきたと思います。
今回もそうした売り込みが多いようですが、
本物の計画を見極めてほしいと願っています。
私自身のデザインアイディアでも、
16mラインまでの対応デザインをしましたが、
南海トラフでの想定では、20mから36mまでの安泰ラインとなると、
そのデザイン設計でのアイディアを超えています。
今、石巻の瓦礫と化したオマージュを何度も見つめ再熟考しています。


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「泣くということ・喜怒哀楽の基礎感性行動」


   


     1月 14th, 2012  Posted 12:00 AM


基礎感性行動、なんと大げさなタイトルでしょうか。
しかし、「泣く」というのは最大に重大な行為です。
正直、大泣きしたのは幾たびかあります。
母との死別。
車椅子訓練のつらさに耐えがたくて恋人の前で。
大学人になって悔しさでどうしようもなくて。
これが大泣きせざるを得なかったことです。
母との死別は、独りっきりで河原で大泣きしました。
車椅子になるという医師からの宣言では決して泣きませんでしたが、
当時、恋人の前ではリハビリトレーニングが苦しくてつらくて。
大学人になってからは、恩師に電話口で、
この恩師はもう逝かれてしまいましたが、
最近も、もう唯一の恩師の期待に応えられなくて、
還暦も過ぎたというのにこれも電話で泣きました。
子供の頃は、「泣いて帰ってくるな、
男子は泣くな」と教えられていましたから、
それはどこかで泣いて帰宅したことがありました。
「涙壺」、これはアラブ地方で、
兵士になった夫の帰りを待ち望んで、
妻がこれだけ泣いて待っていたというシンボルのオブジェです。
私は、「喜怒哀楽」はきっちりと
人生を四等分している感性だと思っています。
だから、喜んで、楽しすぎても泣きます。
無論、大声で笑いこけます。
同様に、怒り狂っても笑えて済ませることができます。
つまり、「笑うこと・泣くこと」これは人間感性、
いや感情の表れです。
「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という心理説もあります。
今、日本は「泣きたいほどの苦境にあります」。
だから早く「笑える日」になってほしいのです。
泣くことを強いられたら、笑い飛ばせる自力が必要です。
そのためには、喜怒哀楽と泣く・笑うを対照的にできる感情制御が
感性を鍛えてくれるでしょう。
感謝のあまり、涙が流れること。
憤りが過ぎて、涙が流れること。
涙と泣くという感性の構造を
自分の心の一番大きな引き出しにしたいと思ってきました。
心の表情が、泣いたり、笑ったりすることだと思っています。
心が折れそうになることなんて、日常的に襲ってきます。
だから、自分を鍛錬するには、泣く・笑う、
これは、感性を行為化する基礎だと思っています。


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