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Posts Tagged ‘コンテクスト’


「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」


   


     4月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

ここではデザインをテーマにして書いていますが、
ワイフから禁じられている分野が多少あります。
スタッフや学生達は知っていますが、
ただでさえ、「過激派」とか「怖い」とか言われてきましたから、
ホビーやコレクションでも、公開するにはヤバイ分野がありますが、
これもデザインする上ではとても参考になることが多いのです。
さて連休ゆえ、どうしてもまた読みたくなってコンビニで買い求め、
「やらないといけないこと、いっぱい」なのですが、
読み直して、この作品の仕立てと見立てに男の子としては惚れ惚れします。
何も評論を書きたいわけではありません。
漫画という表現形式の基本でありアナログ世界観に安心します。
そしてストーリー展開は「荒唐無稽」ですが、
主人公の完全無欠ぶりには、
やはりこれぞ「プロフェッショナル」が満ち溢れています。
ただ、私なりの銃器評価においては厳密に、
やや性能と機能の違和感があることはそのマニアとして意見を残します。
しかし、そのプロフェッショナル性が、
道具・機器・装置への性能と機能が見事に関連、
これには大きな敬意があります。
この徹底した性能への機能的なユーザビリティの成果が、
「荒唐無稽さ」を解消してくれています。
この解消の上に「完全無欠」のストーリーが成立しているのです。
最近の映画では、「ミッション:インポッシブル」が最も、
ゴルゴ13的な完全無比なストーリー性がありました。
「ブラック&ホワイト」のアクション展開も
つながっているように思います。
どうしても現代はCGでの演出性に頼りがちな映画表現にどっぷりです。
B/Wのペン描き・コマ割表現で、ストーリー表現に埋没できることでは、
この漫画がこれだけロングセラーになっていることでは
最高の表現でしょう。
いわば、「コンテンツ・コンテクスト」での荒唐無稽さは、
不可能な想像力=荒唐無稽さを、
完全に実現する「完全無比」=創造力になるプロセスと成果は、
ビジネス的にも引用できることがありすぎると思っています。
漫画はその描画性に、自分のスケッチが引きずられると、
デザイン=造形ラインから現実性を失うと思っていますから、
ほとんど読みません。
絶対に自分のラインが
大きな影響を受けてしまうことを知っているからです。
ともかくもう一度徹底的に、
「荒唐無稽」から「完全無欠」の投機効果を
再学習してみたいと思っている次第です。

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「書店の存亡・バーンズアンドノーブル」


   


     1月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

電子出版と書店、この構造の進展は加速度的になっています。
とうとう米国でトップの大型書店経営が怪しくなってきました。
amazonの革新的なeコマースは、書籍だけでなく、
本当にもはや、デパートの存在も危うくさせています。
バーンズ・アンド・ノーブルには、
私は1週間通った経験があります。
学位審査での医学英語合格をなんとかしようと、
最適な参考書を選びにともかく渡米し通い方法を考えました。
手に入れたのは「Clinical Interview」系の医学書でした。
200ページから400ページの書籍3冊の中で、
ともかく一番薄い本を受験用にしたことがあります。
確かニューヨーク市内には4店舗あり専門分野毎の店舗でした。
医学書だけでなく、聴診器や医学臓器モデルも売っていました。
おしゃれな店舗もあって、いくらでも立ち読みもできれば、
店舗内にコーヒーショップもあり読書ができる空間でした。
電子出版というのは、なんともいまだに語感が慣れませんが、
私自身も「自炊」が当然になっていますし、
ほとんどamazonで書籍は手に入れています。
書店には大変に申し訳ないことですが、やっぱり便利です。
年末に京都寺町通りの大書店が無くなっていました。
これはとても大きなショックでした。
ああ、自分にも責任があるけれど・・・ごめんなさいです。
京都は学生が日本でも最大に多い街にも関わらず、
書店が無くなってしまったのです。
学生も書店・本屋通いはしないのでしょうか。
書店が街に残る手法は一つだけあるのではと思っています。
それはショップ構成と書籍のショーアップ戦略が必要でしょう。
デザイナーとしてプランは持っています。
バーンズ・アンド・ノーブルが電子ブックnookを商品展開始めた時、
私はこれでこの書店企業の終末が見えました。
まず、電子Book「nook」は全くデザイン的に何の魅力もありません。
単なるビューアーというプロダクトデザインというモノ、
その程度の経営意思決定力では競合勝負不可能です。
しかも、ダウンロード方式にも革新性はありませんでした。
つまり、21世紀に入って世界の構造が変革し始めています。
そして書籍という形式・形態、しかも
情報というコンテンツとコンテクストが変貌。
要は、今世紀、「情報」を核とした変貌や変革は、
世界構造をも変化させているのです。
「書店」は前世紀の街要素・知識情報の象徴になってしまったのです。
思い切った「書店形式」がデザイン的に必要です。
そして、電子Bookという安易なプロダクトデザインでは、
世界変革は困難どころか終焉に加速度を持たせてしまうということです。

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「現代の重大概念と技術支援とのギャップ」


   


     1月 7th, 2012  Posted 12:00 AM

「光景」とは人間の生死を対照化する景観です。
そしてその光景景観=生死境界には、
現代性を共時する言葉・概念が表れています。
その一つが「コミュニケーション」という概念と手法だと考えます。
3.11の大天災時に、
生死という光景を決定づけていたのも「コミュニケーション」でした。
それは「コミュニケーション問題」として
再検証すべきものになっています。
NHKは日本の最大マスコミとして、
災害情報発信においては毎日トレーニングをしていると聞きました。
よってその放送があまりにも冷静過ぎるとの批判さえあるらしいのです。
推測ですが原電での事故トレーニングは行事でしかなかったのでしょう。
さて、今回の連絡コミュニケーションはラジオ・テレビではなくて、
地元では、地元それぞれの地域内放送でした。
それは日常ツールであり、メディアでは無かったのかもしれません。
そしてSocial Networkでのtwitterが最も情報の拡散を果たしました。
写真にあるようなケータイの充電風景と、
ホワイトボード上に書き込まれた現場情報の共有情景、
この風景と情景によって、「光景」を決定づけている、
「コミュニケーション」の手段でありツールでした。
つまり、「コミュニケーション」は、
メディアとコンテンツがその概念の中軸のように思われます。
しかし、ホワイトボードとケータイという「ツール」が
コミュニケーションの基軸でした。
私は、現代、communication論として、
media・contents・toolとして再考するならば、
あらためて、toolのデザインがcommunicationでは
com=二つ対峙する関係がnicateお互いに分け合うこと、
そのためのtool論が本当は大問題だと知ることになりました。
コミュニケーションにとっての重大事は、
コンテンツが中心では無いというのは私の持論です。
コンテンツよりもコンテクスト=文脈、
それは「分かち合う脈略」がコミュニケーションの定義だという主張です。
あらためて「コミュニケーション」という現代重要概念の共有共時性は、
contextとtoolをこれからいかにデザインと技術支援し、
技術進化を果たしていくかを確実にすべきと判断します。
単純に「コミュニケーション」は、語れば語るほど、
現代社会観での光景論を喪失していることを露呈しているのでしょう。
communication=tool+contextが正解なのかもしれません。
よって、mediaとcontentsは
光景=生死からは離脱した概要だということが可能です。

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「謝罪という行為」


   


     8月 20th, 2011  Posted 12:46 AM

「すみません」
「申し訳ありません」
「ご迷惑をおかけしました」
「許してください」
「ごめんなさい」
「お詫び申し上げます」
ほぼ、謝罪の日常会話常識語です。
反して、絶対に謝らない、ということもあるでしょう。
さて、この日常会話語=パロールは、
マニュアル化された言葉になっています。
サービス産業の重要語だと考えられます。
東芝社員だった頃、
クレーム処理を命ぜられました。
「オーディオラックの棚板が破損し指を骨折」、
デザイン設計者として、営業対策費を持って、
ある地方の小さな街に一日出張させられました。
東芝での商品安全基準は当時も大変に厳しくて、
「そんな訳はない、なぜ、そして面倒くさいなー」、
それが若いときの生意気さで一杯でした。
被害者という所にでかけると、
そこはいわゆるヤーサンでした。
オーディオラックには、それはもう常識を逸したモノが
これでもかと積み上げられていました。
(馬鹿じゃないの、こんなこと普通人やるわけないよ)
両手の指先が包帯で巻かれていました。
「お前さんかい、この設計者は」
「ハイ、そうですが、これは常識はずれでしょ」
いきなり、私から攻撃=口撃開始です。
「なにぃー」・・・(きましたね、やりますか)・・・
(いざとなれば、警察へ行けば成就する)と確信。
それから、しっかりと説得(略します)をしていたら、
彼は包帯を外して、
「今夜泊まってくか」ということになりました。
一泊してそのまま出社し報告書を書いた思い出です。
謝るべきではないこと、
謝るならば、どこまで真剣に非を認めるか、です。
サービス産業でマニュアル化された謝罪には、
時には、怒り=感情的にならざるをえません。
そして、国家の政治的謝罪問題に通じます。
ここからは、相当な政治的発言になりますが、
今夜それだけのエネルギーはありません。
結局、私自身、「デザイン瑕疵と謝罪」、
「サービス」という歴史的コンテクストから、
あらためて「サービス産業での謝罪用語」、
これは徹底的に見つめ直すことが必要でしょう。
この謝罪問題は、今回の大震災・原発事故から、
「死刑廃止論」にまでつながっています。
これは徹底して、「謝罪」という哲学理念が必要です。

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12月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 27th, 2010  Posted 10:00 AM

12月27日友引(辛亥)

ジャーナリズムは、
メディアのコンテクスト(文脈性)を
コンピューターという
ハードウェアによって破壊されてしまった
業種なのかもしれない。

そして、ジャーナリズムの意味も
喪失してしまったわけだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』事代主神


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『資本主義からの逃走』
「最終章『用間』、それを始めるための第1章は?」


   


     9月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

第1章・『始計』
「孫子の兵法」は13章13項目は『用間』です。
となれば、第1章目を確かめてください。
「孫子の兵法」は、まさに、デザインから始まります。
第1章は『始計』です。計篇と書き記されているものもありますが、
ともかく、戦争を始めるための序論であり、
計画というよりも計略を企画するための心構えのことについての記述です。
なぜ、戦争という事態にいたらなければならないのか、という情報、
それはデータとプロットあるいはコンテクストをテキスト化しておくということです。
そして、第2章で作戦に入っていきますから、ここからが「計画」と考えるべきでしょう。
私は、20世紀末からコンピューター技術による「情報」が、
確実に資本主義を変貌させると思ってきました。
それは市場と計画によって経済変動=景気循環は、
いづれは資本主義を終わらせるという予測に賛同してきました。
さらに私が注視してきたことは、「何が情報か?」ということでした。
何が情報か?のデザイン
そして情報の形式と内容を「・・・として・・・」という四句分別論によって詳細化したときに、
戦争論に結びついていたことです。
まさしく、経済活動での「情報戦略」には、情報の内容を大別することができました。
そして、要となる戦術論として「孫子の兵法」での『用間』をもって、
戦争そのものを回避するということに、
情報の功罪を明快にすることができたのではないかと思うのです。
しかも、この「兵法書」は『始計』=企画から作戦=計画がまず述べられているのです。
私はこの書き出しにデザインが置かれていることを書きとどめておきたいと考えます。
つまり、デザインをもって情報のその功罪を決定するという姿勢が、
「情勢報告」=「情報」とし、
その内容と形式を決定していく過程が「何が情報か?」であるかということを、
私は『始計』にあるものと判断しています。


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『資本主義からの逃走』
    「 文脈の遮断こそ、デザイン意図を共有させるかも」


   


     8月 31st, 2010  Posted 12:00 AM

遮断する文脈
デザインにとって、デザイン表現が投げかけることは、
デザイン意図を確実に伝達することです。
したがって、当然ながらデザインされたモノ・コトには
必要十分な脈絡を込めておく必要があります。
それは、ユーザーとモノ・コトの「対話」性が確実であることでしょう。
しかし、あくまでも文脈・コンテクストには、
連結性・連鎖性・連続性を遮断することでこそ、
受け手が送り手の意図を読み込むことでの共有感が残ることがしばしば起こることです。
もっと端的に言えば、
主語なく述語だけで、
その主語を補綴する読解力を期待するデザイン意図のコンテクストがあります。
5W1Hすべてで語ることなく、どれか一つのWかHかを遮断する手法も確約としてありうるのです。
「Less is More」というのは、
もしかすると、遮断したコンテクストを仕込む手法かもしれません。
これがデザインにはありうると考えています。
「Simple is Best」とは明らかに違うのです。
しかし、これはある意味では高度な手法でしょう。
遮断文脈は高度な手法
なぜなら、これまでデザインは応用美術ゆえという誤解のために、
科学性や技術性を無視しているという批判や非難は、
遮断の仕組みをコンテクスト化してきたことかも知れません。
ユーザビリティというのは、確実なコンテクスト化です。
しかし、ユーザー経験を強化するには、
遮断化を仕組んだデザイン表現も、一方ではとても重大だと私は考えています。
けれどもこの文脈を仕組むには相当の表現力が求められていることを覚悟する必要があるでしょう。
遮断されている文脈を与えることで「美しさ」なることを与えることができるのかもしれない。
ただし、これは私の希望的な観測にすぎません。


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『資本主義からの逃走』
  「文脈へ入る差別と支援を受け止める・・・」


   


     8月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

退院直前の経験
リハビリ病院でようやく退院の目途は、
私はとても早かったと思います。半年で退院しました。
まず、一日外出して、病院へもどる。
三日外出して、また三日病院。
一週間外出して、一週間また病院というトレーニングでした。
親友が立ててくれたアイディアは、東京都内の一流ホテルを選んでくれました。
「海外へ行ったときのトレーニングと自動車の練習をするべきだ」と
彼はホテルを選んでくれたのです。
これは退院間際に病院で大問題になりました。
ホテル暮らしのトレーニングなんて、認められないと言われたのです。
車イス生活で、どうやって「生きていくか」という問題も、
「イラストレーター」で食べていくために、別荘地に家を建ててそこで暮らす、
という呑気な計画でした。
フリーランスへ
ところが、その話が東芝の技術系の上司が聞いて猛反対でした。
「独立しなさい。スタジオはどこかクライアントを見つけるから」ということになりました。
赤坂に新築のマンション、
その一室からフリーランスデザイナーになるという道を用意してもらったのです。
東芝は退社したいけれど、当時の労働組合は「残れ」というややこしい話になり、
東芝の社員のままに赤坂で独立したのです。
同時に、母校・金沢美大の恩師から「帰ってこないか」という話も入ってきました。
そしてまだ東京でデザインしていくならと「メガネメーカー」を紹介されました。
話は受けましたが、契約までの時間をもらいました。
音響機器がやっとできる自分にメガネなどとても無理と判断していました。
そしてとんでもなく病院で結論的に言い渡されていたことは、
「君の年齢で、この障害なら40歳までが寿命」という「宣告の会話」でした。
私は、このドクターを見下しました。もっともこのドクターにはいつも質問ばかりしていました。
うるさい患者だったのでしょう。
〈よく、そんなことを言い渡せるもんだ!〉
ソーシャルアドバイザーから退院前に、
「東芝の工員で、どうやって生きていくんだね?」、
こんな言葉も、当時私の勤務先は、「音響工場」であったことや、
そして大卒だとか、デザイナーということは一切話していなかったので、
見下されていたのでしょう。
差別発言から学んだこと
〈身障者は見下されている〉という初体験を最後に退院したのです。
そして、もう一方では、恋人や親友、職場の上司、恩師たちの心からの支援と援助がありました。
もちろん一番は精神的に、ひたすら励ましてくれる「父親の存在」でした。
交通被災・救急病院・リハビリ病院、そして赤坂で独立という私の文脈は、
「会話」・「談話」・「物語」の実体験から、
「コンテクスト」の全体と部分、要素と要因、非人間的な差別発言を受け取っている自分を、
自分が励まし再確認することでした。


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『資本主義からの逃走』
「iPadが加速させる新たな情報化・ラングが変わる」


   


     5月 16th, 2010  Posted 10:54 PM

Appleが変える歴史
iPadが登場してきました。
またもや、Apple社からの提示です。
1977年Apple?、そして1984年Macintosh128k、
1991年から1年半コードネーム・Popeye(実機が東芝にあります)
私自身がディレクションに関わりました。
2007年 iPhoneによってSmart Phoneが登場。
私は、iPhoneで21世紀はやっと始まったとどこかで書いたことがあります。
さて、先日、2010年5月2日にiPadを手に入れてから、
このパネル一枚にとうとう次世代クラウドと呼ばれるNetworkSystem、
それ以上の「進化」が始まる予感がします。
私のiPadは、Appleの日本人デザイナーN氏の奥様が
ご帰国の時に持ち帰っていただきました。ちょっと何だか自慢です。
無論不満は、私がこの発表と同時だった「COOL LEAF」新素材だったら、
もっと形態的には絶対に未来的だったと確信しています。
前置きが長くなりましたが、当然、アプリケーションには、
「アイコン」=ピクトグラムが象徴的な記号になっています。
この記号は、視覚的概念ですが、果たして?と考えざるをえません。
また、私自身がiPhoneアプリも3つ開発し販売しています。
この開発の時から、アプリケーションが「コンテンツ」ではなくて、
「コンテクスト」と「シンタックス」だと結論づけてきました。
この体験から、「コンテクスト」と「シンタックス」は、
三つの手続き・Procedureがあると考えています。
Procedure
まず、アプリケーションは「何をソフトウエア」として必要なのだろうかと考えます。

● 1 これは会話=パロールなのです。
  つまり、これまでの会話で、対話する者たちだけが理解しあえる
  「言葉」が必要なのです。

● 2 その「言葉」が一般化する必要があります。
  一般化するというのは、ユーザーが増えていき、
  パロールで語られた言葉の意味が拡大してしまうことなのです。

● 3 おそらくその意味の拡大で、
  元来のモノの名称そのもののイメージが変わってしまうことです。

たとえば、私の世代は、たとえば「切符」という言葉がありますが、
今ではこの言葉はすっかり「チケット」に変わっています。
なぜ、「切符」が「チケット」に変わってしまったのでしょうか、と考えます。
なぜなら、「チケット」は「エチケット」からの意味=contextを持っています。
したがって、私は、iPadアプリケーションで、次のような言葉の意味が必ず変化、
いや変貌、変質、変態するのではないかと予測しています。
Note・Albam・Chart・Matrix・Book・Graph・Draw・Mailなどなどは、
パロールからラングとなって、元来のcontextから離脱するでしょう。
ラング
ラングというのは、
「辞書」にやがて掲載される「定義化されて社会的な認識が決定された言葉」です。
そして、ラングとなれば、言葉の由来がここからまったく変わるのです。
それは、時代の進化であるとともに、経済活動すら変態させると考えます。
経済活動の変態は、それこそ、資本主義経済すら変質させるはずです。
iPadは「リトマス試験紙」になっています。
これを見て、「未来を見通せる知恵」が試されるのです。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションというモードと、コードとしてのファッション*」


   


     4月 17th, 2010  Posted 12:01 AM

MODE or CODE
モードは明らかに流行、現象としての流行です。
ファッションは、このモードで千変万化しているものと、
通常は考えられていますが、果たして?ということでしょう。
千変万化などは決して起こっていません。
つまり、モードとしてのファッションは、
明らかに、革新性=イノベーションの要因があります。
イノベーションといっても技術革新ではありません。
循環性による活性化です。簡単にいえば流動性の勢いがあるのです。
顕著な例は、
奇抜なファッションや流行ドンピシャリ的モノに、若者は魅了されます。
ファッションは、若者の特権的なモードになっていることです。
しかし、たとえば就活となれば、
みんなが就職モードと言いつつも実際は、
コードの中でのモードを必ず選ぶことになります。
それは「就活モード」という「コード」です。
この「コード」に革新性は、何事かの事変でも無い限り、
一新されるモードにはなりにくいということです。
では、ファッションを服装ジャンルから拡大して、
いわゆる「モードの体系」と指摘された消費構造に当てはめてみれば、
実際は、技術革新された新製品の商品氾濫は、
明らかにコードを一新して、モードを生み出しています。

デザインは、コードの文脈=コンテクストを消費構造化するとき、
デザインによる目新しさ、すなわち「外観的な特徴」によって、
「デザインされたモノ」=意味されるコトと意味されたコトを
消費欲望に変換させること、デザインが手法化できるということです。

しかし、私が指摘しておかなければならないのは、
このデザインによるモードの改変、あるいはコードの一新化です。
「外観」づくり=デザインというのではありません。
さらに、モード的な意味の仕掛けや、
コード的な意味文脈の・コンテクストに対しての、
デザインの役割です。
デザインは社会に対する態度である!
その役割には、デザインの本質を常に問いかける姿勢です。
それこそ、モホリ・ナギが「デザインは社会に対する態度」
と言い放った本質論です。
私は、この本質論には、
「デザインとは何か?」
という問いかけは最初からあり得なかった、とさえ思っています。
「デザインとは何か」を
「外観」→「機能性」→「使い勝手」→「快適性」=消費の快楽、
だから、「欲望の刺激」という図式に終始してきたのでしょう。
問いかけの変更、問いかけへの異議は、
「何がデザインとなるか」です。
この問いかけへの対応領域を、
モード領域とコード領域での応答性に変更するべきだと考えています。
そうなれば、
「欲望の刺激はデザインにあらず」ということは自明となります。
よって、「モード的な意味の創出がデザイン」でしょうか?
あるいは
「コード的な意味の一新がデザイン」となるのでしょうか、
という問いかけに、デザイナーの存在位置、
その確認ができると判断します。


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