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「日本の貿易アイテム液晶TVは再戦略化不可欠」


   


     11月 4th, 2011  Posted 2:33 AM

私はナナオのモニター技術で、
FORIS.TVという商品ブランドを立ち上げました。
そして、ナナオという小さな企業力エリアで、
その商品ブランドは成功させることができました。
FORIS.TVは、ファッションブランドショップでは、
デザインと品質で未だに選ばれています。

しかし、「地デジ化」が始まる直前に、
液晶TV事業を撤退させました。
理由は、国内販売・流通での利益率が極度に低下し、
とても大メーカーのような流通・サービス体制が
困難との判断がありました。正解でした。
デザイナーとしては個人的にもとても無念でしたが、
海外への輸出も、モニターのようなシェア獲得は、
とても不可能だろうと判断したことです。
けれども「性能・機能とデザイン」は、
決定的に国内では今もダントツの技術効果がありました。

最近では、国内の液晶TV事業撤退が始まっています。
まず、液晶TVでは私の評価でも最高水準であったビエラ、
この事業規模縮小というのには驚きました。
今、世界で最も技術成果で「映像の完璧さ」は、
東芝のレグザの最高機種=90万円しかありません。
可能な限りの技術を投下し、
市場の「投げ売り」価格とは切り離して、
まったく無関係にしているXシリーズだけでしょう。
これはナナオのモニターでも最高級70万円を生産した手法です。
それでも大量販売は無理でも必ず「売れる」のです。
かえって、「安売り」している機種は、
いわば共食い状況で潰れていってしまうわけです。
これは「ピッグ・サイクル」(養豚の安売り手法)です。
少なからず高価格にならざるをえない商品化が必要です。
私は自宅のシステムはレグザでネットワーク化と、
7.1chの超Hi-Fi環境をつくっています。
もう一つが、FORIS.TVとFORIS.HDです。
このリゾルーション技術を追い抜いている機種は皆無です。
ともかく「音響と映像」は私の極度な病的趣味性で、
現在の最高技術を生活環境に取り込んでいます。
映画館の映像などはもう観がたいほど解像度がありません。
私は、国内液晶TVの技術・デザイン・流通・貿易手法を
もう一度再構築すべきだと提言しておきます。
要は、「最高の音響と映像」を「つくり手」が熟知すべきです。
日本製であることは、高級な液晶TV生産です。
そして世界一のモノを国際化させるデザイン戦略が不可欠です。
やがて韓国も中国生産液晶TVに敗北することになるでしょう。
となれば「日本製液晶TVの新技術と革新デザイン」です。
そしてそのことを決定できる経営哲学が必要です。
日本の液晶TVは「高級化・高価格化」で、
何が「音響と映像」で最も素晴らしいかを問い直してみるべきでです。


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『資本主義からの逃走』
「#時代思想としてのファッションにするためにダイナミックスへ#」


   


     4月 19th, 2010  Posted 12:01 AM

連鎖系・構造系へ
ファッションは「モード」の話に収束しています。
ところが、モードは即、流行として軽んじられる傾向があります。
しかし、モードと景気は相補的なパラメータで連鎖しています。
モードは確実に、「イノベーション=景気循環」だと思います。
そして、確実なパラメータの設定なら、それはコードです。
そしてコードは体系が限定されたシステム内でしか機能しません。
モードの自由度に比べてコードの限定性の間で、
大欠落があることは指摘されてきませんでした。
私は、モードもコードも、
もし「体系=システム」論ならば、
次の指摘による、「連鎖系」と「構造系」が思考軸となって、
ダイナミックス」論への展開が必要だと野生的に感じています。

Dynamics
結局、行政政策での「モード仕掛け」が常に失敗するのは、
「モード」だと思って取りかかる毎に、
政策という「コード」に変質してしまうことに気づいてこなかったことです。
実例とした「コンテンツ産業」も、
モードとなる要素と要因が、コード化しています。
結局、モードはあくまでも、
時勢や流行、さらには風評という「自然な社会生理現象化」、
それはダイナミックス化です。
端的に極論すれば、システム時代は終わりつつあるのでしょう。
いや終焉したのかもしれません。
これは資本主義の終焉とのパラメータになっているのかも知れない、
これが私の推測であり、予知、予測でもあるわけです。
システムはあきらかにコードとして「限定された体系」にまとめられます。
ただし、集約や収束ではありません。
単なる蓄積体系でしかありません。
ただし、この「コードの体系」は、運用と維持のパラメータとしては、
大変、便利で活用は創造的に使いこなすことが可能です。
だから、教育は、ある意味では「コードの体系」、
その蓄積を読み解いていく手続きを指導すればいいだけのことかもしれません。
けれども、デザインは、無論「コードの体系」を入れ替えたり、
あるいは引用することが出来ます。
当然、コードなのかモードなのかを選定したり、
その入れ替えや策動も可能です。
私は、ファッション思想 思想ファッションが、
コードへのプロセスを作動させる装置だと思っています。
それだけに、ファッションを現代思想としていくには、
明解に、コードの体系、コードの蓄積を破壊する発想が必要です。
そして、それが出来るのは唯一、デザインでしかないと私は思っています。


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『資本主義からの逃走』
「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」


   


     4月 11th, 2010  Posted 12:01 AM

応用美術
DesignがArtの応用にすぎない、という見解があります。
あるいは応用美術という歴史上でデザインが存在してきた、
この解説も、ほとんどのデザイナーは熟知しています。
私自身も、美大の産業美術学科という領域で、学びました。
したがって、特に、現代美術の様々な展開や、
歴史的な事件は、デザイナーの基礎知識として重要です。
この現代美術、現代アートとデザインとの境界には、
大きな戸惑いや、アートとデザインの融合性を確認する、
そんな事態は常に発生していることは認めています。
しかし、問題は、
Designが職能として、「かたち=外観づくり」だけ、
そんな印象が今なお強烈に有る、いや残っているのです。
私も、デザインは「かたち」に終結するが、
「かたち」と言っても、「形式」や「制度」、「システム」、
しかも「インタンジブル」な設計や戦略や策略と連呼してきました。
「欲望の刺激装置」
歴史的に見れば、
確実に「欲望を刺激する外観創成」だったことは否めません。
ところが、
さらに、いわゆる商品形態の区別化を
「商品の差別化という付加価値論」に呪縛されてきました。
そこで、「盗用」です。
「盗用」という言葉は、反倫理性がありますが、
この反倫理性を滑稽さやパロディで回避し、
判断停止を意図した芸術が登場しました。1919年代です。
無論、それ以前も、「表現の多様性」として、
生まれたきたのが、マルセル・デュシャンアンディ・ウォーホルによる、
強力な引用性のさらに複製化ということでの著作権への抵抗です。
L.H.O.O.Q.

デュシャンのL.H.O.O.Q.という作品がもっともその事例でした。
確実な著作権という制度に対する表現性の確立でした。
「モナリザ」は万人が知っている絵画、アイコンです。
このモナリザに髭を書き込みました。当然、複製のはがきに書き込んだのです。
それが話題になると、今度は「髭の無いモナリザ」です。
初めからモナリザには髭がなかったのですから、
創作性を引用=(盗用)パロディ化し、また元に戻すことで、
その創作性への思考停止、制度混乱を意図しました。
伝統的となってしまったアイコンの複製での意識操作や
作品への新たな鑑賞方法を破壊して、これが革新的アートだと主張しました。

さて、私は、応用美術であるデザインが唯一、
「かたち創出職能」=「購買刺激装置という付加価値」へ閉じ込めたことは、
デザインにとってその本質性を失わせたことだったと判断しています。
そして最近は、実質のモノのかたち=アイコン性だけを引用、
というより盗用しているにも関わらずデザインの自由性の謳歌、
この流行、氾濫、さらには正当なデザインという主張を見ます。
盗用は破壊を作動する
それがデザインの多様性であり、それはデザインの否定によるデザイン、
すなわち「面白い発想」という評価にデザインが対象化されることは、
デザインの本質性を破棄し、破壊したものと考えます。
しかし、この判断には私自身も、「盗用か引用か」、
という曖昧性の判断停止が起こっていることは認めなければなりません。
もっとも端的には、ロボットなどのヒューマノイド系、
それはSFでも登場する人間クローンがロボットというのは、
借用・引用・盗用なのかという問題解決は、
緊急な解答が必要となっていることです。
しかも、もっと大きくて深刻な問題は、
デザイナーに「Appropriation」という芸術史での事件を読み込むことなく、
「差別化のために創造表現という勘違い盗用」をしていることが問題です。


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『資本主義からの逃走』
 「資本、無なり。  されど無料にて主義の正しさあり」


   


     1月 31st, 2010  Posted 6:00 AM

「ことば」ありきの資本

資本は、土地であり、商品であり、
そしてそのメディアとしての貨幣であったり、
(メディアとして、というのは現代語だからですが)
極端には、命も資本というシステム=保険まで、
人間、資本主義は創生させてきました。
土地・商品・貨幣・・・命はまず「ことば」でした。
やはり、資本のはじめに「ことば」ありきでした。
なぜなら、
「資本論」も「ことば」ゆえに、
「ことば」資本を差異化、差別化の「差」に、
価値を乗せることや、価値を生じさせる、
そんなことができたものと考えています。
これはすべてATOMの存在=有理性の世界でした。
たとえ土地を最大にしようが、
商品販売での利潤を得ようが、
人間の存在は、絶対的に「無」となります。
もっと単純明快に断言すれば、「財成した人」も、
無=死
死を迎えます。
死は、いのちを無とします。
命が無となることは、避けられないわけです。
「去らぬ別れ」、結局、死して後、
資本は残ります。
資本の、その運用が入れ替わるだけです。
そこで、「資本は無に帰す」と考えることは、
決して「無理」ではありません。
「無理」という「有理性」から利益獲得すら、
「無」とすることへの抵抗感が消滅します。
消滅というより、利益や利潤から解放されます。
自由=無料

無料=自由を直視

自由=freeになったのです。
その経験が、資本主義社会で蓄積されました。
free=無料は、「正しさ」という力を持ちました。
人間は、自由でありそれが「正しい」こととして、
社会の基盤、意志の基盤、認識の基盤ということを
無理することなく、有理であると確信できれば、
人間は、そんな社会や時代に、
「死=無」となることを納得して「生きる」でしょう。
「無料」の尊大さを直視する時代になってきました。


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『資本主義からの逃走』
 「資本と利潤・無資本と無料のBits-System」


   


     1月 30th, 2010  Posted 1:06 AM

Maximization

or


Optimization

資本に対して利潤とは、循環性を構築します。
その循環の効率性を、
最大化するのが、企業的組織だという考え方、と
最適化するのが、組織的企業だという考え方は、
自由競争社会、その基準、資本主義の解釈論でした。
したがって、利潤の最大化も、最適化も、常に、
議論されながらも結論はまったく見つからないままに、
今日に至っています。
そして、現在、私なども資本主義の終焉とか、
資本主義から逃走や解放される時代を迎えていると
言い始めているわけです。
さらに、循環論としては、
社会的な生理や、時代的な生理は、
「景気」という「躁鬱病的」なことがしばしば起こり、
結果が、最大化も最適化も実際は曖昧でした。
少なからず、
この景気循環は「恣意性」が謀略化されてもきました。

from PROFIT

  to BENEFIT

ところが、
無資本と無料化というシステムがデジタル技術の中で、
頭脳集約労働としての成果から生まれました。
そして、この成果はAtom時代の核心であった、
Atom資本、資本Atomが
「情報化=ネットワーク」で、無資本的になったことです。
無料としての配布、その効果がこれからの社会構造です。
無料だからこそ、
BENEFITが社会文化を構成するパワーが生まれます。
無料=Freeこそ、自由につながっています。
それを可能にしているデジタル技術はBitの集合です。
その集合だから利益・利潤は社会的な恩恵、
すなわちBENEFITです。
新たな経常利益と言っていいでしょう。
これを創出する経済主義思想は、
もはや、資本主義思想でないことは確実です。


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1月24日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 24th, 2010  Posted 9:00 AM

1月24日 先負(甲戌)

モノの選別も選挙の構造と
ほぼ同一とみなすことができる。

そこでは、
生産と消費システムの最大の関心事が、
購買層が何の価値観で選別するか
ということになり、シェア競合という
経済的な関係の中で、
モノの流行やモノのデザイン方向が
決定される手がかりとなる訳だ。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


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『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


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12月1日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 1st, 2009  Posted 9:00 AM

12月1日 赤口(庚辰)

問題は、情報の循環性、簡単に言えば、
新聞の回し読みや回覧板のような情報機器や
システムの循環性を街角に配置できるか、
ということになる。

今のところその代表的なモノは電話だろう。
つまり、電話を例にとれば、電話で生産から
再生までの生態系に合致する社会を
つくっていけるのかということだ。

『プラトンのオルゴール』
街角のエコロジー


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