kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘デコレーション’


「ロトチェンコを復元した展覧会があった」


   


     3月 16th, 2012  Posted 12:00 AM

ロシア・アヴァンギャルドの代表的芸術家というより、
アレクサンドル・ロトチェンコはまさにデザインディレクターでした。
彼のデザイン表現・提案は、家具からファッションに至りました。
だから現代デザインの源流表現は
彼にあると言っても過言ではないでしょう。
彼は当時に作品制作に留まらず、大量のスケッチを描いています。
そのスケッチで残されていた作品は、
2003年に岐阜県現代陶芸美術館の企画展で、
スケッチを読み取って、家具や陶磁器が復元されました。
なんといってもロシア・アヴァンギャルド展です。
とても多忙でしたが、最終日にかけつけました。
なんといってもスケッチしか残っていなかったモノを、
復元展示した展覧会は最高でした。
私はグッドデザイン賞にすぐに推薦し、当然受賞しました。
そして、限定販売されたティーポット、
その復元はコンピューターがあったからこそ、
平面スケッチ図を立体化させることができたのでしょう。
さらに岐阜県の陶磁器技術がその裏付けをしていました。
限定商品化されているティーポットを
コレクションにすることができたのは幸運でした。
ロトチェンコのファッションは未来的であり、
構成主義そのままに陶磁器のデコレーションにも反映しています。
したがって、モダンデザインとしての検証には、
このティーポットを自分の作品の傍に置いてみれば、
すぐにその美学的な確認ができます。
特に、ロシア・アヴァンギャルドと言えば、
ロトチェンコの幅広いデザイン対象は、
モダンデザインの手本になると判断しています。

目次を見る

「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」


   


     3月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

モダンデザインというよりも、
デザインの源流として、
私はロシア・アヴァンギャルドを位置づけています。
マレーヴィチやマヤコフスキーなどがその代表者ですが、
陶磁器でみると、1920年代には、スエーチンやチェホーニンの作品から、
ロシア革命が一段落し、
革命後次第にスターリンやレーニンの独裁制が強まり、
彼らからの粛正によって、表現形式と内容の後戻りが見えてきます。
シュプレマティスムとしてのスエーチンのレプリカは
MoMAで手に入れることができました。
それから岐阜の現代陶磁器美術館での
ロシア・アヴァンギャルド展は感動的な展覧会でした。
ロシア革命が「ナロード・ニキ」=(人民の中へ)という平等主義は、
コーヒーカップでの加飾においても、幾何学的な正方形や長方形、
そして単色での色面構成でした。
しかし、次第にそれはかつての貴族的な装飾に戻っていきます。
モダンデザインの源流が
次第にデコレーションとしての加飾性を抱え込むことで、
共産主義あるいは社会主義の階級制は復活するのです。
それはデコレーションを過飾してしまうことで、
モダンデザインの破壊につながっていきます。
ロシア革命を芸術・建築・演劇をデザインで統合していったリーダーたち、
彼らの芸術表現活動への圧力や粛正に注目します。
彼らは自殺や虐殺される歴史こそ、
イデオロギーが芸術によって
意識改革できる手段であることを証左しています。
クズキッツフやチェホーニンの作品=シュプレマティスムが
影を潜め始めます。
私の想像では、スエーチンのコーヒーカップ、
そのレプリカをMoMAが製作した意味に、
モダンデザインの源流があったからだと思っています。
こうしたロシア・アヴァンギャルドでの陶磁器技術は
現代と遜色ありません。
むしろ、その色面構成などは現代での商品価値を
今でも確実に持っていると評価しています。

目次を見る

「貿易立国最初の輸出品・九谷焼き」


   


     3月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

明治維新後、日本のアイデンティティ明示は、
岡倉天心の国家プロジェクトで、狩野芳崖の「悲母観音像」でした。
西欧諸国が驚愕したこの絵画一点を証明したのは、
1873年ウィーン万国博での「九谷焼き」商品でした。
日本が貿易立国となっていく最初の商品が九谷焼きになりました。
私はこの最初の貿易品が九谷焼きだったのなら、
長い間どのような陶磁器であったのかと思い続けてきました。
改めて逆輸入された当時の輸出品そのものを九谷産地で見つけ出しました。
今では私の大切なコレクションになっています。
これは現在の九谷焼きをはるかにしのいでいるとともに、
日本の現代の陶磁器技術を超えていると評価できます。
まず陶磁器とは思えない、
まるで「ガラスのようなセラミックス」であり軽いことは究極です。
さらに、装飾=これをデザインとは私は呼びませんが、
デコレーション=装飾・加飾技法もずばぬけています。
だから、加賀の伝統は今も健在だとは言い切れないと思っています。
最近、全国の陶磁器から漆器に至るまで、
デコレーション=加飾の描写技法デッサン能力の低下を私は憂いています。
ずばり、
伝統工芸産地での自然写生デッサン力は下手くそになり果てています。
そのようなデッサン力で「人間国宝」の作家が数多くいます。
これは日本だけでなく海外の有名ブランドでも起こっている傾向です。
それこそ、何の花か、鳥らしいが何の鳥、葉っぱなどの描き分けは
完全に間違っているモノが多いのです。
自然観察力とデッサン能力は世界的にも力量低下しています。
世界の自然景観で失っている動植物が多いのかもしれません。
私は、最近は陶磁器を徹底的に収集をしています。
デザイン資料は「使わないと」本当の機能・性能が不明ですから、
いざ購入ともなれば、
自分がコレクションするのだから吟味に吟味します。
陶磁器はCHAINAと呼ばれてきましたが、
漆製品=JAPANでは無くて現在はLUCQER WAREと呼ばれます。
したがって、陶磁器産業はセラミックス産業として、
まず、陶石や陶土を伝統工芸陶磁器現地産から解放されるべきです。
さらに、写実的なデコレーション、
これを私は絶対にデザインとは呼びませんが、
デッサン描写力を強化すべきです。
となれば製陶技術を
さらに高度な技術開発をベースにしたデザイン導入が必要です。
結局、陶磁器はあまりにも伝統工芸への大きな誤解、
産地存続の継承にだけ踏みとどまり、
全く「革新」をしてこなかったと判断しています。
なぜ、明治維新後、日本の国際化・貿易立国としての輸出品が
九谷のセラミックスだったのかその詳細を見直せば一目瞭然です。
この技術はもはや九谷に残ってはいないのではないでしょうか。

目次を見る

「12月のデコレーションと絢爛豪華」


   


     12月 2nd, 2011  Posted 12:32 AM

12月は決まって「デコレーション」が似合っています。
まず、クリスマスツリーや、
夜は、照明が煌びやかで歳末というより、
クリスマスを感じます。
しかし、今年は東日本大震災・原発事故という国難を
私たちは背負い込みました。
そして、まだまだ油断ができそうにありません。
慣れたくはありませんが、
時々日本列島は地震がどこかで起こっています。
被災地が揺れるとたまらなく悲しくなります。
だから正直「デコレーション」が今年は何か空しく感じるのです。
もっとも、デザインが装飾という言葉に重ねられている一般認識。
私は、デザインとデコレーションの明白な違い、
そしてデコレーションの意味をすでに40年も語ってきたと思います。
きっと、死ぬまでデザインとデコレーションを語るのでしょう。
けれども、クリスマスを待ち受ける今年のデコレーション、
今年、日本の様々な街に飾られている
色々なデコレーションへの「きもち」は、
何かを心に刻み込んでおく必要があると私は思っています。
寒暖のリズムは激しく変化し、
適うなら、もうわが列島は揺れないでほしいと願います。
ワイフに告げました。
若いときに「絢爛豪華な装飾いっぱい=デコレーション」なんて、
大嫌いだったのに、最近はそんなデコレーションのある
デザインをやってみたい。
しかし、デコレーションと絢爛豪華は絶対に違うのです。
おそらくなんとしても日本文化の絢爛豪華には伝統がありました。
それはデコレーションとは全く異なっていたと思います。
わが国は、デコレーションではない絢爛豪華が必要な国家なのです。

目次を見る

7月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 25th, 2010  Posted 9:00 AM

7月25日 先勝(丙子)

私は、
デザインにおける饒舌さ=過飾は認めない。

装飾とはデコレーションであって、
決してデザインではないからである。

『デザインは言語道断』品格


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「『付加するデザイン』は、デコラティブデルージョン」


   


     7月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

デコレーション誤解
デザインの勘違いを40年間膨大に観てきました。
私は、デザインとデコレーションとを分別しています。
また、「これ、本当にデザインかな?」と思っていた人に、
「あれはデコレーションです」と言うと、
「なるほど!」と理解していただける人は確実に増えてきました。
デザインとデコレーションとは、なかなか区別できない人が多いのは、
「デザイン」という言葉は洋装が日本に入ってきた戦後であり、
同時期には「図案」や「装飾」がデザインと邦訳されたことに起因しています。
ファッションという言葉も同様です。
そして、必ずしもそれは間違いだと断定できない意味もあります。
デザインはファッション、というのも否定的な意味もあり、肯定的な意味もあります。
過飾的妄想
したがって、私自身は、デザインとデコレーションについては、
装飾そのものを否定するわけではなくて、
問題解決というデザインの本質に装飾が必然である場合は、これは容認しています。
しかし、加飾=装飾を施すこと、過飾=加飾いっぱいにすることは
華燭を越えた装飾し過ぎていること、
すなわち「不必要で実用性も無く、
商品の存在性を事大主義的に誇張すること」をデコラティブ=decorativeとみています。
ところが、このデコラティブであることを妄想的=delusionにまで拡大していることを、
「デザイン」ということは、目に余ります。
確実に「デザイン」の必要性が訴求される時代です。
だから、加飾・過飾・装飾が虚飾化された過飾的妄想=decorative delusionを
デザインというのは、見過ごすことはできません。
これを直感的に判断して否定する言葉が、
「simple is best」というパロール=会話文節も正しい見識ではありません。
デザイン系を有さない大学や行政などには、この認識が蔓延しています。
デザイナーとしては「視覚的・認識的に痛い」とすら感じる
ポスターやパンフレットがあふれています。
これらは「付加」されたデザインですが、デザインの妄想にすぎません。
デザインが妄想の中にある人は増加しています。
特に、経営者、技術者や社会学者や経営評論家が「デザイン」を語るとき、
この過飾的妄想=デザインとなると困惑します。
デザイン行政の担当者で、
「デザインを見下して、あたかもデザインの定義」として語られるときは、
見過ごすことは私には不可能です。
デザイン価値の美学性
「過飾的妄想」が社会に存在していることは、
ある種のサブカルチャーだということも私は理解することができます。
これは「一過性的」であって、連続している騒音的なことですが、
文化の一面であることも否めません。
文化は確かに玉石混淆です。
が、デザインの純粋性にのみ、「デザイン価値の美学性」を私は求めたいと考えています。
私がデザイナーとして育成したいのは、less is moreをしっかりと確認できる資質です。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「『付加されているデザイン』は、デコレーション」


   


     7月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

見過ごすデザイン?
正直、これがデザインされているのだろうか、
というモノが本当に氾濫し始めています。
私はすでに60歳を過ぎてからは、「見過ごすように」しています。
当然ながら気持ちは分断されます。
「明確に言うべきだ、いや見過ごそう」という二分化が内省で起こっています。
ただし、デザイン教育の現場で自分の教え子には、
「ここがデザインではない。デザインという大誤解がある」という理由を
説明し指導しておきます。
それは次世代には伝えるべきだと思うからです。
デザインはどうしても「感覚」で捉えられます。
したがって、私も価値感の多様性については、
「あってしかるべき」態度は正確に保持しています。
しかし、「デザイン価値がたとえ付加価値として目指されてことであっても」、
デザインの本質が問題解決や、新たな文化構築ではなくて、
破壊しようとしていることや、
迎合がみえみえのモノは、
デザインではなくてデコレーションという一言で片付けることにしています。
デフレスパイラルで、デコレーションをデザインと呼ぶモノが増殖しています。
でも、デコレーションといっても、
いわゆる加飾の極致である「絢爛豪華」なモノは、充分に受け入れます。
大誤解
さて、デザインの大誤解は二つあります。

▼ Simple is bestとless is moreのはきちがい
▼ Appropriation的が現代デザインだという非見識

この二つを、最近は見過ごすようにしています。
しかし、私が尊敬するデザイン界・学識界・美術界の先生方に、
自分はこうしたモノはデザインでは無いと考えますが、という質問をすれば、
必ずこうした大先輩も同じように「見過ごし」ておられます。
私もそろそろ、信頼する学生や次世代デザイナーには「聞かれたら正確に解答」する、
そんな態勢と態度になりたいと考えるわけです。
それでも、そんなことが出来ない自分がやはり存在しているようですから、
これを「実作デザイン」で具現化創造に、と意気込んでいます。


目次を見る