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Posts Tagged ‘デザイン事務所’


『青春は東京で、この秋には久しぶりに商品発表をします』


   


     8月 20th, 2019  Posted 12:00 AM



1980年12月8日、東京での私の青春は終わったのです。
ジョン・レノンが暗殺された日でした。
当時は、赤坂でデザイン事務所をやっていました。
父から福井に帰って来なさい{青春が終わった」と言われました。
大きなクライアントは「ナガオカ」であり、
新たな商品デザインを手掛けていました。
「ジュエルトーン」での商品アイテムを任されていました。
その「ナガオカ」は来年創立80年になります。
今でも私が当時デザインしたカートリッジが現行商品であり、
山形県東根市の「ふるさと納税 返礼品」になっています。
あれほど徹底的にこだわったカートリッジ仕様と
それもボロン素材はすでに世界的にもありません。
今年は5月の連休と今回の「お盆」休暇がありました。
自宅からは、大阪での花火大会がよーく見えます。
今は鑑賞したり相変わらずYouTubeで、特に、最も得意だった微分積分、
拳銃の歴史性、狩猟と解体、Do It Yourself などを堪能しました。
そして9月に入ったら久々の商品発表会これには「新たな提案」をします。
2020年創業70年を迎えるメーカーから新製品=新素材を出します。
そのメーカーのC.I.は70周年で、私がその全てをやっています。


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『デザイナー能力の格差が拡大している』


   


     4月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM



デザイナーの能力が想像以上に低下しています。
これはデザイナー教育の教員能力が低ければそのまま学生に反映、
デザインコンペも審査委員能力が低いと、受賞は低レベルです。
ところが反対に、熊本の収束が見えない連続する大地震に、
直・現場の崇城大学のデザイン系教員と学生、
九州大学のデザイン系教員(レジリエンスデザインがテーマ)と学生は、
目の前で起こっている被災状況に必死で取り組んでいます。
あるデザイン系大学では「防災もデザイン?」とか、もう呆れかえります。
自分は「コンシリエンスデザイン」を昨年、正式に訴求してきました。
しかし、大企業のデザイン部門では、
「デザイン思考」が社内では理解されているわけではないけれど、
他部門は、企業ビジョンとか、イノベーションがデザイン思考で改善する、
かもという期待感が最もらしくブームになっているとのことです。
とても、造形言語=designing language、
形態言語=designed languageによる、形態デザインと制度デザインが、
デザイン意図・デザイン内容で、その社会的なプライミング効果がある、
このような論理展開はまったく通じないことだと思わざるをえません。
あるデザイン事務所が小冊子130号出版をやり終えていました。
この中身は、それこそ、言語論であり、記号論でした。
素晴らしい小冊子を発行されてきましたが、
この書籍を読了不可能なデザイナーがリスペクトされないのは当然です。
40数年デザイナー、そしてデザイン学者として生きてきて、
果たして、まもなく動物実験結果がわかり、
製品と論文と、そして制度設計が待ち受けている
プライミング効果としての期待をされるデザイナーが育成不足です。
デザイナー教育に大問題があるのでしょう。
デザイナー能力格差が激化しています。


*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『『007』形態言語を変更した新たな造形言語の失敗事例』
*『『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『特別講義・多摩美術大学『制度設計と形態設計』』


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『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


   


     9月 7th, 2015  Posted 12:00 AM



美大生1年生の夏休みに、私は福井に帰省してアルバイトを探しました。
当時、福井市には唯一のデザイン事務所がありました。
グラフィック関係の事務所で、その頃でも、
パッケージデザインの依頼があると、
パッケージ年鑑をクライアントに見せて、
そこから「なんとなくこのような感じで・・・」という依頼に
学生だった私は激高して、アルバイト一日目で辞めました。
その時地元にUHSの福井テレビが出来て、
そのマーク募集がありました。
「道楽学校」という父に逆らって夜は、
このマークデザインをして金沢に戻るとき、
母に郵送での応募を頼んで金沢の下宿に帰ったところ、
私のロゴタイプが入賞して採用になりました。
このロゴタイプが私が社会へのデザインを提示した最初の仕事でした。
昔使っていた書籍にこの新聞切り抜きが入っていました。
1969年の私のデザインは
福井テレビ20周年で新しいマークに変わりました。
今では決して見ることができない「テストパターン」に、
私のデザインは、まだレタリング教育中でしたが、
社会への最初の提示作品になりました。
賞金も覚えています。10万円です。初任給が4万円の時代ですから、
私はこの賞金で
カメラ「ニコマートと三脚とマクロレンズ」を買うことができました。
東京で交通被災をして体はボロボロになって福井にもどりました。
その時には、東芝でC.I.を徹底的に学んでいたために、
福井テレビにCIの申し込みをしましたが、理解をえられませんでした。
ところが、テレビ局は今も2局しかありませんから、
福井テレビに私がCI提案をしている話が福井放送=FBCにも聞こえ、
福井テレビでは採用されなかったCIを
福井放送で新たなマークからCI全般を担当しました。
だから、当時は高校時代の友人には、
「お前は嫌なやつだ。深夜テレビ終了時に、
福井テレビも福井放送もお前のデザインで終わる」と言われる羽目でした。
2.3年前には福井放送も私のデザインしたマークは終わりました。
福井放送のマークを
私のデザインのままでと主張してくれる社員の方々もいましたが、
私は「時代とともにマークのデザインが変わって当然」と応えました。
グラフィックデザインでは決してやれないデザイン分野は、
今やユーザーインターフェイスや
エクスペリエンスデザインがあるように、
マークに動画性を持たせることだと思っています。
 FTB=ftbマークは、
最初のデザインから微調整的に変更されましたが20年使われました。


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「フリーランススタートの頃」


   


     4月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM


関東労災病院でのリハビリテーションを終えて、
私は赤坂にデザイン事務所を開設しました。
1978年でした。
まだ東芝社員のままに独立を許諾されたのです。
ただしオーディオ関連以外のデザインに従事することが条件でした。
しかも給与は支給されていました。
ただの直感でデザイン事務所名は「Super Edison」でした。
技術・エンジニアリングを意識し、
「デザインは発明でもなければいけない」
という柳宗理先生の思想を込めたネーミングでした。
たまたま、米国人のモデルがガールフレンドの一人だったので、
彼女は来日すれば仕事休日に、モデルとして手伝ってくれました。
それで、デザインスタジオのプロモーションスライドづくりです。
当時は口コミだけでデザイン依頼をしてくるクライアントに、
「Super Edison」のスライドとオーバーヘッドプロジェクターで、
スタジオでのデザインワークプロセスなどを見せていました。
工業デザインの仕事よりも、
イベント企画や商店街活性化企画をしていました。
とてつもなく大きなイベント企画ばかりしていたようです。
ちょうどピンク・レディー全盛期で、
新宿で新築の最高層ビル「野村ビル」屋上で、
紅白歌合戦終了とともに日本で最大の鐘を突き「ゆく年くる年」をやる。
そのために高岡で鋳造されている直径2mの鐘を東京まで陸送、
それは陸運会社のTVCFにし、
屋上には陸上自衛隊のヘリコプターで下ろしてもらうという企画、
実現いよいよとなりました。しかし、
澁谷のNHKから新宿まではパトカー先導ということまで決まったのですが、
没になりました。
ある仏教系からの文句が大きくて
「とんでもないそれは除夜の鐘の冒涜だ」という批判で中止になりました。
東京のある商店街通りに、
パリのごとく「花街道」にしようという企画、
そのために花咲く季節前にビニール栽培をしていたら、
その花が突然すべて枯れるということもありました。
それから3/4インチビデオ撮影スタジオ業もやり始めていました。
また新宿に高層ビルが竣工となり、
その屋上にハリウッドから実寸の映画モデル「ゴジラ」を座らせる、
なんてこともスタッフがハリウッドの演出会社を説得し
船便で運んで来る企画も実現間際に、
消防庁の許諾どころかお叱りを受けたりしました。
すべてが失敗していたわけではありません。
晴海埠頭にあった晴海の見本市会場では、
「日本オーディオフェア」で展博ディレクター。
1988、1989とあるメーカーを人気No,1にしたこともありました。
東芝時代には東芝でのディレクターをしていたので、
開催前日、ディスプレーデザインのチェックには
会場内まで自家用車・当時はGMの「モンザ」で乗り付けると、
顔なじみの展博屋さんたちが大拍手で迎えてくれました。
「よくがんばったな」
「生きていてくれてありがとう」
「流石にまったく新しいディスプレーだ!」
「車椅子になったからさらに神がかりな展示だ」なんて言われて、
長髪の頭をみんながぐちゃぐちゃにしながら撫でて喜んでくれました。
(あぁー、自分はオーディオのこの世界にまた戻れた)と、
大笑いしながら泣きました。
毎日、でかいイベント企画、その発想の楽しみを懸命にすることで、
寿命は40歳まで(当時のドクター診断予知)という重くて真っ暗闇、
心に突き刺さってくる「哀しみ」と闘っていました。
1%の精進で 99%は死に向かっていく諦観を心に留め、
ともかく明るく振る舞っていました。


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