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Posts Tagged ‘デザイン’


「景観への精神状況がそのままファッションに連鎖している」


   


     9月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

景観論をデザインの背後におくことに気づきました。
それも当時話題のファッション誌に連載を始めたばかりの時。
ともかく、読解困難な文章を書かないかぎり、
日本のデザインは時代遅れになり、
ことばからモノは遊離すると、30前の私は思い込んでいました。
モノの世界がことばから離れるほど、人は、その魅力を感じない。
この考え方は今も変わっていません。
なぜ、芸術も建築などその存在をことばで再度語り直すのだろう。
今もその考え方を私は強くひきずっています。
景観論の原点で、私は「光景・風景・情景」を書きました。
案の上、その連載から私ははずされました。
しかし、その頃の思考は若さがあって純粋だったと思います。
ところが、その文章に再び出会いました。
ある人のwebsiteにそれが掲載されていました。
以来、私が景観から「景気」を読み取り、
景気後退=不景気=depressionに辿りつきました。
景気や株価変動為替の動きほど世界を決定づけることは皆無です。
絶望を「死に至る病」と断言した哲学者を信頼すれば、
哲学が人間の精神をどれほど読み取り、
解説してくれるかを識ります。
結論は、不景気になれば、人は安物衣類を身に纏います。
それをmodeと呼ぶこと自体が、精神状況の表現に直結しています。
つまり景気あるいは不景気はファッションに連鎖しているのです。
世の中、世界、時代は、すべてが同義語です。
それを人は眺め、その空気に包まれるとき、流行に晒されます。
その流行を最も受け入れるのは若者の精神状況に限定されます。
ファッションが「モードの体系」でことばの中で解説されたとき、
私が驚喜したことは、そのままデザインとモノに繫がっています。
それはデザインとファッションの関係に連続し、
とりわけ、不景気とファッションの関係も、この関係だと、
私はひとまず書いておきます。


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「こういうのは『デザイン』ではありません」


   


     8月 30th, 2013  Posted 12:00 AM

最近、靴を注文するときに、私は様々に要望します。
以前に思いつきから靴紐を赤色にしました。
そうしたら、イタリアのファッション誌でもそのような記事発見。
「だよなー」と一人満足していました。
バックスキンはそれほど好きでは無かったのですが、
詳細な手入れ法を聞いたら、注文をすることになりました。
もちろん、好きなブルーを選び、
ある女性靴ブランドの底面が赤に拘っているので、
ソールの張り替えをお願いしました。
1ヶ月ほど待っていたら、それが出来上がりました。
当然にも、他の靴類はソールは赤に染めてもらっています。
偶然にも男性用のソックス店舗で、見つけたソックスにも、
赤と青を基調にしてイニシャルも刺繍してもらいました。
さて、これを「デザインした」というのは間違いです。
言わば、靴とソックスへの要望はファッションへの拘りですが、
ファッションとデザインの関係は、絶対に明確にするつもりです。
バックスキンの靴、靴下への自分自身への要望は、
確かにファッションデザインだとほとんどの人が思っています。
しかし、これはデコレーションとして、
自分の身なりへのファッション、その拘りに過ぎませんが、
私が主張しているデザインと問題解決の関係に置換できません。
勿論、靴メーカーはソールを一度剥がしてから、
私が要望する赤いソールで外観的な装飾性をしてくれました。
これを私は全体に「デザイン」とは呼びたくありません。
ファッションは時代性との共時や、自分の社会的な存在、
私流には「ファッションの効能性」があります。
けれども、これは「デザイン」では無いと断言します。
私は自分の持ち物からファッションに関しても、
「自分らしさ」の演出デザインと呼びうるコトがありますが、
あくまでもファッションとデザインの関係こそ、
「デザイン」の本質を語る上での定義を明らかにするつもりです。


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「マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン」


   


     8月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

自分のデザインは問題解決での最適解のはずですが、
現代の情報社会の中での自問自答をいつもしています。
・マスク=覆面だろうか、
・ペルソナ=個性表現だろか、
・マスカレード=仮面舞踏会だろうか、
このような問いかけをいつもしている自分がいます。
理由は、自分自身へ自分だけの「問い詰め」を試みたいからです。
私には、確実な自分のデザインに対する自負心と羞恥心も、
ほとんど混在したままにしておきたいと思ってきました。
確かに何かを隠そうとしている自分=マスクの時もあれば、
明らかに自分個性=パーソナリティを表現=ペルソナ時もあり、
まさにどこかでこの時代に、
「ごとくありたい」=仮面舞踏会に参加気分もあるわけです。
結局、真実にデザインを問題と対峙させたときには、
覆面の中に自分を追い込み、
個性を隠そうとする自分が明らかに、
宗教儀式じみた科学への感性と芸術への知性を確認していることも
絶対に私にはある、あるはず、と言い聞かせています。
そして、私自身を追い込んでいくのは「行学の士」になりたい、
それだけを目指して車倚子生活ゆえに地球は二度目の生命です。
絶対に負けられないこと、
それは欧米の先進国家以上に芸術の知性と科学の感性を
次世代のデザイナーに、私の体験の全てを残したいのです。
ともかく、「私はデザイナー」という軽薄さは全否定です。
デザインは崇高で有り知性と感性で「美」だけを信じてきました。
特に、最近はもう残された自分の時間を思うと、
絶対に許せない輩には、全身全霊で闘争をする覚悟です。
とりわけ、この「国難」を3.11に受けて以来、
前政権の知性も感性も皆無だった知能に呆れてきましたから、
絶対に逃走はしません。闘争あるのみです。
マスクを被り、ペルソナを秘め、そしてマスカレードでも、
私は嫌な奴には立ち向かいます。


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「デザインは皆無だ!・・・誤りのデザイン」


   


     8月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

ある商店街の二つの店舗です。
この二つのお店に私は入ったことがありません。
最も、二つとも男性洋品店であり、デザインされている店舗です。
「デザインされているはずの店舗でしょうか?」、と、
私は改めて問いかけたくなります。
もちろん、私が車倚子を前面に出して批判していません。
なぜならばマーケッティング的に、この店舗デザイン?が
あったとしたならば、すでに歩道との間に階段があります。
この階段は、すでに「拒否記号」だということです。
「拒否記号」とは、
階段が歩道との間にあれば、お客さんが入らないのです。
調査にもよりますが、一段あれば10%から30%は入りません。
3段あれば、50%以上のお客さんを呼び込むには、
店舗の商品やその陳列や店舗インテリアに魅力がなければ、
もうこの店舗デザインを発注した意味は全く無意味です。
私は時折、この店舗の前を通り過ぎますが、
お客さんを見かけたことは本当に無いのです。
3段の階段は、当然ながら彼らのお客さんに車倚子の人は皆無。
結局彼らにには車倚子の人は購買者では無いと宣言しています。
果たして、付け足したようなスロープでは、
電動車椅子の人は使えませんし、
私自身、この店舗を覗いて見ても欲しい商品などありません。
折角スロープを造ったとしても、
そのデザイン的な効用も効果も無いことは確かなことです。
それこそ、銀座通りでもこの「拒否記号」は思いの他多いのです。
最近私は車倚子の方を多く見かけるようになりました。
高齢社会になれば、車両や飛行機なども相当にそのシステムを
変更し、やり直しが求められることになるでしょう。
あるとても高名な、建築家の「大先生」が、
「バリアフリー?、ユニバーサルデザイン?、
私は大嫌いだから、私のデザインはこれでいい!」というのを、
あるジャーナリストの方から聞いたことがあります。
多分その「大先生」は歳老われた時、街には出ないのでしょう。


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「デザインは問題解決!・この本質の再整理」


   


     8月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

デザイン=designare→design。
ラテン語からアングロ・サクソン語になりましたが、
この本質を伝えるには、漢字一語がその本質を表しています。
「解」文字、この一字です。
牛には角があり、それを刀で・・・ということは、
解体し解剖し、あるいは溶解します。これが第一段階です。
次に、解体して分解したものを、解釈し解説することで理解です。
これが第二段階になりますから、解説されて理解に及べば、
第三段階は、解放されることになります。
つまり、目の前にある問題・課題・話題となっていることに対して
応答し回答し、そして解決することで、人はホッとするのです。
人は、常に問題を抱え込みますが、なんとか解決してこそ、
やっと解放されることになります。
そのために、人は、問題意識となっていることを
より明解にするべく、問題点に目印=signを付けるわけです。
この目印を付ける行為=do+sign=designareと断言できます。
問題解決された応答・回答・解答はいづれも「答」です。
「答」という漢字も優れて良く完成された文字になっています。
竹冠が「合っている」ことは「箱」という文字と対照できます。
それは箱には竹で編まれた蓋が付いていることと同義なのです。
「答」は最適解でなければなりません。
デザインは、問題点を明確にしていく思考過程に目印をつけて、
その分解・解体・解剖・溶解をすることで、
なんとか解釈をつけ、解説をすることで、理解を促します。
充分に理解できれば、人は解放されて人心地をつけられるのです。
私が、designが問題解決のための思考をめぐらしていくには、
具体的にはスケッチを描く=do+signを思考工程にしています。
たまたま、その目印が装飾的に見えるからこそ、
一般的には安易にデザインは装飾だと思い込んでいるのでしょう。
しかし、「解」・「答」という漢字とdesignareまでを
問題解決の思考に配置していけば、本当に「明確」な、
designの本質にたどり着けるものと確信しています。


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「書店本棚での一般的な『デザイン』認識が残っている」


   


     8月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

私はこの40余年、プロのデザイナーとして、
「デザインは問題解決のかたち的最適解を求める手法」。
この定義だけを訴求してきました。
しかし、今日も立ち寄った書店の本棚のデザイン書コーナーでは、
「装飾=デザイン」という類の著作集に混在していました。
決して、私はデザイン=装飾を否定しているわけではありません。
むしろ、今、徹底的に批判するのは、
デザイン=装飾オンリーの学校や科目、時には教科書の記述と、
装飾家をデザイン賞の審査委員になっている顕彰制度は、
私の生涯を持って、断固として批判し非難し破壊したいことです。
デザイン賞制度を傍観するとき、「この人誰?」という、
そのような顕彰制度はあってはならないと思います。
この本棚には、おそらく、デザインにとっての基準的な定本、
「口紅から機関車まで」がありました。
日本が敗戦後のタバコパッケージ「Peace」のデザイナーだった
レイモンド・ローウィ著作は元外務大臣・藤山愛一郎の邦訳。
この著作が現代の工業デザインからデザイン全般を語り、
しかもこれがその当時の外務大臣だったことに大意義があります。
デザインが問題解決の代表的な手法であるがゆえに、
デザインされた形態は空間であり、言語であり、結果、記号です。
デザインが職能として認識された民俗毎の認識が、
国際的な乖離が一時はありました。
その代表がわが国だったとも言えます。
デザインが洋装とともに一般的な認識が拡大してきたことです。
私自身、「デザイナーです」と答えれば、
「洋服の・・・」と幾たびも言われてきました。
私が、電器メーカーに就職したときも、
「ポスターを描く職業」だと思われてきました。
しかし、今、私はデザインを学ぶ学生には、
問題解決であり、未来を創生出来る唯一の職能ですということを、
最も主張しています。
すでに私の教え子も、形態設計よりも制度設計に、
デザイン手法を果たし始めています。


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「寄附講座で開設するデザイン講座を決める」


   


     8月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

大阪大学を定年退官した後も、特任で残りました。
結果、「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」での
おそらく、大学人としては自由に自分がこれから始める、
「デザイン講座」の分野を四つ決めました。
基本は「危機管理デザイン工学」を、
大学の教育・研究はもちろん開発実務の領域に分別しました。
● 危機管理産業をデザイン支援すること
● 3D-PRINTINGは基本の立体造形を理論から実務にすること
● 伝統工芸こそデザイン先導で再興化し直すこと
● 地方や地域の地場産業にはデザインで主導する革新です。
私は、大阪大学はその起源は、懐徳堂・適塾と、
いづれも大阪商人、大阪市民からの資金援助があったことです。
それは、いわゆる旧帝大がすべからく政府支援だったこととは、
まるで異なる学校がスタートしています。
今後の大学経営は、法人化されたことからもある意味、
大学独自の経営が求められています。
現段階では私立大学48%は全く不要とさえ言われています。
それよりも大学で学ぶべき学力不足が蔓延していることです。
とりわけ、「デザイン、あるいはデザイナーの要請」に関しては、
私自身、美術系大学でしたが、
大学人になってからは、もはや美術系でのデザイン教育には、
大きな疑問があり、結論的には、
装飾をデザインという大誤解が今の日本のデザイン職能です。
これこそ、わが国が先進国からも遅れをとっている大原因。
行政・企業・地場・伝統工芸、すべての分野で間違っています。
したがって、未だに、デザイン・デザイナーの能力は、
文系で有り理系で有り、さらに芸術系が不可欠です。
そこで、かつて「歳々適塾」が「適塾」と言われたごとく、
「KK塾」で、それぞれのデザイン適用領域を分けました。
デザインをプロダクトデザイン・グラフィックデザインなども、
私はすでに「デザイン分別」の大きな誤りだと記載しておきます。
建築を環境に拡大していることも間違いです。
環境には、都市を取り囲む情報やロボットがこれからであり、
医工連携などはすでに危機管理に全容されるべきです。
すなわち、デザインは問題解決の領域を常に、その大枠設定。
つまり問題解決のための問題点把握を明確にするはずです。


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「安全と安心・デザインの不在か非在か」


   


     8月 20th, 2013  Posted 12:00 AM

夏の連休には悲しいかな大事件が頻発します。
花火大会は日本の風情です。この風情が大惨事とは?
大爆発・大火事・大火傷、すでに3名が死去と聞きます。
発電エンジンへのガソリン給油とそのタンクに大問題です。
報道されているガソリンタンクを見ると、
私は、デザインがあったのだろうか?と考えます。
デザイン無くて、経験からの設計であればデザイン不在です。
これは危険極まりなくて、使い勝手からも必ず危険物です。
もし、デザインされているとするなら、デザインは非在です。
単なる、「格好良さ」、まったく不要なスタイルデザインです。
若い時は、登山用具でホエーブスというガソリンコンロを
ガソリンを蒸気化して使っていましたから、
一回、鉢ノ木岳付近で山火事寸前を経験しました。だから、
無人化しているガソリンスタンドは超危険だと思っていました。
ただ、ガソリンタンクゆえ「赤い塗装」と二つのキャップでは、
デザインの不在と非在両方からも設計どころかデザイン破綻です。
これは徹底的にデザインのやり直しが必要な物件です。
使い勝手から言っても、ユーザビリティは、
必ず、蒸気排気口を緩めること・・・そのキャップがこれ?、
ガソリン挿入口キャップ、挿入口そのものの対策はゼロです。
ガソリン発電エンジンの購入を検討しているときに、
このエンジンデザインにも欲しいモノは全くありませんでした。
ガソリンタンクも、素材からタンク構造的にも、
熱遮断、爆発防止、蒸気廃棄などデザイン仕様は難しいモノです。
ガソリンは、エネルギー源材料としてはすでに当然な物ですが、
その収容カプセルのデザインは、もう一度やり直しが必要です。
これこそ、「危機管理」の制度的な検証の合格品が希求されます。
「安全・安心」いづれも「安」という文字にその原意があります。
「安」とは、女性を屋根の下にて保護している象形です。
女性は世代交代をする人間にいて大切な存在ゆえ、
屋根構えの中で、絶対に危険なことから護りぬく存在なのです。
私は、現在のガソリン系商品の徹底的なデザインと、
その制度設計には、「デザインありき」を最前提と考えます。


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「この技術はデザインによって大変革の時期がきた」


   


     8月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

鏡面平板にキーボードをデザインしました。
Mac用には「Touching Feedback Keyborad」は実現しました。
しかし、すでにkeyboard入力に終焉をつけたと思っています。
もはや、映像照射されたキーボード入力にFeadbackが実現します。
かつて、触覚フィードバックをHAPTICと呼んでいましたが、
すでにこの言葉は企業名になりましたから、使えません。
だからと言って、この企業の技術進化はストップしています。
あらためて、触覚フィードバックは、
鏡面平板のキーボードからも解放されなければいけません。
つまり、技術進化の方向はデザインが一つの結論を出しました。
それは、空中に存在する映像=バーチャルな文字入力、
この入力時に「触覚フィードバック」が可能になってきたことです。
私はあらゆるキーボード、タイプライターからPCまでの、
きわめてエポック的なキーボードを使用してきましたが、
結論は、バーチャル的文字盤とその触覚性能でした。
私はこれらの技術進化をするのは「デザイン先導」だと思います。
まさしく、先般も米国との打ち合わせの中では、
デザインによる技術進化が求められその意味を実感した次第です。
現在、この映写技術には距離感があります。
この距離感を瞳孔距離と一致させれば、モノは消滅するのです。
必要な技術は「触覚フィードバック」と、
その使い勝手ユーザビリティに見合った相互性能性です。
すなわち、インターラクションデザインでの方向性提示です。
結局、最も重大なことは、技術進化を促すデザイン先導力。
そして問題はデザイナー自身の技術認識力になるでしょう。
確かに、インターラクションデザインは、
プロダクトデザインの大きな一分野になっていますが、
この力量が、websiteに反映されているだけでは無意味です。
是非とも、デザイナー自身がバーチャル領域での、
基本的なインターラクションとフィードバック感覚、
これらの実感的認識をモノの世界に持ち込むことだと思います。
たとえば、車の運転においても触覚フィードバック車両開発は、
国際的にも遅れていることは事実です。


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「デザイン基礎力の一つから現代社名ロゴをみると」


   


     8月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

戦後のデザイン教育は私の恩師・平野拓夫先生から始まりました。
私の役割は「平野メソッド」を後世に伝えることです。
デザイン系大学で教授になっている後輩たちも、
この訓練は厳しく先生からOKが出るまで受けています。
「カーペンターペンシルで欧文書体を書き順で描く」方法です。
私は、自分の手が鈍ってきたらその一つの手法に戻ります。
欧文書体の書き順は、アルファベットの構造を熟知します。
かつて欧州で「君は書き順を知っているから信用できる」とまで、
私は言われて、社名ロゴタイプのデザインを信頼されました。
阪大では、カーペンターペンシルで書体構造を教えました。
なぜなら、ディレクターになる技法知識だと考えたからです。
そこで、現代企業の社名ロゴタイプを見ると、
余りにも醜いモノを数多く発見します。
まず、デザイナーにその基本が欠落し、
経営者の歴史性認識力や知識不足を確認するわけです。
したがって、たとえ大企業のロゴタイプを見るだけで、
この企業の存続寿命は歴然と分かってしまいます。
「この企業は必ず潰れる」と思うと、結果そうなるのです。
大学人を辞めたら、そうした企業名を書き残すつもりです。
だから、今も、「あぁ!、この企業は駄目になる・・・」。
それは欧文書体で、すっきりと理解することができます。
一般的には、ヘルベチカとかオプティマが基礎でした。
特に、おそらく全世界は、標識から看板までヘルベチカでした。
ところが最近、「置き土産だったのか!」という書体があります。
レタリングからカリグラフィー=文字を美しく表現する、
この技法で自分の美学を形成した一人の男がいました。
しかも、この美学性がデジタル表現と結びついています。
だからこそ、デザイナーは今一度、レタリング、ロゴタイプ、
これらを再検証するべきだと私は提案しておきます。
そういう意味でも、私は「戦後のデザイン専門教育」を、
しっかりと残したいと考えています。
それは、「手の訓練」と「発想」が、
美学性を獲得する職能デザイナーの根本だからです。
デザイン教育でこの根幹が失われないことを歴史に残すためです。


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