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Posts Tagged ‘ドイツ’


「暗号解読の論理演算からコンピューターが始まった」


   


     12月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

世界大戦は暗号解読という知恵比べがありました。
暗号解読に関わった人たちは生き証人として、
次のようなことを述べています。
「戦争を終わらせたい平和な時代のために私たちは関わった」、と。
私は、現代生活においてパソコンが不可欠のものになっていましたが、
その根本的な源流には、戦争=暗号解読=論理演算があったからです。
その最初が、ドイツ・ナチスが開発した「エニグマ暗号機」がありました。
このことはコンピューターの歴史ではそれほど重要視されていません。
そして、ナチスからの暗号解読に苦心していた英国のMI6は、
アラン・チューリングたちがこの解読に関わり、
その結果が、論理演算→二進法につながっていくのです。
私自身がパソコン、
特に、MacとEWSにデザイン手法を乗せてきた背景には、
「論理演算」の知恵に最も興味があるからでした。
これまでこのブログでこのことを書き忘れていたと気づきました。
暗号解読の世界とパソコンの歴史は
どこかで分断されてきたと私は感じています。
つまり、パソコンの歴史の源流、インターネット歴史の源流には、
「戦争」があったということです。
しかし、「戦争」に対して、たとえば暗号解読に関わった数学者たちも
「平和」を懇願していたからです。
人類の最大悪と言われる「戦争回避=平和希求」は、
今日のSNSに至るまで、
「平和」を祈願する人類の理想主義があることを
銘記しなければなりません。
日本が右傾化するというアジアでの評判は、
きわめて偏向した観察だと考えます。
それこそ、自衛隊の幕僚長が語っていた言葉に、
「最も戦争をしたくないのは我々です」ということに表れています。
私は、
平和希求で生まれてきたコンピューターの背景にある「論理演算」にこそ、
理想主義への論理演算という手法が
埋め込まれていると確信しているからです。
だとするなら、
理想主義の実務的手法にある「論理演算」には、
デザイン手法=記号化手続きがあるのだということも、
デザイナー、大学人として、
そろそろ明快にテキスト化すべきだと考えています。
まだまだ書き残すことがいっぱいあると思っているわけです。


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「機関車の魅力=鉄道の魅力に潜むデザイン論理」


   


     6月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪駅に帰って来ると、
C57155の車輪が迎えてくれます。
子供の頃から、蒸気機関車が大好きでした。
「デゴイチ」か「デコイチ」かの区分にも私見があります。
そしてなんといっても北海道で、
蒸気機関車が全面ストップ寸前、まだ東芝マンでした。
それゆえに「蒸気機関車・SL録音出張」までしました。
しかもその録音はLPレコードとして商品化できました。
3重連で走りそこに雷鳴が、という素晴らしい音録りをしました。
鉄道は、子供たち、特に男の子にとっては魅力があります。
そこで、次のような課題を考えることができます。

■1.「新幹線はとても速い」だから「子供達に人気がある」
■2.「新幹線はとても速い」だから「目的地に速く着く」
■3.「蒸気機関車はかっこいい」だから「未だに人気がある」

この三つのテーマの中で、いわゆる数理的論理性は2だけです。
ところが、デザイン的な論理は、1と3です。
それには、二つの重大なキーワードがあると考えます。
まず、新幹線は流体力学的にも
造形デザインでスピード感がある形態=形態言語があります。
この造形言語による形態言語が、子供たちを虜にするのです。
また、蒸気機関車の造形言語には、力強さがあります。
この力強いという形態言語にさらには郷愁感が加わります。
したがってこの郷愁感には、
ノスタルジーやアンティック感は人間の感性を静謐に刺激します。
私は、現代デザイン・未来デザインとしての鉄道には、
速度性がある造形言語が創出されるべきだと思っていますが、
もう一方では、蒸気機関車のZゲージでは、
ドイツでの蒸気機関車のある種類に拘っています。
それは、速度感が編年的にアンティック感へ移行する感覚、
その魅力を見極めたいと思っているからです。
稲妻と雷鳴の中で、三重連で走るD51の姿=形態言語は、
今も私の脳裏には明確に思い出すことができます。
造形言語と形態言語の関係、
この構造主義性はこれからのデザイン論理として研究が必至です。


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「バイノーラル録音・本当の耳音」


   


     1月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

左右両耳にそれぞれマイクをつけて録音をします。
そうすると、本当に耳元の音を再現できます。
たとえば、散髪をしてもらうときにこのスタイルで録音をすれば、
ヘッドホンで再生するとそのまま、
全く散髪されているかのように錯覚するほどです。
私がヘッドホンのデザインに夢中になっていたとき、
この録音がドイツでは、
ラジオ放送でヘッドホンで推理ドラマがあるという情報がありました。
ところが運良く東芝総研には、
そのHATS(Head & Amp Torso Simulator)という
ダミーヘッドマイク装置がありました。
そこでそれを東芝EMIに持ち込んで、様々な場所での録音をし、
LPレコード化企画したのです。東芝では賛同が得られなかったので、
それならと、当時、東京で最大の量販店・第一家庭電器に持ち込みました。
第一家庭電器は、今はありませんが、(量販店は栄枯盛衰があります)
当時はDAM=Daiichi Audio Membersというユーザークラブがありました。
そのオーディオクラブの会員向けには「マニアを追い越せ大作戦」という
DAMレコードという
独自のマニア向けの特別なLP盤を会員だけにプレス出版していました。
このDAMでLP化することができました。
それはAurexを第一家庭電器に販売ルートつくるきっかけになりました。
以後、このDAM-LPの企画案から販売企画、
そして、TV-CFのディレクターも東芝社員としてやることができました。
このバイノーラル録音は
DAMのコンテスト企画になり優秀作品もLP化しました。
バイノーラル録音の最初のディレクターとして
「レコード年鑑」に私の名前があります。
したがって、ヘッドホンで本当の音はバイノーラル録音が
最適だと今でも私は思っています。
当時は、ラジカセにもバイノーラル録音が可能な機種も流行しました。
ヘッドホンだけを再生装置とするなら、
この録音の音楽ソースが欲しいと思っています。
というより、最近の録音の質はコンピュータを介在できるためか、
それなりの装置で試聴すると、
録音技術は悪くなっていると言ってもいいでしょう。
いわゆるミキサー=録音技師名が
アルバムタイトルになっているCDは本当に少なくなりました。

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「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。

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『資本主義からの逃走』
「衡はバランス=尺度感であり、現代問題の衡とは?」


   


     5月 11th, 2010  Posted 12:01 AM


度量衡については、質量についての尺度観だと一概化できます。
そして、度も量も尺度への厳密性は尺度「観」として、
国家独自の制度に規定されています。
しかし、「衡」に関しては、この概念の具体例が、
古代パピルスに書き伝えられた「死者の書・天秤の図」が明示しています。
それは度量をもバランスでとらえる尺度「感」だと考えられるからです。
それこそ、二つの事例からも判断が可能です。
まず、パピルスに書き残された「天秤の図」には「霊魂と羽毛」が描かれています。

そして、もう一つは、弁護士資格標章である「正義と真実」も
ある意味では、バランス感覚だということになります。

尺度観と尺度感
おそらく、度量衡という尺度観と尺度感は、
このバランス性が均衡状態であることの維持、
あるいはその均衡性の破壊に対する叡智、そのあり方だと考えることができます。
資本主義経済社会のバランス=衡状況の尺度感を尺度観とすることが、
現代、もっとも希求されていることだと私は見通したいのです。
EUという欧州の通貨バランスは崩れました。
ギリシアは国家体制そのものが経済的バランスそのものを破滅してしまったのです。
つまり、ギリシアの資本主義体制バランスは、自らが粉飾の結果を露呈したのです。
果たして、EUの資本主義体制の基準衡感覚、
その通貨制度の衡状況の制度化を放任した結果だったと判断評価できます。
欧州ではドイツだけがサスティナビリティを維持していることが明白になりました。
この位置から、わが国を見れば、
明らかにギリシア的要素が日本の「衡」状況は幻想でしょう。

円と元
二つの要素が考えられます。
国内バランスを「国債依存」が分銅としてバランスを保持していることへの
政治的バランス感覚は幻想というより妄想の「天秤」だということです。
もう一つは、確かに「円」という通貨制度は、
国際的な通貨性の「信用性」も揺らいできているということです。
もう一度、通貨単位の歴史にもどる必要があるでしょう。
なぜ、わが国は、なぜ「円」に規定したのか、中国は「元」だったのか、
ということを歴史性に遡及することです。
やがて、中国が国際的な「通貨信用」を「元」に適合させることは間違いないでしょう。

しかし、今、世界的なベストセラーとなった「FREE」では、
「情報の信用性は無料」が生み出す新たなバランス社会を示唆しています。
明らかに、「衡」という尺度感は、ギリシアと中国の地の政治体制に表れています。
さらに、バランスが「霊魂と羽毛」のごとく、
この抽象性には「信用」と「FREE=無料」となる情報制御が、
「通貨制度」を破壊させていくのかもしれません。


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