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Posts Tagged ‘リーダー’


「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」


   


     1月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

ひょっとすれば、現代人、
つまり、20世紀後半を共時共有してきた全ての人間は、
重大な過ち、いや過ちと言うべきではなく、
生命の根源と、それを授けてきた「神」なる存在、
それは民族それぞれの信仰神への畏敬を勘違いしてきたのかも知れません。
私はここで宗教論的見解を記そうとは考えていません。
もっと簡潔に歴史における様々な「神」なる存在を、
オイコノミアを再読することで再思考したいと思っています。
それは「王座」、すなわち権威と権力は元来は「神」にあって、
その代行者である政治的なリーダーや、
さらにマクロな世界=業界や国際構造での指導者では無いということです。
わが国において、八百万の神は自然であり自然神を象徴化してきました。
あくまでも象徴です。
それはミッシェル・フーコーも読み解こうとした「印徴」=signatureです。
それはまさに、designareというdesign の原語と結びついています。
すなわち、今、designがその本質において、
復興と復活をさせなければならない問題が明確になってきます。
私は「オイコノミア」という
原始キリスト教の教典というより問題仮定書に心惹かれます。
それは、「権威」も「権力」も「神」への賞賛と喝采であり、
賞賛は、キリスト教ゆえの三位一体への畏敬となり、
「生きていること」への感謝が「神」への喝采になります。
やや短絡的な言い方をしてしまえば、
資本主義への清教徒的禁欲主義は忘却されたか、
あるいは廃棄されてしまったのかもしれません。
資本主義的な世界観・国際観である「グローバリズム」こそ、
「神」への冒涜行為だったかもしれないと、
私は考えるようになっています。
すなわち、世界の「王座」は唯一、経済活動の優位者、
その国家中心主義にしたことが冒涜だったのかもしれません。
しかも、それはもっと私たちを
大きな幻覚に引きずり込んでいたのでしょう。

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「世界・世界観変革が始まる」


   


     1月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

3.11は世界転換の序章にすぎなかったと思います。
本年は、世界主要国家のリーダーが変わります。
それはリーダーたる資質如何によっては、
私たちの日常をも変えてしまうことになるでしょう。
もっとも私たち日本人は、自然の暴力性で、
これほど多くの同胞をいっぺんに失いました。
私は自然との調和とか共存は本来ありえないと考えています。
調和と共存というのは幻想にすぎません。
むしろ、自然と人工の対決の中で自然を取り込むこと、
自然とはある部分では断絶することも考えるべきです。
共存というのが思い上がりだとかんがえるわけです。
人間は自然の中では生き延びられないことを思い出すべきです。
その最大の理由は原子力も本来は自然環境の中の放射能を特化。
技術の最も高密度で集約されていたはずの原子力は自然からの恩恵でした。
それを人間の思い上がった制御・役務怠慢に他なりません。
その怠慢は資本主義への信頼というより運用のいい加減さでした。
その「資本主義的運用」がどれほど薄汚れていたかを思い知らされました。
これにはもう一つの大きな背景「民主主義」があります。
私は、資本主義と民主主義で包み込まれていたことには、
ここ数年大きな疑念がありましたし、その管理、
すなわち「政治的支配」への不信感は最大値になっています。
「たかがデザイナー」にすぎませんが、
「されどデザイン」の大きな力を知っています。
よって、この職能たるデザイナーとして、
歴史的・思想的な背景を再度「王座」=リーダー、
そのあるべき姿を歴史的な思想に回帰して求め直し、
その結果を自分のデザインに込めてみたいと考えます。
古代原始キリスト教では、王座の「権威と権力」は、
賞賛と喝采を受けるべきと記載されています。
そして、民主主義での賞賛と喝采は
単純に「選挙」という代替行為にすぎず、
その簡便性にひょっとすれば世界・世界観は埋没、
いや押し流されたのかもしれないとさえ考えています。
今年はそれを明確にデザインで表現するつもりです。
「王座」は、本来は「神の座」でした。
とりわけ、日本の「神の座」にすわるべきリーダーは、
その役務=サービスを十二分に果たさなければなりません。
その構造は「オイコノミア」に2世紀から記載されてきましたが、
中断された期間に、近代思想や近代科学が割り込んでいたことは事実です。
(画像は、コンスタンティノポリスの「王座の準備」・ルーヴル美術館蔵 10世紀末から11世紀初)

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「講演会でも感じ取ってしまう近頃!」


   


     11月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

先日の市長選、そのTVドキュメントを見て、
最もビックリしたのは、元府知事がトイレ使用を
ある場所で拒絶されていたシーンでした。
「独裁者に!、トイレなど貸せるか!!!」、
この横暴な選挙民になり果てた一部の大阪人は情けない存在です。
今回の選挙戦での幼稚な闘争を見ると、
本当に潔い日本人が居なくなったようです。
同様なことを最近、講演会や講習会で感じます。
特に「サラリーマン」しかも大企業の社員たちです。
比べて地方や中小企業、
さらに海外の中国や韓国には礼節と熱心さがあります。
遠慮無く質問は多様にわたり、時には講演時間以上になります。
大企業の社員に限って、
日常的な学習と自己修練が欠落し始めているのか「質問無し」。
最も大企業の経営者能力が日本人らしさを失っているから、
社員に日本人の無礼節さが伝染しているのでしょう。
地方や中小企業では、講演が終われば「質問攻め」です。
大企業の社員は、仲間内の手前もあってか照れ故か「質問無し」です。
もっともそれは私の講演内容に問題があったものと自己反省します。
が、少なからず2画面で16:9、PinPスタイルなど、万全を期しますから、
「質問無し」はショックです。
けれども最近は、
大企業の社員のレベルが低いのだと判断することにしました。
そして正社員しかそうした講演に出席出来ない、
この企業組織問題に連関しているのかもしれません。
企業で、当然ながら専門知識があるはずなのに、
ある質問では、私は本当に驚いてしまいました。
その程度の知識を知らずになぜ「商品化」しているのだろうか、
こんな思いにかられました。
経営者の利益独占に感染しているのでしょう。
これまで、大企業での講演やコンサルを経験してきました。
大学人から解放されたら地方行政から、商店街、
中小企業、宗教界、そして大企業、大学まで、
私が生きた証として、能力性・倫理性・美学性、
さらに礼節性を書き残したいと思っています。
そういえば、大阪市主催の講演会は本当にわずかです。
大阪市活性化を懸命に訴求してきましたが、
「具現化プラン」に向かったことは、
この6年、一度もありませんでした。
大阪市役所も大企業なので、
サラリーマン的症状に冒されていたことは明白です。
福井時代も市や県に向けて批判すれば、
必ず「仕打ち」にあってきましたが、今はまったくなくなり、
よく私の提案やアイディアを受け入れてもらえます。
さて、このブログでの大企業サラリーマン向け発言も、
「トイレは貸さない」というようなしっぺ返しにあうかも?です。
構いません、それは大企業のサラリーマンとして、
「生きていない」ことを自己証明しているのです。
まったく、東北の市町村にはリーダーがいっぱいおられます。
ところが、東京の政治集団はもちろんのこと、
政府・官僚・経財界にリーダーは皆無です。
これが日本の現状です。
地方、中小企業が、日本を再生することは間違いないでしょう。

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「言葉無き人へ、われ沈黙を夜叉のごとく」


   


     11月 11th, 2011  Posted 1:44 AM

今年、日本は最悪の状況になりました。
歴史的にも政が最悪の時、
わが国は、大天災を迎えると言われています。
私なりの歴史から読み取れる事態は、
「安政の時代」です。
なぜなら、私が最大に尊敬をしているふるさとの偉人、
橋本左内が「安政の大獄」で、
処刑された忌まわしき時代には、
安政の大飢饉から、安政の大地震や大津波まで、
政が最悪の事態に、わが国の国難を迎えているからです。
3.11は、日本を二分してしまいました。
TPPも、日本を二分しています。
そしてそれを引き込んだ「政権交代」こそ、
言葉を失い、ご政道をないがしろにしたリーダー達や、
彼らを取り囲んだ御用学者たちが、
この国難を引き込んでいるのです。
今、私はこれ以上の発言を控えようと考えます。
まさに「夜叉」のごとく、この闇に潜んで、
天変地異を知り尽くすまで、沈黙をしようと思っています。
誰かがこの国に決定的な言葉での政が必要なのです。
言葉あっての政が、この国難を退けるはずです。
「夜叉」は、転変地異に潜んでいることを確認しておきます。

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「日本システムが壊れた理由のひとつ」


   


     8月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

敗戦後懸命だった日本。
それからの日本システム。
それは日常性が確約されていた、
今となってはパラダイス国家でした。
大震災と原発事故はこのパラダイスを破壊しました。
しかし、それ以前、政権交代を希求に至ったのは、
すでに崩壊していたと思います。
格差社会とか「勝ち組・負け組」とかという言葉が象徴でした。
日本システムは中産階級がほとんど日本流システムの中核。
それは企業の家族的な情緒性と完全雇用体制の完備でした。
現在は正社員と派遣社員という企業構造が、
企業中心の日本システムを失いました。
しかも、正社員より派遣社員の方が企業機能を果たしています。
雇用体制での差別社会、リストラと呼ばれる「解雇」、
これは日本システムの根幹=骨抜きにしています。
無論、この方向に追い詰められた原因は少なくとも、
五つあるでしょう。
◆ 政治能力・政治的リーダーがいないこと。
◆ 国際的経済破綻の連続とその政治対応無策性。
◆ 企業法人税はじめ税制度の無策性。
◆ 未来不安が次世代の精神性を低能力化。
◆ 教育システムー小学から大学までの教育者能力不足。
理由はまだまだありますが、無策性と能力不足が、
あらゆる局面、あらゆるコミュニティ、
そして高密度情報社会での情報格差が覆い被っています。
たとえば、コールセンターなども外注であったり、
サービス性だのCRM、ISOだの、さらにはブランド化だの
この喧騒性の中で、肝心のことが見失われています。
私は 47歳で大学人になりました。
すでに16年になります。大学環境と世間との隔離を見ています。
新設される公立大学の学長候補になったこともあります。
そして辞退したこともあります。
すべからく、日本システムの崩壊が見えていたからです。
一方では、現役のデザイナーですが、
それゆえに、企業と大学の断絶性や、
法人化大学から公益法人までがまったく「革新性」皆無を
毎日体験しています。
ある予測には2300年には「日本人」という人類は滅亡、
これは「少子化」や今回の日本列島・放射能汚染からも
かなり想像可能になってきています。
だとするなら、東日本の復興ではなくて、
日本列島全体の復興という名の「新生日本システム」化です。
無策性と能力不足への対策は、想像性と創造性、
懸命さと賢明さ、精神性・日本人としての意識改革、
これらを各個人意識とそれを先導するリーダーが不可欠です。


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「デザインを読むという解釈」


   


     7月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

デザインされたモノを知ること。
それはデザインを読み取るということ。
デザインの背景、動機、手法、意味などを
読む=解釈するということになります。
ユーザーにとっては、
デザインされたモノと対峙したとき、
その直感で自分との関係を知るだけのことです。
しかし、職能家としてのデザイナーならば、
デザインテーマ、すなわちデザインが問題解決したこと、
そのプロセスを読み取る=解釈することになります。
したがって自分のデザインではない他のデザイナーのモノ=作品ならば、
「解釈」への手続きは次の三つの段階を経ているでしょう。
まずテーマ・問題あるいは課題を解体したり解剖したり溶解します。
これは問題解決の最初の段階です。
ところが、他のデザイナーの問題解決ならば、
読み取り過ぎることが多々あることです。なければなりません。
その問題解決をしたデザイナー以上に深く、
あるいは大げさなほど知り尽くそうとするかも知れません。
それは解釈し過ぎになるでしょう。
けれども、デザインの本質にとっては、
デザインそのものの社会的職能意義を明確にする手続きです。
デザイン手法をさらに明確化する重大性があると私は考えています。
言い直せばデザインの解釈とはまさしくデザイン評論であり,
デザイン評価の根幹はこの解釈段階にあると思います。
問題自体の解体・解剖・溶解・分解を経て、
そのデザイン要素や要因を解釈・解説し直すという作業の重大さこそ、
デザインの本質を突き止める二段階目だということです。
ややもすれば読み取る「解釈」は、本来デザインをしたデザイナー、
その問題把握力を上回っているかもしれません。
しかし、デザイン評論やデザイン評価が必要だというのは、
この深読み解釈が次のデザイン手法をそのものを
拡大・進化させる大きな手かがりだと考えるべきでしょう。
無論、一つの方法論です。
私は、今や「天才」と言われる倉俣史朗の問題解決、
その手法から動機、結果、意味を深読み解釈しました。
私の深読みが彼を天才にならしめているとさえ思っています。
歴史は、後世その解釈によって、
歴史事実を小さな物語から大きな物語にします。
その中心人物こそヒーローでありリーダーであり天才となるのです。
そしてこの歴史記述こそ、
人間が綿々と連鎖させてきた「知恵」の集積という伝統だと考えます。
解釈をし尽くした時、人は「解放」されることになります。
それが問題解決した効果・結果ということでしょう。
今日、私は「「倉俣史朗のデザイン」」を、
デザイン界の形見として私の解釈を語るつもりです。

夢の形見に」講演会


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『資本主義からの逃走』
    「2010年・行学は『かたち』創出をめざす」


   


     12月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

空なる「かたち」を
ボールペンスケッチの一年。
私のスケッチはまずラインに込めます。
思考の集約と収束が描くのは「空」です。
いつも「ことば」にこだわりながらも、
「空」のラインが立体化していくと私の「かたち」になります。
「ことば」思考もすべてを「空」なるまで自分を追い込み、
思考の集約も収束もボールペンBとモレスキンJapanese+iPadに走らせます。
ただ、iPadでのスケッチはまだまだ私の表現力不足です。
私のスタッフたちにはマーカーを捨てさせて、スケッチパッドでレンダリングを、
しかし3Dレンダリングよりも、ソフトモデル=ペーパー実寸モデルづくり、
光造形でのラピッドプロトタイピングをマスターさせています。
次世代、次・次世代デザイナーへの行学のススメです。
ところでこの一年、私が感激し感動するデザイン造形=かたちは創出されなかったと思います。
そして、確かに韓国はじめアジア諸国のデザイン表現力は格段と進歩してきました。
ガラパゴスと呼ばれるわが国の産業界ですが、
私は、真のデザイン力はまだまだわが国に潜んでいると思っています。
悲しいかな、「かたち」を創出できるデザイナーは激減しています。
理由は二つでしょう。
デザイナーの創造力を見抜けない経営者、センス無き経営者ばかりになりました。
いわゆる政財界にリーダーがいないことです。
そして、デザインへ、デザイナーへ、先行投資をという大きな器ある人物も激減していることです。
となれば、あらためて日本の技術と日本のデザイン、
このアライアンス基盤をもう一度リストラクチュアリングすることでしょう。
「空」なる「かたち」という日本文化を表現できる次世代を育成すること、
これが私の世代、私の役割だということを思い知らされた一年でした。
だから、私は私の「空」からの「かたち」をボールペンでともかく描き、
来春には、その「製品」そして「商品」を準備することはできたと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「#e-Learningという幻想、そしてやっと現実化か#」


   


     4月 21st, 2010  Posted 5:22 PM

TV電話での講義経験
私は社会人向けのデザイン講座を17年間やりました。
福井県鯖江市にSSID=鯖江インテリジェントデザイン講座でした。
土曜の夜、7時から、翌朝2時までということもしばしば。
25名定員で4回欠席したら除籍としました。
1年間で平均10名から15名程度を輩出しました。
私が、名古屋に引っ越したとき、
ISDN回線・TV電話会議システムで土曜は、
講義を名古屋から鯖江にしていました。
新市長にはこの講座の将来性を見通せなかったのです。
それで、この講座は17年(約230名修了)で終わりましたが、
今なお、講座が主体でのNPO=SD-waveになっています。
その講座修了生が、
小浜市で「オバマ氏を勝手に応援する会」のリーダーだったりでした。
国際メガネデザインコンペもこの卒業生が連続グランプリを取っていました。
e-Learning System
それから、私が阪大フロンティア研究機構設立時に、特任教授になり、
その機構で本格的なe-Learning Systemの開発に入りました。
400名の生徒を相手にするプログラムは、
韓国製を選ばざるをえませんでした。
なぜなら韓国はすでにスタートして充実したソフトがありました。
その頃から、e-Learningが「これからの教育」と
喧伝されるようになったと思います。
しかし、それほどめざましく日本は進展しなかったのです。
Ustream&Twitter→e-Learning
それは、あたかもパソコンと電話回線、インターネットで、
先生・対・多数の学生が、
あたかもユビキタス的な教育環境と思っていただけです。
ところが、iPhoneとTwitter、さらにUstreamは、
今まさに、e-Learningの革新が起ころうとしている予感があります。
それは、単なるユビキタス的ではないことです。
つまり、教師が軸となっても、
学生にあたる聴講生が常に「Twitterコメント」を入れられることが、
「何か」をやっと暗示してくれているのです。
妄想・幻想から「現実化」
まず、教育環境でのe-Learningには大きな幻想があったことです。
それは幻想どころか妄想だったのかも知れません。
つまり、妄想・幻想は、
パソコンをツールとして、「教える・対・教わる」が、
まったく、インターネットなりの学校的空間に、
教室がユビキタス的な存在という、
形式そのままの転用でしかなかったことです。
最近、UstreamTwitter で、
私は自分の講義の「分配」方法としてみました。
そして、発見したことは、
e-LearningでのTwitterが、
視聴している=教わっている人からのつぶやきが、
「双方向」であるという形式の重要性です。
この「双方向性」ということは、
確かに、当初のe-Learningにもありましたが、
実はまったく違うのです。
このTwitterとしての受講生を読み取りながらという講義方法は、
e-Learningの「内容」を革新してしまうでしょう。
私は、それが、「現実化」していく「要」だと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 *「志」ある者たらんとすべし*


   


     11月 9th, 2009  Posted 9:57 AM

「新渡戸国際塾シンポジウム」に参画しました。
国際文化会館で開催されました。
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最近はなんといっても、
この会館は、私の東京の仕事場です。
ここは恩師の推薦で会員になりました。
もうすっかり、会館の方々とは仲良しです。
シェフは、私の「好き嫌い」も見抜かれていて、
深夜にたどり着けば、夜食をいただいたり、
風邪っぽいと、特製の飲み物をいただいたりという
とても心地よい場になっています。

東京の中心でありながら、すばらしい緑に囲まれ、
美しい庭園をながめてひたすらスケッチできる場です。
デザインの会議やプレゼンテーション、研究会議まで
お世話になっています。
この会館の生い立ちは、ともかく国際交流や海外からの
学者・芸術家のホテルにもなっている場所です。

「新渡戸国際塾」に入塾するには高度なテーマで、
その論文審査があります。さらに面接です。
そしてバイリンガルでなければ塾生にはなれません。

今回は、その第一期生企画のシンポジウムで、
テーマは「日本の突破口を探る」という難解な課題に、
まずパネリストとして、15分間議論への私論を
プレゼンテーションしなければなりませんでした。

いつもの私流のために、親友である撮影監督の柏原氏に
人工心臓3rd-Modelを撮影してもらいました。
もうたまらなく美しい映像を
撮影そして編集してもらいました。

ともかく、私は、PKDとBOPへのデザイン実務への「志」を語りました。
塾生は、これからのリーダーになっていくことを、
自らも自覚し、周囲からも期待されている世代です。

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につきると思います。
撮影監督の柏原氏は、
大事件でのスクープ撮影では、伝説をなし、
世界遺産を撮り、今、最も美しいCFは彼です。
その彼と私には共通することがあります。

http://frameof28mm.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
撮影監督の映像制作ブログ Frame of 28mm
「図書館の人々」を読んでください。

彼は、独立して、どれだけ芸能関連やワイドショーに
関われば、プロダクションとして自立できるかを
知りながらも、一切、関わらなかったプロです。
私もこの仕事をやれば、金になるのだが・・・
ということを拒絶してきました。
私は、幾たびも、デザインが実現しなければ、
デザイン料をクライアントに突き返してきました。
今も、その信条はくずしたくありません。
「志」が狂えば、「美」は遠のいていくのです。
自分の役割と責務を放棄するデザイナーなどは、
殴り倒したいとすら思っています。
そんな勝手な輩がデザイン界にいることは無念です。

「新渡戸国際塾」のみなさん、「志」です!
自分には、嫌いで、嘘っぽくて、損をしても、
「正しい」ということに、
命をかけられるか、でしょう。
人道と人情の話、民主主義の正しい解釈と有り様を、
国際的に発言し、実行しているパネリストの方々から、
新たな勇気とかつてからの「志」に目覚めました。

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