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Posts Tagged ‘レトリック’


「人は『闇』に生きていく」


   


     8月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

『闇』に人は囚われています。
闇の実感は「音」ともに存在。
それは漢字の意味にも示唆され、
「生きる」意味に直結していると思います。
闇の世界、闇世界とは意味が異なります。
闇世界=「やくざ世界」を比喩していますから除外しておきます。
さて、人が対峙するのは、三つの闇の世界です。
社会現実の闇の世界、これは知る人知らない人がいるでしょう。
リアリティの闇の世界です。
知っていても、決して触れられない世界、世界観があります。
バーチャルの闇の世界。
これはイメージ世界であって、個人性や個人的な想像世界観です。
そして、本来の闇の世界というのが、真実としての闇です。
すなわち、私たちが「生きている現実から死まで」の闇です。
パウル・クレーが最も見事にこの世界哲学を視る方法を、
ことばとして、理論として書き残してくれています。
「カオス」から書かれている「造形思考」の記述があります。
イメージをいわばプリコラージュできるという記述です。
私が闇を最も意識し認識し、「音」世界で追い求める動機です。
さて、闇の世界に想像が届くかどうかを人は毎日対決しているのです。
私たちは「闇」から生まれ「闇」の世界に戻ります。
「生と死」は闇の世界観そのものでしょう。
だから、私たちが生きていくことが突然断ち切られるのは、
常に傍らには「闇」=カオスではなくて、
ブラックホールの淵に居るのでしょう。
きっと私たちは闇を最も怖れるからこそ、
「音」≒「音楽」で支えられているのだと私は思っています。
闇とはアナロジーでもメタファーでもなくて、
「生きていく」ことのレトリックだと考えています。

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「歴史的文脈のエネルギー=原子力の修辞性」


   


     5月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力への論争は激烈です。
この論争には脱原発公言が勝ち馬です。
原子力を制御できるのは
爆発条件を付与する想定のみ。
ナガサキ・ヒロシマのトラウマは、
フクシマでさらに原発アレルギーを再発させました。
「安全神話」は修辞性=レトリックに過ぎず、
修辞性という加飾性など剥ぎ取られて当然でした。
2007年、大学人・私の発言を封じ込められた体験があります。
原子力学者達はこの加飾性を認めても私の提言を阻止しました。
結果は無残な現在に至っていると私は判断しています。
ふるさと福井に原発を持つ一人としての冷徹な提言でした。
この現実では歴史の文脈の最下層をみつめるまなざしが必要です。
まなざしは原子力は今なお蒸気機関であることに注視すべきです。
つまり、蒸気機関はその性能によって爆発は当然なことです。
そしてその原料は、森林→石炭→石油と変遷してきました。
ヨーロッパの森がすべからく伐採されてしまったこと、
それから「産業革命」が始まったことは忘却されています。
やがて森林の代替を地下の石炭に見いだし、
新たなエネルギー源の収奪が国際政治地政学の大きな背景となり、
世界大戦の具体的目標は、石炭の収奪だったわけです。
それを論理的にイデオロギーの対立化に見せかけたのは、
「隠喩性という病い」の蔓延だったと私は理解しています。
石炭→石油へと移行していけば産業経済の中心は石油資本に集中。
わが国が石炭→石油ということにおいては、
世界的な孤立を余儀されることになります。
これこそ歴史的な国際政治の強要だったと見ておくべきでしょう。
しかも、国内での炭鉱労働・労働争議にイデオロギー闘争も、
まさに同次元でなおかつ同位相で重なっていきます。
ところが今、地球から枯渇寸前となっている石油は、
天然ガスとなり、石油流通というよりガスパイプの配置が、
イデオロギーから宗教対立と言わざるを得なくなるのです。
この事情は、戦争をテロリズムと言い換えることになります。
石油よりもさらに科学と技術のまさに融合は、
そのままウラン鉱の発見、原子力からのエネルギー変換は、
二つの事象につながっていくのです。
核弾頭という原爆武器と、その使用防止は平和利用と修辞されます。
拡大する電力消費エネルギーとしての原子力発電所建設です。
しかも、宇宙船地球号として合意認識を無視した、
国民主権下での原子力発電所管理は各国家体制に委ねてきた、
人類全ての怠慢性であったことを認めておくべきでしょう。
そして、一方では、ポストインダストリーが情報社会になり、
そのエネルギーの根幹である電力消費は格段に増加していきます。
私は、今、原子力への対立構造を、
あたかも世界市民的管理という
またしても幻想に押しこめようとするの歴史文脈無き思想を、
机上的な修辞として告発しておくべきと考えています。
エネルギーが隠喩性から「神話」という修辞性に置き換えること、
ゆえにヒロシマをフクシマにしてしまったことは大失策です。
しかもこの大失策を「脱原発」へ連続させることは、
エネルギーの歴史的文脈性、その熟読不足と考えざるをえません。

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11月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 30th, 2010  Posted 10:00 AM

11月30日 仏滅(甲申)

文学とは、
文章博学ではなく、
本来はこの恋愛という
人間関係のレトリック(修辞法)、
あるいは
メタファー(隠喩)、
アポリアの組み合わせが
基本なのかもしれない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』会者定離


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『資本主義からの逃走』
 「スープの冷めない距離=身体空間は多次元性です」


   


     10月 14th, 2010  Posted 12:00 AM

空間認識として
身体空間という一つが空間認識を指しています。
身体空間・空間認識いづれも小難しい表現ですが、
自分と空間との関係性あるいは構造性のことです。
空間認識というのは物の存在と自分の空間での位置、その物との関わり方に他なりません。
要はその物との距離と方向で認識することで、
物理的に、自分の体=身体がいわゆる空間のどこに位置しているかを認識できます。
この認識できる力があることから、身体空間と呼んでいます。
私は、デザイナーだから、ユーザーが私のデザインしたモノとの関係は、
結構、レトリックとして多次元的で多様性があるのだと思っています。
それは、E.T. Hallが言い出したプロクセミクス=proxemicsが整理してくれています。
ここから、レトリカルな日常感覚での身体空間、さらにはモノと身体の関係性が明快です。
彼は、「人間と人間とがどんな接触をし、その距離の取り方」を
本当にうまく分類したと思ってきました。
プロクセミクス=proxemics
  
  ● 密接距離(愛撫・格闘・慰め・保護する距離感覚)
  ● 個体距離(常に他者との分離していいる自己感覚的な距離感)
  ● 社会距離(社会的な用件を果たそうとするだけの距離感)
  ● 公衆距離(公的な場でとるべき距離感)

スープの冷めない距離
そして、今ではこれらもある種の情報の介在によって、
感覚、たとえば触覚や視覚などが操作されることで随分と変質してきていると思います。
よく「手のとどく空間」という言い方があります。
これは「スープの冷めない距離」という言い方にも通じます。
結局、「多次元」という言葉が、数学や物理用語を超えて多様な意味の拡大をさせてくれます。
だからこそ、回帰して数学での次元性や物理的な次元性を確認すればするほど、
身体空間という、距離と方向がレトリックにそれこそ肌感覚に捉え直すきっかけになります。
その動機づけこそデザインの大きな役割だと思っています。
私は、親近感・親密感・親和感と言いかえることで、
これらそれぞれの多次元性と多様性をデザイン造形にしています。
そして、今ではもっと重大な身体空間に行き着いています。


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『資本主義からの逃走』
  「情報としてのトポロジー・トポロジーとしての情報・2」


   


     9月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

トポロジーへの興味と近接
数学術語「トポロジー」は当然、数学領域の学論です。
この術語の定義を知り尽くすのは、数学者ならばきっといとも簡単だったはずです。
ところが、術語の概念がひとり歩きはじめたがゆえに、
決して、通常の学校教科書では、レトリック的な図形で表現されてきました。
しかも、「トポロジー」という言葉の持つ響きや耳障りの良さは、
様々な領域で、概念そのものを拡張してきたのだと思います。
私が知ったのは、建築評論や記号学的なレトリックでした。
よって、数学定義らしきものに興味をいだき近づくまでは、
私自身の数学的な発想が、図形、場、空間、形態、形体などを考える一つの動機でした。
そして、まともに知りたいと考え出したのは、
光造形システムが登場した1985年あたりからだったと思います。
UNIXがEWSを制御し始めて、シリコングラフィックスのIRIS3030を米国で買い求めた時に、
「トポロジー形体」である「トーラス」や「メビウスリング」を
まだまだ試行錯誤しているカナダのALIAS社に、
特別に個人教授でCGを学びに二夏も通った頃でした。
この話は以前ここで紹介したことがあります。
まず、私は「トポロジー形体」と表記しました。形態ではありません。
なぜなら、「トーラス」いわゆるドーナツ形状は丸い筒がまた円形立体化している形体だからです。
さらに、「メビウスリング」も、リボンの端と端がねじ曲がって繋がっている形状ですから、
これもリボンが一度捻られた形体です。
トポロジーと情報との相関と分別
ところが、問題は、
これらは厳密には数学定義化されている「トポロジーのようなモノ」=「トポロジー的な印象を
比喩したモノ」に過ぎないわけです。 現実界に存在はしていない形体です。
つまり、数学的な空間論の問題をなんとか可視化しただけのモノでした。
当時、光造形で作成された歯車を見たとき、ALIAS社とプリンストン大学との産学協同開発は、
数学的な空間論、二つのことをテーマにしていました。
「Natural Phenomena」と「Topological Form & Space」のdescription languageの開発でした。
これは後に詳説したいと思っています。
私が直感したのは、
トポロジーという数学的思考を情報化することは、とてつもなく数学の専門家でなければならず、
そこでの「トポロジーとしての情報」はほとんど理解不可能な領域になるだろうということでした。
しかし、もう一方では、「情報としてのトポロジー」は、
それこそ、「コーヒーカップとドーナツ」が同一形態であるという視覚化で、
なんとなく、これぞトポロジーと言って理解されてしまうだろうということでした。
トポロジー・言葉と知識へ近づけるだろうか
現在も、「トポロジー」という言葉周辺は、
数学で語られる「トポロジーとしての情報」と
哲学で語られる「情報としてのトポロジー」が共存しています。
著作名を例示すれば、前者は「Essential Toporogy」という数学書であり、
後者は「Heidegger’s Topology」という哲学的な解説書になっているようなことです。
これは、トポロジーという言葉あるいはテーマを挟んだ思考論理です。
そこで、私は、トポロジー形体をトポロジー形態化を、
本当に「可視化」する手法として、
光造形システム、現在、産業界において存分に利用できうるラピッドプロトタイピングでした。
明らかに、図形で可視化させようとした数学的な情報化を造形できるだろうか、
これが、トポロジーを自分が理解するための近づき方でした。


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『資本主義からの逃走』
      「情報のトポロジーへ・1」  


   


     9月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

トポロジーからの造形発想
「トポロジー」という言葉は、本来の数学術語から、
レトリックとして、意味の拡張があります。
それは、現代社会・現代時代、情報化の根幹に関わっていると私は判断しています。
高校時代に出会った言葉にいまなおとらわれている次第です。
私が大学人の道に入っていっていくとき、恩師と相談した要の用語でした。
いくつかの理由がありますが、代表的には次のようなきっかけでした。
■ プリンストン大とALIAS社で開発されていた光造形システムに出会ったこと
■ 光造形で点・線・面の数学的定義が特に造形思考が大転換という直感・これは現実になりました。
■ デザインもトポロジーのように意味の拡大や拡張していくという平行例示となる。
■これこそ、社会的学識・知識・意識への学際的な社会的職能性を変革すること、これも現実化。
などなどです。以上の例示は私だけのデザイン作品にとどまっていません。
受け止められる才能や資質、特にセンスは限定されています。
大学人になることを後押ししていただいた
哲学者中村雄二郎先生に示唆されたこととが根本にあります。
それは、学際化を臨床的、つまり学際性を最も端的に表すデザインこそ、
情報とトポロジーの接合部があるかもしれない、ということでした。
具体的に見つかったのは、「人工臓器・原子力エネルギー・ロボット」であり、
現在はその統合的・根源的なコンピューターとロボティックス医療機器です。
情報とトポロジーの学際思考の具現化
そして、不思議なことは、「十牛図」に出会いました。
これが今私に、「情報とトポロジー」を結び付けようとしてくれています。
昨日、舞踊家・西川千麗さんと京都大学名誉教授・上田閑照先生と対談することができました。
対談後に、「情報とトポロジー」は、さらに私の中で強力に結びつきました。
私のトポロジー思考のデザイン化は、
海外でいわば応用というより「オーガニック空間論」とかで、模倣されています。
これはあまりに大きな誤解があるために、米仏中心に活動を開始しています。
これは情報とトポロジーが遮断されたデザイナー思考に偏向し過ぎているからでしょう。
私は、格別に「情報としてのトポロジー」と「トポロジーとしての情報」、
この四句分別は昨夜、上田先生に講演控え室で個人教授していただきました。
なぜ、「色即是空」があり、「空即是色」、
さらには「身心脱落」があり「脱落身心」があるかという、現成公案手法でした。
私は、「トポロジー」が歴史的には、
無論、数学的発想だったことが形態に連合していたことに最も興味があります。
しかし以後、社会学などにこの術語の引用や転用が起こり、意味が拡張しました。
この拡張化に心惹かれることはなく、いわば数学的な発想が形態化していたことです。
数学がコンピューター運用、つまり情報学での数学解析が再構造化されてきたコンテクストから、
私は、光造形システムで、「トポロジーのような形態」造形を試みてきました。
これは明らかに、これからの「情報」が「トポロジー」なる数学思考そのものを、
学際的に、さらに進化を形態的、形態論に新たな核心をする証左になるものと私は断言できます。
しかも、この「情報とトポロジー」は具現化されていくことが次第に明確になってきました。
象徴的には、「エネルギー思考」や「情報伝達手法」の計画がすでに手元に届いています。


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『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・5」


   


     7月 23rd, 2010  Posted 12:45 AM

付加価値論への議論意志
私はデザイナーとして、
「デザイン価値」は「付加価値」ではないことを、
経験上から様々な角度から述べています。
そして、デザイン価値は「全体価値」という結論を今後も変えることはないでしょう。
しかし、デザインはやはり「付加価値」と断言する人を、
批判も非難もしようとは思っていません。
まして揶揄したり排撃する志はまったくありません。
ただし、議論をする意志は明快に持っています。
その理由は、
人間は様々な「価値観」・「価値感」を持ち合っていることまでを否定するようでは、
自分本来の志としての美学性を失うことになるでしょう。
そして、あらためて私の役割は、
「デザインは付加価値ではありえず、全体価値」ということを
実作・製品・商品・デザイン運動で証明していくことです。
「ことば」と「かたち」の相対性を発言していきます。
前回は、人間とモノの関係=近さという距離性と距離感について記しました。
それをさらに、深めておきたいと考えます。
近さ・隔たりは、次の言葉が距離構造の術語として上げられます。

● 近接=nearby
● 近似=approximation
● 近傍=neighborhood

こうした言葉が術語化される領域は、文学から数学までに及びます。
したがって、それぞれの学問領域で術語意味を確認しなければならないでしょう。
たとえば、「近似」=approxiationは数学術語ですが、
これが文学としては、島村抱月の戯曲術語として残っています。
演劇用語であることは意外と知られていません。
むしろ、数学での近似値・近似式・近似計算の方がなじみがあるでしょう。
私はこうした術語定義は、
レトリックやアナロジー、あるいはメタファーとして、
デザインによる造形論理への展開ができると思っています。
それが、私が「ことば」と「かたち」・対・「かたち」と「ことば」、
この相補的でかつ相対的な論理性であり、
この論理無き造形感覚には、
「全体価値」、すなわち、「問題解決」と「難問解決」、
これらの応答・回答・解答成果=デザイン価値は創出されないと確信しています。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・5」


   


     4月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

結論
私は三つの実存的な認識論をデザイン手法の背景にします。
循環性
まず、イノベーションは、単なる「技術革新」というのは、
ひとつの局面的な解決行為であり、解決方向でしかありません。
本来の意味には、経済=経世在民を維持するための意欲、
その活性化、それは循環性でした。
簡潔に言い切れば、「景気」という日常感覚の社会生理感であり、
そのままの実存性で語れば、「生きがい」や「働きがい」です。
したがって、再度、なぜ技術革新と直結しているのかといえば、
技術・技・術という行動規範や意欲活性化の方法と思います。

私たちの環境の要因には、
物質・情報・エネルギーが要素、その基軸性があります。
それぞれの軸性が、
活動的な時間性や経年性が加われば、要因化します。
この要因化へ向かう循環性がイノベーションと理解可能です。
アポリア
ところが、この循環性を遮断し、
到底維持も実行も不可能化することを「アポリア」と言います。
もし、循環性=生きがい・働きがいの停止は「死」に至ります。
実存的には、絶望であり、死に至る病と言われました。
現実、技術進化は常に「遮断性」が待ち受けています。
循環性の停止が不可避事態が発生します。
その時の姿勢は二つしかありません。
積極性と消極性
その事態への積極性と消極性です。
この極性から考えれば、
技術を受け入れるか、技術を拒否するか、の二者択一です。
最も顕著であるのは、
エネルギー技術論に反映していることは明らかです。
積極性の分離対決こそ誘発因
その実例が、「原子力運用」に関する賛否両論議の熾烈さです。
原子力技術は、問題解決をアポリアとする消極論と、
問題解決の技術推進への積極論は、
問題解決の技術停止への積極的な反対論が、積極論を分離しています。
私の判断は、この原子力技術の推進・対・反対という積極性、
この対立が、イノベーションの反発誘発だと考えることこそ、
最も知的なデザイン手法が主導するイノベーションの、
レトリック、あるいはメタファーとなるものと判断しています。
デザイン態度
したがって、デザイン態度、すなわちイノベーション支援は、
技術革新への姿勢としてのデザイン手法を明確化する、
その分離積極性の有無こそ、結論だと思っているわけです。
エネルギーによっての、物質と情報へのデザイン手法が、
現在最も論議を決着し、緊急的な具現化の創出が求められているということです。
デザインによってのみ、イノベーションの誘発は、
いわゆる文理融合であり、分離融合とさえ断言できます。


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『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


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『資本主義からの逃走』
  「価値と存在、その装置化ループを仮説化」


   


     12月 20th, 2009  Posted 11:00 AM

「生産と消費」の構造は、特に第二次大戦後、
資本主義のサイクルで産業経済論的な効果がありました。
しかし、
「生産」と「消費」がいわゆる景気循環によって、
支えられてきた国家・社会体制は限られていました。
そして「不況」ともなれば、
その景気循環は、世界を飲み込んだ大問題となりました。
つまり、
問題が及ぼしてきたのは、「価値」と「存在」です。
価値」はまず経済価値からスタートし、
結果は、「働きがい」・「生きがい」へと連鎖しています。
「存在」は、
地球環境、自然環境、人工環境での人間への問題です。
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によって、
「生産」と「消費」の
point of contactへの関与性でした。
私はこれらをループ化することで、「デザイン」の位置が
きわめて明快になります。

情報化・・これは経済社会論を変貌しました。
存在化・・ontorogyの問題は価値観のレトリックです。
再生化・・いわゆるリサイクルの手法はまだ不完全です。
生態系化・地球環境全体への国際関係の「制度論」です。

このループを「資本主義」が支える困難さと可能性は、
ほとんど論理性すら発見できていません。
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ということは、
価値」と「存在」は、
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に対するサイクルループで、
システム設計とダイナミックス設計が、
人類に課せられている、「緊急かつ重大」な「問題」、
ということにほかなりません。
果たしてそうしたサイクルループに装備できる「装置化」、このデザインこそ、デザインによる人間と環境との
創出・代謝循環・交代、
それぞれの調和と存続につながっていると思います。


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