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『動物実験の詳細:深紫外線の消毒機器デザインで』


   


     8月 6th, 2016  Posted 12:00 AM



大腸菌は基本的には無害ですが、雑菌(こういう名前はありえない)です。
しかし、最近はO157などは大変な病原菌になっています。
大腸菌が河川や海などの環境汚染の指標菌になっていることからも
検査の指標菌であり、
一般的にはこの菌への影響力は基本的な菌存在の有無です。
まず、深紫外線での菌繁殖性を完全に食い止めることを指標にしました。
それから創傷直径8mmφをラット36匹を4つのグループに分けて、
 ● 創傷のまま:コントロール
 ● 検査用消毒薬を塗布
 ● 深紫外線 UVC256nm
 ● 深紫外線と消毒薬を同時塗布
これは動物実験の阪大専門の検査機関によるものを学び指導を受けました。
実に心配だったことは、毎日朝夕に結果を知らせてもらう2週間でした。
いきなり、4日目には深紫外線がすでに治癒が始まったとの知らせでした。
研究室では大きな期待が膨らみました。
フォトニクスセンターの回答は「えっ、デザイナーが」でした。
デザインはとても軽く見なされていると自分には怒りがありました。
デザインの実務は問題解決であり、阪大には腸チフスを発見した先人、
福井県同郷の学者・藤野恒三郎氏がいました。
彼は阪大の微生物研究所初代所長であり適塾での使用品コレクターでした。
彼は橋本左内を受け継いだ阪大の名誉教授でした。
ふるさと福井にも知られていませんが彼の著作は近代外科史の代表作です。
自分はデザイナーながら、この動物実験結果で、
深紫外線の表面だけの殺菌効果の推移を見詰め直していました。
結果、2週間後に全てのラット、その創傷は完全治癒しました。
しかし、具体的には、深紫外線と消毒薬の同時塗布、
ほどんど同様な治癒が深紫外線でした。
消毒薬とスタンダードである自然放置が明らかになりました。
ただし、これは表面とその表皮の顕微鏡写真で明白になり、
デザインからの論文は提出学会選びになっています。
同様にデザインは日本デザイン保護協会届けによって、
知財権:工業意匠権を確保したのです。


* 『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』
* 「安易な包丁デザインは絶対しない」
* 『倫理観の原点、その詳細の要点を語り継ぐ』
* 「『医の知の未来』適塾175年・緒方洪庵没後150年=大阪大学」
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」


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『コンセプトから逃走してほしい・・・』


   


     6月 17th, 2016  Posted 1:00 AM



おそらく20世紀後半に、人間の思考は、
「コンセプト」に呪縛されてきたとようやく指摘できます。
この言葉は側に「概念」という訳語を
日本語解釈には持っています。
しかし、概念とコンセプト、あるいはconceptについて、
自分はデザイナーとして確かに寄りかかっていたことは
自白しておかなければなりません。
そして、デザインを教育する立場では、
まず、「概念」と「観念」についても、無論、哲学用語からも、
さらには「概念」と「観念」の間にconcept=コンセプトを置いた講義、
それだけでは自分自身が「コンセプト」のまともなあるいは正当な
その定義を確実に伝えたという経験はありません。
もっとも「コンセプト」を多用しているそれこそ、企業の開発、
あるいは大学での研究などにおいても、
「コンセプト学」などは皆無と断言していいでしょう。
したがって、自分が「コンセプト」とは何か?という説明では、
「端的に一言で言い切ってしまえる印象」ということが
的を得ていると一応思ってきました。
でも、これすら自分のデザイン活動の中で大きな疑念がありました。
特に大学人になってから、それこそ一流の学者たちが、
日常的に多用している「コンセプト」ということになると、
この疑念は明白に、思考的、哲学的、科学的な
「大間違い」であると言い切れるようになりました。
例えば、
黒というコンセプトと白というコンセプトと言い切った場合、
「コンセプト」で語られた白であれ、黒であれ、
印象の曖昧さしか残っていないということです。
断言すれば、黒は全てを飲み込み、いや包含していて、
白は反射して、概念でも観念でもありえない事実でしかありません。
かねてより、「観自在」に委ねられた人間の発想・着想、そして思考には
もっと連綿とした対立や対比が「ライン」で連続しているのです。
「コンセプト」を早く捨てることを推奨します。

*『空間へのdolly的な隠喩性という手法』
*『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
*『照明の文化論としての陰翳礼讃』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


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『人口ピラミッド視覚化で明確な高齢社会の重石』


   


     5月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



わが国の少子高齢化は人口ピラミッドの視覚化により、
明白な事実が確認できます。
自分自身が「団塊の世代・s22・s23・s24」の一人として、
この図解はきわめて事の重大さを納得させてくれます。
高齢化というより高齢社会は人口の巨大な重石になっています。
少なからず、1949年生まれの私には2050年はありえないでしょうが、
少子化の重大さは、いくつかの国家的危機を明確にしています。
まず、防衛的問題が政治的にはトップ問題ですが、
経済システムの大変更は
2018年大学問題・国公立私立大学は半分になるでしょう。
入学者数の無い私立大学は不要です。
そしてこの教育問題が産業経済への多大な影響になることは
すでに一般的には暗黙の理解になっていることは間違いありません。
最も重大なことは「年金問題」と「介護問題」がこの少子化の
人口ピラミッドを見れば一目瞭然となります。
18歳からの投票が可能になりますが、彼らの「不安」の中心は、
「政治に荷担しても何も変わらない」という印象から
投票しないという発言です。
しかし、この不安感の実態は「年金」問題もさることながら、
実際は「介護者不足」は2025年には250万人の介護士が必要です。
この実態は18歳には届いていませんから、
彼らの投票参加がなければ「シルバーデモクラシー」になるでしょう。
しかし、もし、投票がインターネットであれば、
18歳人口は彼らのSNSネットワークで、
マスコミ操作不要の新たなデモクラシーが出来上がります。
その時には、ネットワークによる新たなリーダーが求められるでしょう。
その時には自分は逝ってしまっているはずです。

*『日本システムが壊れた理由のひとつ』
*『災害への勇気と希望の世代間団結』
*『世界・世界観変革が始まる』
*『2018年=日本の大学制度は崩壊するかもしれない』
*『忘れた頃にを想定内に!』


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5月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

5月1日 先負(癸未)


発想が出来る人間資質は
限られています。
一般的には、
誰にでも出来ると言いますが、
私の体験では、
特にデザイン発想は
限定されている資質、
才能だと断言できます。



川崎和男の発想表現手法


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『存分なデザイナー能力が性能・効能・機能を編集表現』


   


     4月 30th, 2016  Posted 12:00 AM



編集者としてのデザイン、デザイナーとしての編集、
あるいは、デザイナーという編集者には
いわゆる
写真・イラスト・グラフィック・タイポグラフィ・レイアウトという
あらゆる表現手法が、デザイン発想を支援する性能があります。
これは小誌の性能を感性刺激としてくれるもう一つのデザイン能力です。
その代表誌は、いわゆる一般的なデザイン誌ではありません。
つまり、表現者がデザイナーであるという効能性を担保している小誌です。
これは著名であるデザイナーN氏の才能が可能にしている
デザイン戦略です。
したがってN氏と自分との年齢差は丁度10年という大先輩ゆえに、
これからの10年を指示してもらうと同時に
やはりデザイナーになるためのトレーニング時代はほとんど同一でした。
とてつもない厳しさに耐えてこそ、デザイン能力が鍛えられてきました。
この同一な体験があるからこそ
この小誌が訴求している全てを受容できます。
デザイン表現がデザインの性能をしつらえ、
デザイン効果がデザインの効能を仕組んでいることを知ってこそ、
初めてデザインが常に機能性で語られる一般性を拒否出来ます。
これからの自分の10年、その大きなヒントを得ています。
編集者でありデザイナーであるからこそ仕上がっている小誌には
デザインの性能と効能があるからこそ、
デザインと機能の関係が明白です。

*『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』
*『ようやく出版されたDEO=デザイナーのあるべき職能観』
*『ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある』
*『誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決』
*『デザインは機能美ではありえない』


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『思考の「考」は思うことを経験が判断する』


   


     1月 13th, 2016  Posted 12:00 AM



「デザイン思考」の前に僕は「思」についての概説をしました。
「思」という象形文字は頭蓋骨と心臓の組み合わせにより、
直感的で即応性のある認知を表しています。
そこで、次には「考」についても漢字の象形文字から、
系譜としての意味=原意を僕は求めておきたいと考えます。
これは「思う」という感性的即応的なことではなくて、
象形文字に至る系譜を見詰め直さなければいけません。
なんといっても「考」という漢字は、「老」にその起源をもちます。
「老」とは、白い髪が伸びて腰が曲がった人間、
つまり老人を意味していると言われています。
まさにこの老人とは、様々な人生経験を積んできた存在の姿形です。
この「老」という姿形をシンボル化している象形文字に対して、
老人が杖を持って佇んでいる姿形、
その象形が「考」となります。
これは経験がある人間が立ち止まって何事かを思い続けている風景です。
経験が直感を思い続けて思い込んでいる姿形だと考えることが可能。
思いの連続性に経験での判断が認知を支えて認識につがっています。
「思」があくまでも頭蓋骨の泉門と心臓での感情のままの生理性に、
体験や経験がその判断を再構成することは、
老人の佇みを後継の世代にも受け継がせることです。
それは教育で培ってしまうことでそれを人類の教養に継承させられます。
結果、直感として思うことを停止させて認知判断させることが可能です。
「思考」と「考思」が本来はあったのですが、
今では一般的にどうしても「思い考える」ことと、
「考えて思う」ことがあっても、「考思」は忘れられています。
しかし、僕はこの二つを再配置することで、一方に思慮があり、
一方に考慮があり思惑と考察が見事に直感=主観と客観があるのでしょう。
思識・思念と考証・考査も直感と判断のために思って佇んでいる姿形です。
「思」と「考」が時間軸と経験軸を認知の行動を明確に分離しています。
僕は
「・・・と思います」
「・・・考えます」、この二つには
思的な考証と考的な思識があるということです、
僕らが思惑することに決着するには考証が必要だということです。
思うことは考えることで認識がまとまるということになります。


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『芸術で学術は語り切ることができる』


   


     12月 14th, 2015  Posted 12:00 AM



学術性と芸術性が分断されてきた教育について
私は長い間、大きな疑問をもってきました。
単純には、二つの現象があります。
主要五科目=国・数・理・社・英と音楽・美術・体育という
この対比に日本の教育は縛られてきています。
最も体育というのはすでに間違いであり、スポーツでしょう。
そして、主要五科目が学術性とされ、音楽や美術が芸術性です。
幸いにして、私は美術大学に進学し、就職ではオーディオを選びました。
そのおかげで、美学の世界(美術と音楽)から、
学術性を外側からみてきた気がしています。
しかも、私はすでに大学人になってあらためて学術性の世界にいますが、
正直、今頃になって、講義内容を芸術=美術や音楽、
それらの作品をヒントに語っていくことで、確実な学生たちへの
講義教育での説得性と納得性を感じています。
しかも幸いに私が大阪大学大学院の医学系研究科から与えられた
そのミッションは、「コンシリエンス」であり、
それには「レジリエンス」といういずれも18世紀からの、
学術性と芸術性の「融合・統合」化でした。
明確に見えてきているのは、
学術性を延ばせば、芸術性は確実的に落ち込みます。
同様に芸術性が伸びれば、学術性が低下することです。
そして、この元凶は明らかに主要五科目で緊縛してきた教育でした。
この図は見事に一般的な能力が教育的な緊縛に閉じ込められた、
結果でしかないと私は思っています。
おそらく、この図に人間の能力が落ち込まないことを
私は目指していきたいと考えています。
具体的には、学術性+芸術性=デザイン、
それもコンシリエンスデザインであると結論づけています。
ちなみに、私は「Concept」:概念を教えるときに、
ベラスケスの美術作品である「ラス・メニーナス:侍女たち」を教材に、
芸術から学術での概念と観念を明示することができます。
こうした自分が元来デザイナーであり、デザイン活動での
芸術+学術=デザインを
新たな統合性として「コンシリエンスデザイン」を語るには、
私は、この図のような能力の低下を防御することを
最大に考えています。
今後、私は、学術性を語るには、美術作品・音楽作品で
充分に講義することが出来ると確信を持っています。


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『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


   


     12月 11th, 2015  Posted 12:00 AM



一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
つまり、論理性がある人間能力と、
感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
たとえば論理性と感性とはお互いに人間の知性そのものを分断する、
このように考えられてきたときに、明快な解答を与えたのは
カントでした。
もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、
感性力の低下が起こります。
これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
そこで、デザイン思考なる考え方があたかもこの対照性を破壊する手法、
このブームを生み出しました。
これはブームにすぎません。
だから私は、論理性のある人間も、感性のある人間も、
論理性があればあるほど、感性に近づき、
感性があればあるほど、論理性に近づくという手法が大事という、
これこそ「コンシリエンスデザイン」手法ということを
主張しています。
端的に言えば、感性と論理性の間にある完全円形は、
感性と論理性の対称性に対して、破れの現象を起こすと言ってきました。
もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる
感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。
論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。
この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、
この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事という
この教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、
すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
だからこそ、「コンシリエンス」を確約させれば、
「レジリエンス」=ストレスや敗北感以上に、
状況には決して負けない自己認識力の拡充さを創りあげると
主張してきたのです。
これこそ、論理的な思考に対して、感性、もっと端的には
直感が重要であると看破したカントの哲学的な提唱でした。
「直感なき概念は空虚であり、概念なき直感は盲目である」。
私は、この考え方こそ、
デザイン思考ではなくて「コンシリエンスデザイン」と呼んでいるのです。


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『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』


   


     11月 4th, 2015  Posted 12:00 AM



「KK塾」スタートは米国から、すでに大阪大学招聘教授である
濱口秀司氏の講演と私との対談、観客からの質問により、
予定時間を大幅に超える熱気の中で行われました。
講演内容は、林信行氏が、
会場から同時間のままSNSアップをしていただきました。
この実況があったためか次回参加者の申し込みが殺到しました。
したがって、ここでは私が彼との対談や観客への回答を
記述しておきたいと思います。
私からの対談テーマというか質問は、
IoTの今後、特に人工知能の可能性でした。
私は彼のプレゼンテーション映像や彼が認知している、
特に彼は「Bias的手法での成功例」や、
阪大親友・石黒教授との合作である2体のロボット会話、
その会話に、人間が加わるだけで、
2体ロボットには、全く人工知能化はいらないことを説明。
そこで、私の持論となりつつある「人工知能無理説」、
つまり、DNAと神経がロボットに実装されない限り無理を
人工心臓デザインの実際や、エボラ出欠熱がRNA破壊など
そうした実例での人工知能の無理説、無謀論を述べました。
人間細胞を決定している遺伝子=DNAはすでに解釈されていますが、
DNAを制御しているRNAを破壊するエボラ出血熱は
ほとんど医療治療は不可能です。
これは100億人を地球環境がとても支えられないことへの
自然淘汰なのかもしれません。
濱口氏の回答は明解でした。
ともかく仕事としての問題があれば最適解を必ず出しますという姿勢。
これこそ、私がデザインを学術性と芸術性を統合出来る能力者、
こうした次世代を大阪大学大学院の私の講座、
「コンシリエンスデザイン」で育成したいテクノロジストです。
そのお手本がまさに濱口秀司氏でした。
観客からの質問は二つに集約できました。
濱口氏は「ともかく練習・訓練が必須」でありその方法論紹介でした。
そして、私にも向けられた質問は、
自分の提案が拒否された場合は?でした。
これは私がデザイナーとしての40余年間の生き様でした。
私の提案が拒否されたなら、
「拒否する人物の社会的存在そのものを総否定する」ことです。
この意見には濱口氏も賛同をしていただきました。
理由は簡単です。
私はデザインからのイノベーション定義こそ必要と考えます。
イノベーションの提唱者であった
「社会階級論」著者・シュンペンターは、
革新ではなく、コンバイネーション(独)、
「新結合」でした。
これこそ、コンシリエンスであり、
これも18世紀の造語であり、対語であったレジリエンスを
現在の大学機構、特にデザイン系大学では
この教育が無いことです。
だからこそ、
私は「KK塾」でも一般的な認知論を開講したのです。
次回からこの講演レポートを配布します。

講演実況 by林信行氏*http://togetter.com/li/893475


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『何がデザイン思考かは終わったのだ』


   


     10月 4th, 2015  Posted 12:00 AM



デザインはエンブレム問題・盗作問題・Gマーク問題で
一般的な不信を背負ってしまいました。
これは未だにデザイン=問題解決の手法というより、
デコレーション・装飾性や付加価値性が強いからです。
一方では、「デザイン思考」これなどはスタンフォード大学からの
借り物に過ぎませんが、私はユニバーサルデザインを
米国から持ち込み、その定義を政府に提示した一人です。
しかし、ユニバーサルデザインも誤解され、
ヒューマンファクターデザイン:HFD、UXデザイン、
インクルーシブデザインなどの大勘違いを指摘しました。
そうして「デザイン思考」に行き着いたわけですが、
この借り物を「コンシリエンスデザイン」にしました。
根本は、March 11.2011東日本大震災から、
気候異変・感染症増大に対してのデザイン実務背景を整理しました。
これは文科系+理科系をさらに学術+芸術にして、
信頼学・価値学・保健学・防衛学を加えることで
安全・安心・防災・防犯へ。
デザインを危機=危険時を機会として
解決を図るデザイン実務文理学際学にすることが可能になります。
危機解決では、リスク:起こるであろう危険だけではなくて、
クライシス:起こってしまった危険との、両方の危険回避と解決を、
デザイン実務に向けるという論理的な図解も、
学術と芸術の学際はデザインに集約するという段階に至りました。
実際は大阪大学大学院の医学系研究科にこの寄附講座を設置して
後期からは私が授業をやり、社会的には「KK塾」を
霞ヶ関にある大阪大学の分校的な場所で講座を開設します。
講師は、私がすべてのとりまとめをしますが、
選び抜いた講師陣を配置することになっています。
「KK塾」は、以前は大阪で実施してきましたが、
どうしても東京でという
この要請が強いことや講師陣を東京にも拡大することができます。
「デザイン思考」が例えば、医工連携+デザインになってきましたが、
私が看医工学という、保健学がきわめて真の人間学、
それは環境化(人工:ロボットや情報と自然との調和ではない)に
最適であることをこの図解では、明確になっていると考えます。
当然にPKD=Peace-Keeping Designと「完全無菌」対「抗体保健」を
なんとしても3.11復興と気候異変+感染症防止に向ける開発は
年内には、「デジタルアッサンブラージュ」としての
機器装置からロボティックス情報環境づくりで
これがデザインであるという、
デザインと何らかの発想を大転換できると考えています。


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